第一話『make up』
騒がしい闇夜の中、遥香はアスモデウスに招かれてビルの屋上にいた。
開戦初日、遥香の目の前に広がっていた光景は、まさに夢の国だった。
水瓶を抱えた人魚に、雷を纏った巨大な狼、黄色いドレスを纏うシンデレラまでもが空を飛んでいる。
そして黒い鎧を纏った騎士や、逆に白い鎧を纏った騎士もいた。
「あれが、契約者……?」
『ええそうよ。契約者は自分の叶えたい願いの為に他の契約者と戦うの』
「私も……やってみたい……」
『でも、貴方は今さっき契約したばかりよ? 見た所、全員相当な高レベルだわ……それでもいいの?』
「私にはアスモデウスがいる……それだけで十分……」
それ以上、アスモデウスが言葉を紡ぐことはない。
遥香の微かな笑みに任せて、アスモデウスは心を開いた。
『私と一つになるのよ。私達は元から一つの存在……』
「私とアスモデウスは二人で一人……たった一つの存在──」
徐々に発光しだす二人の間に、濃い紫の球体が現れる。
そして球体は一気に肥大化し、二人を飲み込んだ。
眩しさに視界を腕でかばい、遥香は光が弱まってからうっすらと瞳を開けた。
『どう、今の気持ちは?』
「……何だか、体が軽い……って、ひゃんっ……!?」
可愛らしい叫び声の正体は、遥香が今纏っている格好だ。
薄紫色のぼさぼさだった長髪は、色を失って白く変色してさらに伸びた気がする。
しかも髪の隙間から左右に羊のような歪曲した角が生えている。
それは飾りではなく、触れば感覚があるし引っ張れば痛みも感じる。
向かいのビルのガラスに映る自分の眼球は黒く染まり、瞳は充血したように紅に変色していた。
コルセット型の黒い戦闘服の上から、ベビードールにも似ている透けたレースを纏っている。
何よりも露出度が高く、背中は肩甲骨の下まで露出しているし、胸元だって相当オープンな状態だ。
太股の半分下を包む黒いロングブーツと、お揃いの柄のサテンロンググローブは、まるでドレスを着ているようだ。
「あ、アスモデウス……この格好……」
『戦闘服よ。パートナーと一体化するとそのパートナーの姿に似た服装に変身するの』
確かにアスモデウスの姿と似てはいるが、胸元が大きく開いている上、大きな鳥の羽を重ねて作ったようなスカートも少し跳び跳ねれば風に煽られて中が見えてしまいそうだ。
『それは契約者にとって武器でもあり鎧なのよ』
「これが、鎧……派手……だけどそこまで嫌じゃない……」
遥香は赤面した顔を扇ぎ、息を整えて再度騒がしい夜空へと視線を移した。
「アスモデウス……あの人達、空を飛んでる……私も同じように飛べる……?」
『簡単よ。貴方も空を飛べばいいの。自分の背中に翼が生える様子をイメージしてみて?』
「背中に、翼……それで空を──きゃっ……!?」
二度目の可愛らしい叫び声。
なんと遥香の露出した肩甲骨辺りからカラスの翼のような羽が生えてきたのだ。
それも角と同じように感覚があり、自分の意思で動かすことが出来る。
『これで空を飛ぶのよ。あの黒い騎士も背中から翼が生えてるでしょう?』
他の四人と睨み合いをしている黒い騎士の背中にも、確かに黒い翼が生えていた。
本当に背中の翼で飛ぶようだ。
「飛ぶ……? どうやって……?」
『夢の中で空を泳ぐ感覚よ。鳥になったと思って空へ飛び出せばいいの』
「空へ、飛び出す……」
果たして本当にこの二枚の翼は私を空へと連れていってくれるのか、それとも地面に叩きつけられるのか。
遥香は恐怖心を捨てきれないまま、それでもアスモデウスを信じて今立っている場所から少し後ろへ下がった。
「お願い……飛んでっ……!」
助走をつけてフェンスの前で大きくジャンプする。
「ふぇ、あっ……きゃぁっ!?」
三度目の叫び声は、遥香自身の並外れた跳躍力。
フェンスの前で屋上の地面を踏み切った瞬間、とんでもない勢いで空へと飛び上がったのだ。
そして跳躍をそのままに、二枚の翼は風を掴んでさらに遥香を上へ上へと引き上げた。
「ぁ、うっ……飛ん、でるっ……本当にっ……」
『これが契約者の力よ。一体化もした、空も飛べるようになった。さあ次は実践よ。好きな相手を選びなさい。私が必ず勝利へと導くわ』
「分かった……アスモデウスのこと、信じてる……!」
遥香はもはや飛行のコツを掴み、契約者の集団へと突っ込んでいく。
この羽は自分の思っている通りに動いてくれる。
加速してほしいと思えば加速するし、曲がりたければその通りに方向転換してくれる。
遥香は完璧にものにした翼を持って、集団に混ざり込んだ。
「私の相手は誰かしら?」
散弾銃のように、バラバラに飛び散った水流の弾丸を放つ人魚。
それをすべて蒸発させたのは、薄緑色の電流を纏う巨大な狼だった。
「なるほど、アナタってわけね」
『お魚だねっ、これは美味しそう! こんがり焼いちゃうよ!』
