〜prologue〜
嗅覚を麻痺させる甘い香りと、針で身を刺されるようなちりちりとした痛みで目を覚ます。
まどろむ意識とかすむ視界で確認出来たのは、薄暗い瘴気の漂う異質な空間。
意識を吸い出されるような脱力感のせいか、体の感覚が酷く曖昧だ。
どこからともなくハイヒールの音が響き渡った。
それに合わせて通路を照らすようにろうそくの灯が灯る。
誰かが来る。だがそんな事に気を配っているほど、精神状態に余裕はなかった。
とにかく意識をつなげる事で精一杯。
ここはどこなのか、これは現実なのか、そもそも自分が誰なのかすらわからない。
何一つとして、覚えていない。
──気分はどう?
その声を聞いた瞬間、今まで考えていた事が全てどうでも良くなった。
万物を魅了する暴力的なまでの美しさ。
ろうそくの薄暗い灯火で照らされた彼女の美貌は、自分の全てを鷲掴みにして離さなかった。
──私は悪魔。貴方に罪という可能性を与えに来たわ。
彼女が何を言っているかは理解出来ないが、一つだけ確信出来る事がある。
それはもしこの人の言葉に乗ってしまったら、二度と戻って来れなくなってしまうという事だ。
彼女に支配された頭がかすかにそう叫んでいた。
──貴方は人間として死を迎えたの。
やはり、と。本能は確かに嘘をつかなかった。
自分は悪い夢を見ていて、彼女がいかれたことを言っているのか。
彼女が言っていることが事実で、自分がおかしくなっているのか。
どちらにせよ、この胸のざわめきをおさめるには至らなかった。
──貴方は今、私の意識の中にいる。私はね、貴方のことを救ってあげたいの。
救う? この状態から? もう死んでいるというのに?
そう思って、諦めたように吐き捨てたいはずなのに、どうしてか彼女に言われるとそれが真実に思えて仕方がない。
言葉一つ一つが理性を食いつぶし、毒のようにじわじわと蝕んでいく中、彼女は妖艶に言葉を続けた。
──貴方は誰かを酷く憎んでいるわね。母親を殺されて、妹を殺されて……もう一度聞くわ。気分はどう?
魅惑に蝕まれていた脳に、締め付けられるような痛みが走った。
沸々とわき上がる怒り、悲しみ、憎しみ。そんな負の感情が溢れ出してくる。
憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い──
止めどなく溢れる憎しみがぼやけていた意識をはっきりとさせてくれる。
開けた視界に広がるのは薄暗い城の中。赤いカーペットの上で自分の四肢が鎖に繋がれて吊るされている。
それをほどこうと、怒りに任せて力の限り引っ張った。
──あは、凄いわね。私の意識の中で自分の意識を確立するなんて。もう貴方はそっちの世界にはいないようね。
血眼を見開き、猫が威嚇するように息を荒げる自分に、彼女は楽しそうにこちらの首筋と顎に指を這わせた。
先ほどまでは悦びと感じ取っていたそれも、今ではそれが憎くてたまらない。
顎に伝う指を噛み千切ろうと、何度も身をよじる。
だが一瞬にして金縛りのように動けなくなり、体の自由を奪われた。
そして彼女は色っぽくこちらの耳元に口を近づけ、
──貴方はもう悪魔側よ。
ぞわり、と背中に冷や水をかけられたような悪寒が走り、思考が氷点下を下回る。
失われていた記憶のピースが徐々に埋まっていき、あの時の景色が鮮明に蘇って来た。
あの時自分の全てを奪ったのは彼女ではない。
「魔王ッ……!!」
黒い炎に包まれた影を、自分は確かに覚えている。
影は自ら明かした。我は魔王だと。
理解出来ない、思考が追いつかない。
人が突如虚空から現れ、体に黒い炎をまとい、一瞬で一軒家を焼き払い、一家を惨殺し、我は魔王だと名乗る。
天地がひっくり返ってもあり得ないことが空想での現状が、確かに自分の身に起ったのだ。
これは悪い夢だと否定させない、リアルな感覚の記憶。
居心地の悪い静寂に包まれた空間で、彼女は妖艶な笑みとともに下をこちらの頬に這わせた。
──魔王が憎い? 憎くて憎くて許せない? 復讐する? 思い知らせて上げる?
憎しみを押さえ込む理性を削り、逆に後押しするように責め立てる彼女。
だが彼女が責め立てるまでもなく、既に己の全てが憎しみへと変わっていた。
「復ッ讐……ッ」
──そう、私と契約すれば、魔王に復讐出来る力を貸してあげるわ。
「契約……?」
──貴方が人間であることを捨てるというのならば、私はそれ相応の力を上げる。
「……なんでも……くれてやる……それで魔王に復讐出来るなら──俺の全てをくれてやるッ!!」
彼女はその言葉に満足したのか、こちらの四肢を拘束する鎖を消し去り、自由にした。
──これで貴方は契約者になる資格を得た。さあ、私と契約の口づけを交わしましょう。私の名はアスタロト。ソロモン七十二柱が一柱、序列二十九位の大公爵よ。
レオパードのドレスを纏う彼女、アスタロトはゆっくりと顔を寄せ、自分は強引にアスタロトの後頭部に手を回し、荒々しく唇を貪った。
唇をこじ開け、舌に吸い付き、口内を滅茶苦茶にかき回す。
唇の隙間から悩ましい声を漏らすアスタロトがかすかに頬を緩めた瞬間、景色が弾けとんだ。
「………………………………夢か……」
寝汗で張りついた黒いタンクトップをつまみ、中に風を送る。
最悪の目覚めに眉をひそめる暇もなく、少し遅れて目覚まし時計のアラームが甲高い音を立てた。
「ああもう……頭に響くなあ……」
目覚まし時計の頭を乱暴に叩き、ベッドから状態を起こす。
額の汗を拭って生活感のない一室のフローリングに足を降ろし、大きく体をのばした。
『おはよ、相棒』
「ああ、おはよ。いっつも早えな」
音も影もなく宙に存在し、ハンモックに寝転がるように浮遊する少女。
青によった薄紫の髪は風もなくなびき、紅の瞳には不規則な紋章が描かれている。
ニーソックスのように太ももの下半分までを覆う個性的なタトゥーが特徴的だ。
『随分うなされてたね、大丈夫?』
「問題ねえよ。ちょっと昔のこと思い出してただけだ」
『昔のこと? 珍しいね。どんなこと?』
「残念ながら、今でも覚えてることだ」
『そっか。……そろそろ時間みたいだよ?』
少女の言葉に目