……早くも対戦カードが決まったようだ。
一組目は背後にハープを浮かべる人魚と、電流を纏う狼。
「なら私は──」
「そこのドレスの人……私の相手をしてくれる……?」
遥香はたまたま目が合った黄色いドレスの契約者に声をかけた。
「白い髪に紅い瞳……死神がお相手とは、心底光栄ですわ」
ドレスの契約者は見た目に違わず丁寧な口調と仕草で遥香の歓迎してくれた。
死神と言うのは、どうやら相当高位な存在らしい。
「私、絆狩りと申します。以後、お見知りおきを」
「あなたは、強いの……?」
好きな食べ物は何ですか、と同じくらいの気軽さで聞いたその言葉が、まさかタブーだったとは、契約者になって間もない遥香には分かるはずもなかった。
「あらあら……死神だからと言って、私を甘く見てもらっては困りますわ。……殺しますわよ……?」
人生で初めて感じた、殺気と言うもの。
猛獣に襲われそうになった時や、銃口を向けられた時もこんな感じがするのだろう。
身の毛がよだち、全身の毛穴から冷や汗が吹き出す。
『怖じ気づいてはダメよ。私達は死神。六種族の中で最強の存在なんだから』
「ん……大丈夫、アスモデウスのこと、信じてるから……」
「何をぶつぶつと言っているんですの? 行きますわよ?」
「ん……いつでも来て……」
遥香には武器と言えるものが何も存在しない。
対してドレスの契約者、絆狩りは腰に六本も剣を下げている。
だが不思議と怖くはなかった。この拳だけでも、十分勝てると本能が言っていた。
「死神が相手ですし、最初から四本で行きますわ」
腰から引き抜かれた剣を片手に二本、普通の持ち方に逆手持ちを加えて計四本もの剣を持つと、絆狩りは地面を踏み抜くようなスピードで突っ込んできた。
普通の人間ならば反応速度が追い付かずに今頃三枚おろしだろう。
だが契約者となり、人間と言う枠を超越した今ならば、それが普通に肉眼で追える。
遥香は思い付きで絆狩りの手を受け止め、それを内側に捻った。
軽く捻っただけなのに、絆狩りはまるで自分で曲げているのではないかと言うほどあっさり本来曲がらない方向へと腕を曲げた。
「ぁぐッ……!? さ、流石は死神ですわ……や、刃を受ける前に正確に手を狙って無力化するとは……っ」
本当にただの思い付きだった。
上下両方ともに刃があるならば、柄を掴んでいる手を狙えばいいではないかと。
だが本来目視さえも許されないほど高速で動く刃の、柄を持った手を狙うなど限りなく不可能に近い。
「あなた……大丈夫……?」
『ダメよ遥香、相手は貴方を殺そうとしているのだから、貴方も殺す気でいかなきゃ』
「ん、でもそれ、犯罪……」
『人間なら犯罪よ。でも今の貴方はなに? 死神でしょ。死神は人の命を奪うことが本分みたいなものよ』
「あ、そっか……じゃあ殺そ……早く美味しいもの食べたい……」
……アスモデウスは思った。
もし人間の世界に"殺人罪"と言う法律がなければ、今頃この子は殺人鬼になっていたのではないか、と。
「おあいにくさまですけれど、今の私は一文なしですわ。私お金が欲しくて戦っているのに」
「……じゃああなたを殺しても……意味ない……?」
「もはや勝つ前提なんですのね。自信過剰にもほどがありますわ」
「お腹空いた……でもこれも経験……練習として戦う……」
『……まだ殺し合いってことの重大さが分かってないみたいね……』
法律がなくなっただけで、道徳がなくなったわけではない。
生ける命を奪うと言うことがどう言うことなのか、遥香はこれから思い知ることになる。
「にゃ……? アスモデウス、今背筋がぞくって……」
『すごい魔力と聖力がぶつかってるわね』
遥香と絆狩りがいる空中よりも、さらに上空にいる二人の騎士。
二人の騎士は何かを話し合った後、固い握手を交わしていた。
そして次の瞬間、二人の騎士は瞬間移動でもしたかのようにその場から消え去った。
そしてそれを合図に、他の契約者もこの場から去っていった。
「はあ……熱が覚めましたわ。また出直します。それまで互いに死ななければいいですわね」
それにつられてか、絆狩りもため息をついて遥香に背を向けた。
思わず手を伸ばした遥香の言葉も聞かずに、すごいスピードでこの場を離脱した。
「……これで良かったの……?」
『ええ、これでいいのよ。楽しみは、後に取っておいた方が面白いでしょう?』
遥香にはまだ分からないだろうが、今回は六種族それぞれの契約者が全員集合した滅多にない機会だった為に、互いに顔を会わせるだけの軽い戦闘をしただけだ。
「納得いかない……でも今はお腹空いた……」
『普段は何を食べてたの?』
「もらったパンの耳とか……お店から盗んだもの……」
さっき飛び立ったビルを目指して、遥香は飛ぶ速度を落としながらゆっくりと屋上を目指す。
『大変だったわね。でもこれからはちゃんとしたものが食べられるから』
「……盗むのは平気だけど……誰かから奪うのは気が引ける……変……?」
『変じゃないわよ。分かるわその気持ち。でも契約者は時には人から奪わなくちゃならない時があるの』
契約者の世界は奪うか奪われるか。
奪い合う対象に命すらも例外に漏れない。
『でもね、なるべく人の命は奪ってはならないわ。奪ってもいい境界線は物までよ。命を奪うことは、契約者であってもしてはならないわ』
「ん……殺されそうになったら逃げる……」
『ええ、それでいいわ。さて、昨日はもう遅いし、本格的に行動を起こすのは明日からにしましょう。食べ物は私がどこかで買ってくるわ』
「今晩はいつもの場所にいたい……離れると思うとちょっと名残惜しい……」
『好きにすればいいわ。眠っている間は私が守ってあげるから、安心して眠りなさい』
そうだ、これからは眠っている間も命を奪われるかもしれない。
それが契約者と言う世界。同じ人間に当たり前のように刃を向けて殺しにかかるような、そんな世界なのだ。
「ありがと、アスモデウス……」
遥香は先ほどの路地裏に降り立つと、畳んでおいた汚れた毛布を被りながら、明日に備えて眠り始めた。
今夜あった出来事が、すべて都合のいい夢でないことを祈って。
『それじゃあ、行動を起こすわよ』
後日のお昼前、アスモデウスは何故か元いた世界に行ってあるものを取ってくると言ったっきり、数分ほど姿を消していた。
そして遥香が拗ねて頬を膨らませ始めた頃、
『お待たせ、流石にその格好で街中は歩けないだろうから、適当な服を持ってきたわ』
「この服、綺麗……アスモデウスはお嬢様なの……?」
『お嬢様、は間違ってないけれど、厳密には神様よ』
アスモデウスは魔界から持ってきた、遥香の体型に合う服を見繕って遥香に着せてやった。
……ただ使用人のメイド服からフリルのエプロンをはずしただけの服なのだが。
しかし今はそれで代用するしかない。
アスモデウスが言っていた行動と言うのは、普通の女の子のようにおしゃれをして、美味しいものが食べられて、雨風を凌げる住みかを探すことだ。
『今日の目標は貴方に合う服を買って貴方を綺麗にすることよ』
「どうして……? 私はこれでもいい……」
『ダメよ、女の子ならもっと可愛らしい洋服を着なきゃ』
「私、今まで着飾ったことない……全部任せる……それでもいい……?」
『勿論、私に任せておきなさい』
いつの間にかアスモデウスも、遥香と同じフリルのエプロンをはずしただけのメイド服を着ていた。
「あなたも着替えるの……? 普通の人には見えないのに……」
「見えるようにも出来るのよ。これでものに触れたり出来るわ」
そんなアスモデウスが最初に訪れたのは、洋服屋ではなく何故か質屋だった。
「ど、どうしてこんな所に……?」
「資金を得る為よ。遥香はお店の前にいて。誰にもついていっちゃダメよ?」
「ん、分かった……」
そして数十分後、何故かとんでもない大金を持って出てきたアスモデウスに、遥香は驚きを隠せなかった。
「そ、それどうしたの……? まさか、盗んで──」
「いいえ? 私の持ってた宝石とかを売ってきただけよ」
持っていた、と言うより自分の邸の敷地内に転がっている、魔力が形状化して出来た水晶を適当に拾ってきて売っただけなのだが。
どの宝石にも属さず、なおかつこの世界にはないものなので、とんでもない値がつけられたと言うわけだ。
「安心して。誰も傷つけてないし、この世界のルールにしたがったまでよ」
「そ、そっか……なら、いい……今度こそ洋服屋さん行く……?」
「ええ、そうなのだけれど、まずは体を綺麗にしないとね」
「……? どこに行くの……?」
「銭湯、と言う所よ。人間界に来てから通ってる所があるの」
死神が銭湯に通いつめているとは、何ともシュールな話だ。
遥香は苦笑しながらもアスモデウスの後ろについていった。
「ここが……銭湯……」
水蒸気で蒸し反っている浴場を眺めて、遥香はただ呆然とする。
「少し熱いわよ。まずは体を流してね」
桶に溜めたお湯を頭からぶっかけられ、遥香は少し溺れたように口をぱくぱくと開閉した。
「髪の毛は括るわよ」
どこからともなく取り出したヘアゴムで、遥香のこれまたとんでもない長さの髪を纏めていく。
コンパクトになった髪の毛をいじりつつ、遥香はアスモデウスに連れられて浴槽に足を入れた。
「ふぃぅ……熱い……」
「最初は慣れないものよ。でもそのうち慣れてくるから。変身した時の格好と同じよ」
「うぅ……分かった……ふにぃ……」
今にも溶けてしまいそうに遥香は力なくアスモデウスに寄りかかった。
「あらあら、遥香ったら」
アスモデウスが浴槽から上がる頃には、遥香は完璧にのぼせていた。
足元のおぼつかない遥香を風呂椅子に座らせると、ヘアゴムで纏めていた遥香の髪をほどいた。
「本当に長い髪ね。いつから切ってないの?」
「生まれてからまだ一度も髪を切ったことない……」
それ所か両親に髪を触ってもらった記憶さえも……。
「だったらヘアサロンにも行かなきゃね。折角綺麗な髪なんだから、切り揃えて見映えよくしなきゃ」
今日一日、アスモデウスはとことん遥香をメイクアップしようと決めていた。
いつからかこの子のことが気になっていた。
路地裏で毛布にくるまって終わりの見えない毎日を過ごす遥香のことが。
(折角才能があるのに……誰もこの子を見てあげないのね)
端から見ればただのホームレスだろう。
だが契約者側から見ればこの上ない逸材だ。
性格は素直で言うことはすべて聞くし、何より吸収力が高い。
乾ききったスポンジのように、教えた知識をみるみるうちに取り込んでいく。
(少し臆病な所はあるけれど、それは私がカバー出来る。私はこんな子を待ってたのよ。一見何の特長もないようだけれど、言い換えればすべてにおいてバランスのいいステータスを持っていると言うことよ)
まだまだ伸び代がある。それこそ本当に、無限に成長していける。
「はい、目を開けてもいいわよ」
「ぷぁっ……にゅぅ……久しぶりにスッキリした……今度はアスモデウスを洗ってあげる……」
「あら、ありがとう遥香」
そしてお風呂上がりのお約束と言えば──
「やっぱり腰に手を当ててコーヒー牛乳よ」
「何だか、とても古臭い気がする……」
これがジェネレーションギャップと言うものか。
アスモデウスは神様の為、無論不老不死で年を取らない。
だから見た目が二十歳前後の見た目をしていても、生きている年数で言えば──
「さて、次はヘアサロンね」
「人生で初めて髪をいじる……って私は死神だから死神生……? あれ、死神ってもう死んでるから生でもない……」
「遥香、そこは深く考えたら負けよ。半分人間で半分死神なんだから、割りきりなさい」
「むぅ……納得いかない……」
「予約はしてないけれど、お金を積めば何とかなるでしょう」
ここでアスモデウスが大金の暴力に訴えた。
流石は七つの大罪を課せられし死神と言うことだ。
「次はいよいよ洋服よ」
「やっと……待ってた……」
「にしても……ここまで綺麗になるものなのね」
ヘアサロンを経た遥香の髪質は、光輝くほどに上質なものへと復活していた。
どうして磨けば宝石になる原石を皆放っておくのだろうか。
アスモデウスはそれが不思議でならなかった。
「人間界の洋服屋さんに行くのは初めてだけれど、魔界では結構おしゃれなほうなのよ。だから任せてね」
「ん、分かった……」
あまり感情を表に出さない遥香だが、今だけは心なしか頬が緩んでいるようにも見えた。
「どう? 着替え終わったかしら?」
アスモデウスの声に反応して、更衣室からひょっこりと顔だけをだす遥香。
まだ自分の格好に慣れないのだろう。
だがいつまでもそうしてはいられないので、アスモデウスは少し強引にカーテンを開いた。
「遥香、貴女……」
「ど、どう……? 似合う……?」
恥じらいながらもアスモデウスに自分の格好を見てもらおうと、遥香はその場で小さく一回転した。
蝶のラメがプリントされたキャミソールに合わせて羽織った、黒いシフォンフリルが特徴的なニットボレロ。
下は薄紫のソフトチュールパニエと言う、ゴシックをイメージしたコーディネートでクールな雰囲気を醸し出していた。
黒と紫の組み合わせが遥香の白い肌をさらに際立たせ、露出度が低いのにも関わらずどこか扇情的だった。
「すごく……すごく綺麗よ遥香……やっぱり素材がいいと何を合わせても似合うものね」
「そう、なの……? だったら、嬉しい……♪」
「よし、決めたわ。貴方の髪と瞳の色と一番合うこの服にしましょう」
「私も、すごく気に入った……♪」
試着室の鏡の前でくるくると回り、自分の姿を見つめる遥香。
これが本来の、普通の女の子の姿だ。
この子には路地裏で縮こまって凍えるなんて姿は似合わない。
アスモデウスは契約してから初めて見た遥香の微笑む姿を眺めながら、そんなことを思っていた。
最後にラインストーンでデコレーションされた薄紫のクリアヒールを購入し、二人は洋服屋を後にした。
「折角可愛らしい服を着たのだから、髪型もアレンジしないとね」
アスモデウスはヘアサロンで手入れされた輝くほどの遥香の髪を、編み込みのハーフアップにしてアレンジする。
これで頭の先から足の先までを、全身コーディネートすることが出来た。
「何だか、自分が自分じゃないみたい……」
「綺麗よ遥香。私のパートナーはこうでなくっちゃね」
「あ、アスモデウス……その、ね……お腹すいた……」
アスモデウスがあまりに張り切っていて言い出せなかったが、朝からまだ何も食べていない。
「あら、すっかり忘れてたわね。じゃあ今から何か食べに行きましょうか」
二人が訪れたのは普通のファミレスだった。
だが遥香にとって、メニューにある料理はすべてが初めて見るようなものばかりだった。
「ねえ遥香、貴方はいつからあんな生活をしていたの?」
「いつから……視力を失ってすぐだったから、多分六歳くらいから、かな……」
「六歳って、今貴方何歳なの?」
「多分、十六歳……誰にも祝ってもらったことがないから……覚えてないけど……クリスマスを迎えた回数で覚えてる……」
……流石にここまでは予想してなかった。
十年もの間たった一人で、何も与えられずに自分の力だけで生きてきたとは。
もしかすると、遥香はどんな契約者よりもよっぽど強いのかもしれない。
「そう、なのね……遥香、今日は好きなだけ食べなさい。お金なら腐るほどあるから、遠慮しなくていいわ」
「ありがと、アスモデウス……貴方に出会ってから、私はとても幸せ……少し前までこんなこと、夢にも思わなかった……」
(契約者にはいろんな境遇の者がいるけれど、果たしてこの子ほど苦しんで、それでも強く生きてきた者はどれだけいるかしら……)
運ばれてきた料理に目を輝かせる遥香を眺めて、アスモデウスは昔を思い出していた。
「貴方が七柱目の死神……色欲の大罪です」
「有り難き幸せに御座います、ソロモン様……」
アスモデウスが最後の七つの大罪に選ばれてからまだ間もない頃、その時の死神達は本当に酷かった。
誰も彼もが逸脱した力を持っており、産みの親であるソロモン以外の言うことは何一つとして聞く耳を持たない。
アスモデウスより前に死神に選ばれた暴食の大罪ベルゼブブは、その罪名通り食べ物のこと以外はすべてに無頓着で、時には魔獣を一種類喰い尽くして生態系を変化させたことがある。
「ソロモン様は言っていた。貴方は暴食の死神なんだから、我慢せずにいっぱい食べていいよとな。それに従っただけで、何か文句があるのか?」
その前に死神となった強欲の大罪マモンは、欲求に忠実なベルゼブブとは真逆で、まったくの無欲だった。
その代わりにこの世のすべてを対価にしても手に入れることが出来ないものが欲しいといつも言っていた。
「本当に欲しいものを手に入れたいのならば望んではいけない。望まずとも欲しい物を手に入れる者こそ、真に強欲の死神に相応しくはないかい?」
さらに前に死神となった怠惰の大罪ベルフェゴールは、人間界の娯楽で遊んだり他の悪魔の精気を吸い取ったりと、時にはソロモンの言うことさえ聞かない時がある。
「我は永遠に等しいこの寿命を面白おかしく暮らせればそれでいい。何が楽しくてずっと冥界などにいなければならない? 終わりのないこの命、徒に費やするほど無駄なことはない。違うか?」
一つ飛ばして二番目に死神に選ばれた嫉妬の大罪リヴァイアサンは、マモンと同じタイプで嫉妬の対象がおらず、正直死神に選ばれた理由すらも分からない。
「私が嫉妬の死神に選ばれた理由? そんなのこの私が美しすぎて他の者が嫉妬するからに決まってるじゃない。私は嫉妬なんてしないわ。する必要がないもの」
そして三番目に選ばれた死神と、一番目に選ばれた死神こそ、七つの大罪の中でもっとも抜きん出た力を持つツートップ。
憤怒の大罪サタンは自らを魔王と名乗り、いつか死神と悪魔の頂点に君臨すると豪語していた。
「俺はとにかく強い奴と戦いたいね。全部ぶっ倒して、全部の上に立つ。ロマンはでかければでかいほど目指し甲斐があるだろ!」
放漫の大罪ルシファーは誰にも興味を示さず、無口で、サタンに喧嘩を売られてもさらっとかわしていた。
「……私には何も必要ない。この体、自分自身がいれば、それでいい」
七つの大罪と言う以外はまったく接点も共通点もないような七柱には唯一、たった一つだけ共通していることがあった。
それは全員が全員最強と言うことだった。
ツートップが抜きん出て強いとは言ったが、他の死神が弱いと言うわけでは決してない。
だが私は、その中でもっとも弱い存在だった。
ベルゼブブのように欲求に忠実なわけではなく、サタンのように闘争心が盛んなわけでもない。
ルシファー以上に、何もない。
色欲の大罪と言う大役を貰いながら、私は普通の悪魔だった頃の気持ちが捨てきれなかった。
死神になった時点でもう悪魔ではないのに。
友人だった悪魔と関わろうとすれば恐れられ、おぞましいものを見るような目で見られる。
そんな現実に、私は耐えられなかった。
そんな私と遥香は正反対。遥香は両親に捨てられても一人で生きてきたのだ。
自分の現実に向き合って。
「……アスモデウス……?」
「──へ、あ……遥香……」
カルボナーラを口に含みながら、こちらの方を覗き込む遥香。
アスモデウスははっとなって上を向いた。
「さっきからぼーっとして、どうしたの……?」
「何でもないわ。遥香は強いなあって思ったのよ」
「私が……強い……?」
「ええ、貴方は強いわ。私とは違ってね」
遥香にはアスモデウスが言う"強い"の意味が、よく理解出来なかった。
やがて久しぶりにありつくことの出来たまともな食事をぺろりと平らげると、外はもう日が沈みかけていた。
「……そろそろね」
「ねえアスモデウス……今日もあの場所に行っていい……?」
「あの場所? もしかして、他の契約者と戦いたいの?」
「ん……自分の力を試してみたい……ダメ……?」
「危険な戦いは止めるけれど、契約者は本来他の契約者と戦うことが本分みたいなものだから、いいわよ」
「ありがと、アスモデウス……私、頑張る……!」
開戦二日目の夜。遥香は昨日多くの契約者が集合していた夜空へと訪れた。
近くに感じられる反応は一人の悪魔だけ。
なかなか遥香の方に近づいてこようとしない。
だがそれは当然のことだ。死神は六種族最強。
悪魔が死神に勝てる道理など、存在しないのだ。
『戦う気がない相手と無理矢理戦うことはないわ』
「ん、分かってる……にしても……やっぱり慣れない……」
アスモデウスと一体化し、変身した姿は、とにかく露出度が高く、ガードが低い。
肌が露出しているのに、その部分が布を着ている場所と同様寒さを感じないのも不思議だ。
「そこの死神、私の相手になってもらおうかしら」
「ん……あなたが、女神……?」
やっと他の契約者が来た、と思って声の方に振り向くと、そこにいたのは昨日緑色の狼と戦闘をしていた人魚だった。
アスモデウスによると、人魚は女神と言う種族らしい。
「ええそうよ。死神と対局の存在である私が相手よ」
「えっと、よろしく……」
「へあ? へ、ええ、よろしく……?」
アスモデウスが教えてくれたことの一つに、戦う相手には常に敬意を払えと言うことがあった。
だから一応お辞儀をしたのだが、相手は戸惑っているようだ。
『あのね遥香、敬意を払うって言うのはそう言う意味じゃなくて──まあいいわ』
「言われなくても一番理解してるわよ……っ!!」
どうやらあちらもパートナーと会話しているらしい。
相談が終わったのか、人魚は早速殺気を露にした。
人魚が声に力を込めると、人魚の左腕に抱かれていた水瓶から水刃が飛び交った。
遥香はそれが眼前に迫っても目を閉じることなく、首にすれすれの肩で受け止める。
「なっ、一切動かないですって……!?」
人魚は余裕をぶっこいているように見えるのだろうが、遥香にしてみれば飛んでくる水刃が速すぎて反応速度が追い付かなかっただけだ。
「……今のはなに……?」
『ただの水鉄砲だから気にしなくていいわ』
「ああ、水鉄砲……へ、水鉄砲……? なんで……?」
確かに水刃が当たった場所は濡れているが、何故命を懸けて戦う戦場で水鉄砲なのだろうかと、遥香は怪訝そうにした。
「くっ……やっぱり死神を相手するのは無茶だったの……?」
「……もう終わり……? なら、こっちも行く……」
今度も一切動くことなく、アスモデウスに教えられた通りに行いたいモーションを頭の中で想像する。
すると遥香が想像した通りに、人魚の眼前に五本のいびつな剣が現れた。
とにかく相手の戦意を喪失させる為に、凶悪そうな剣を想像したのだ。
「……どう……? 上手にできてる……?」
『ええ、初めてにしては上出来よ。魔力を形として具現化させるなんて、早々出来る芸当じゃないもの』
本来オーラとしてしか見ることの出来ない魔力のようなエネルギーを、形として表すことは一流の契約者でも早々出来ることではない。
「じゃあ……頑張って避けて」
目の近くに剣を向ければ戦意を喪失すると思い、遥香は鋭利な剣を人魚へ飛ばすような仕草を取る。
その瞬間、人魚と遥香の前で遥香の作った剣がバラバラに砕け散った。
「切り裂け! 〈断絶する暗黒〉ッ!!」
突如離れた場所にいた悪魔が、二人の間に割り込んできたのだ。
そしてあろうことか、死神である遥香が作り出した剣を、悪魔はたった一太刀で粉々にした。
明らかに尻尾を丸めながら遠くで観察しているようなレベルではない。
「アンタ、何でっ……」
「お前は馬鹿かアホなのか? そんな聖力量で死神に挑むなんざ三下以下の所業だ!」
「っ……悪魔のくせに大口叩かないで!」
「だったら今からその悪魔の力とやらを見せてやる。テメェは下がってろ」
自信満々な悪魔の発言で、人魚は歯噛みしながらも後ろに下がる。
次は悪魔の青年が相手になってくれるようだ。
「さあ死神、この俺、黒騎士の戦い方を見せてやる」
黒騎士と名乗る契約者が不敵に微笑み指を鳴らした瞬間、黒騎士の背後に巨大な魔方陣が現れた。
幾重にも重なった輪と輪の間に読み取ることの出来ないない不可解な文字が連なる。
やがて完全に魔方陣が完成すると、背後から雷鳴が響いた。
薄緑色の電流を纏う狼のようなドラゴンではなく、鋼のボディを持つシャープなフォルムの龍だ。
体全体がダイアモンドのような煌めく鱗で構成されており、その肌を紫色の電流が絶え間なく這っている。
腕はなく、その代わりに片方だけでも二メートル以上はある翼の間接部分に小さな爪が四本並んでいた。
形的には鳥のような形をしている。
「コイツはな、金剛龍インライディナと紫電龍アリフィロムの間に生まれた〈混血の仔龍〉……剛電龍アリフィディーナだ」
何やら聞き慣れない名前を並べ始めた、黒騎士と名乗る青年。
遥香は今にも頭がパンクしそうだった。
「剛電龍……? ドラゴンの使い魔ですって……!?」
そんな遥香に対して人魚はその言葉が何を意味するか理解しているようで、とても驚いている様子だ。
「コイツの通称はフィディ。勿論、六芒星同士の間に生まれた子だからコイツも六芒星だ。フィディ、挨拶しろ」
『イエス、マイマスター』
ロボットみたいな羽の生えたトカゲが、無機質に顎を動かして喋った。
『我が名はアリフィディーナ。マスターからはフィディと呼ばれている。誇り高き金剛龍と紫電龍の間に生を賜った混血の龍だ』
「コイツはとにかく強いぞ。なにせ、俺でさえ手懐けるまでには全治二週間の負傷を負ったくらいだからな」
『二十日間の激戦の後、私はマスターに従うことを誓ったのだ』
「全治二週間って……嘘でしょ……?」
一体どんなことをしたら二週間も入院する破目になるのか、遥香にとってはほとんどが不思議なことばかりで埋め尽くされていた。
「何が相手でも関係ない……私に見えないものなんて何もない……だから勝利すらも──見える……!!」
いい加減に訳の分からない専門用語は聞き飽きた。
遥香は焦れったそうに黒騎士の言葉を遮り、先ほど作り出したものと同じ剣を今度は限度なく無数に生み出し、黒騎士へと発射した。
どうせ今度もまた剣で壊すのだろう。
ならば壊し切れないほど連続で攻撃すればいい。
もし死に至りそうならば寸前で止めればいいだけだ。
……と言う考えが甘ったるいと言うことを、遥香は直後に思い知らされた。
機械仕掛けの巨大なトカゲが間に割って入ってきた。
そのトカゲの体が想像以上に固く、遥香が作った剣では傷一つつかなかった。
「もう終わりか。だったらこっちも行くぜ。フィディ!」
黒騎士が銀色のトカゲの名を呼ぶと、トカゲは耳鳴りがするほど甲高い声で鳴き叫んだ。
それに合わせて空に黒い雲が集結し、トカゲの翼には目に見えて風が纏わりついている。
『これは不自然よ……属性があのドラゴンには複数宿っているわ。鋼鉄龍は土属性の突然変異である鋼属性、紫電龍は雷属性……二つならまだしも、雲属性も風属性も持っていないはず……』
「フィディが鋼属性と雷以外の属性の力を使ってるから混乱してるな? だったら特別にその種を教えてやる。本来該当する属性以外の属性は使えないはずなのに何故フィディには複数の属性の力が宿っているのか……俺は誰だ?」
聞こえないはずのアスモデウスの疑問に的確に反応し、黒騎士はそんなことを言ってきた。
『俺は誰だ、ですって……? どう言うこと……? 黒騎士……? いえ、悪魔……ま、まさか……』
「六種族の突然変異には希に、属性を持たない奴がいる。それが〈無属性の可能性〉だ」
無属性を持っているのは、後にも先にも序列一位の悪魔バアルと放漫の死神であるルシファーだけだ。
その他の無属性の存在など、アスモデウスさえも耳にしたことがない。
「さあ、種明かしはここまでだ。フィディ、本気で行けよ。〈四属性の鉄槌〉!!」
黒騎士の掛け声とともに、トカゲの翼に纏う烈風が、夜空に集まる黒雲から稲妻が、身を包む鋼鉄の鱗が、トカゲのあぎとに溜まった紫電が、一斉に放たれた。
四つの属性の力を集結して放たれたレーザー砲のようなそれは、まっすぐ遥香の方へ向かってくる。
「ジ・エンドだ」
立てた親指を下に向けて、黒騎士は背中を向けた。
盛大な爆発の後を経て、遥香は思った。
「……痛い……これが攻撃……?」
噴煙が晴れ、再び露となったのは、右手で攻撃を受け止めた遥香の姿だった。
微かに震える遥香の手のひらからは、薄い煙が上がっている。
「バカなッ……!?」
長々とした前置きや派手な演出を経た割りには、大した威力がない。
ただ手のひらを少し火傷したくらいだ。
「クソ……やっぱ死神を相手にするのは無茶なのか……?」
人魚を守る為か間に入ったものの、黒騎士は出せる手を出し尽くしたように見えた。
しかし今度は黒騎士のパートナーが、何やら黒騎士と話をしている。
「な、アレって、アレのことか? でもアレはまだ練習中で、成功した試しが……」
「何を話してるの……?」
『さあね、こっちの話し声が向こうに聞こえないのと同様、向こうの話し声もこっちには聞こえないわ』
「ったく……いつの間にそんなスイッチ入ったんだよ……」
ようやく話が纏まったようだ。
黒騎士は軽くため息をついて、警戒しながら待機するトカゲへと視線を向けた。
「まあいい。こうなりゃ自棄だ。フィディ、崩せ」
「……マスターの仰せの通り、崩しました」
「ドラゴンが……女の子になった……」
突然トカゲに黒雲から雷が降り注ぐと、トカゲは電気の球体となって脈動し始めた。
そして星形に凝縮された電気の膜が弾けると、中から銀髪の少女が現れたのだ。
「今から行うのは凶悪な、まさに悪魔的な戦法だ。死神だからって油断するな? 本気で来ないと十秒も持たねえぞ?」
黒騎士がそう告げて指を鳴らすと、銀髪の少女となったトカゲが黒騎士の隣に並んだ。
二人が同時に息を吸い込んだ瞬間、二人は鏡に写したようにまったく同じ構えを取る。
「特殊模倣式戦術〈金銀境界の矛盾〉、始動」
黒騎士は両手を縦並びに突きだし、銀髪の少女は逆に横並びに両手を突きだした。
すると黒騎士の両手には金色の槍のような武器が、銀髪の少女には銀色の剣が二つ現れた。
そしておまけと言わんばかりに二人の体にそれぞれ金と銀の鎧が新たに装着されていく。
「これが黄金の英雄と」
「最賢の英雄の姿です」
この場にいる人魚とアスモデウスだけは、それが何かを理解しているらしい。
「これは、最期の盟約……その模倣……!?」
『……えらいものを出してきたわね……彼、何者……?』
アスモデウスと一体化している為に、今はアスモデウスの焦りが手に取るように分かる。
目の前の武器と姿はそんなにも凄いものなのか、遥香には到底理解出来ない。
『……気をつけて、落ち着いていけば勝てる相手よ』
遥香は小さく頷き、そして黒騎士に向き直った。
「私は死神……色欲の死神、アスモデウスの契約者……」
「俺は悪魔。序列二九位の大公爵アスタロトの契約者だ」
互いに名乗り合い、一切目線を反らすことなく互いを見つめる。
悪魔が死神に挑むと言うことは、猫がライオンに挑むに等しいことだとアスモデウスに教えられている。
死神も元は悪魔として生まれる。その悪魔の中でも逸脱した能力を持つ者だけが、悪魔の創造神に死神へと転生させられる。
だから悪魔を超越した存在である死神に、悪魔と言う枠を越えられない存在が勝てるわけがない。
「先攻は譲ってやるよ。ファーストレディってやつだ」
だが黒騎士はそんなことは一切頭にないのか、隣の少女に金色のハルバートを投げつけて両手を大きく広げた。
契約者になって間もない遥香でも、これだけは理解出来た。
絶対に誘われていると。
「契約者の戦いに性別なんて関係ない……でも斬り込めるなら遠慮しない……っ!!」
つい頭に血が上り、遥香は拳を握りしめて腕を引くことなく一直線に突きだす。
これもアスモデウスに教えられたことだ。
肉弾戦では次に出す手を読みにくくする為に、なるべくモーションは小さくしろと。
それを遥香はノーモーションと言う形で実現した。
デコピンだけでコンクリートの壁に穴を開けられる、死神の破格なパワーを利用して。
しかし遥香はこの時、この一瞬で思い知ったのだ。
「言っただろ。本気で来ないと十秒も持たねえぞってな」
何が起こったのか分からないまま、黒騎士の右足、その爪先が自分のこめかみに当てられていた。
後から来た風圧が遥香の真っ白な髪を揺らし、遥香は冷や汗を頬にたらりと流した。
「これは挑発じゃない、警告だ。無益な戦いに命を費やするくらいならここは引け」
「……手加減されるのは、心外……仮に当たってても、私は無傷……」
『これ以上はダメよ、引きなさい。力の使い方を熟知していない今のままじゃ彼には勝てない』
「っ……分かった……そこまで言うなら、ここは引く……」
『賢明な判断よ。帰ってゆっくり休みましょう』
加速してではなく、いきなりトップスピードでその場を離脱する遥香。
その背後で、黒騎士が同じく冷や汗を流して今にも崩れ落ちそうになっているとも知らずに。
「……悔しい……もしかしてドレスを着たあのお嬢様と本気で戦っていたら……さっきみたいなことになってた……?」
『かもしれないわね。でもまさかあんなものを隠し持っているだなんて。どうして人魚の契約者が私達に挑むまで遠くで観察してたのかしら。あれくらいの力があれば他の死神とも対等に渡り合えそうなものよ』
「……正直に言うと……怖かった……」
その時、遥香が初めて弱音を吐いた。
契約者との戦闘を自分から進んでチャレンジするほど勇敢な遥香が、だ。
「昨日の契約者は全然本気を出してなかった……でもさっきの黒騎士は完全に私を殺す気で来てた……寸前で止めたけど、それまでは確実に……」
『それが分かれば上出来よ。相手の殺気を読むことは無駄な戦闘を減らせることに繋がるの。遥香もこれからそれを学んでいけばいいわ。今日はホテルを予約してあるから、そこに行きましょう』
「ん……次は、もっと頑張る……」
人のいない路地裏で変身を解除した遥香は、再び実体化したアスモデウスに手を引かれて予約していたホテルへと向かった。




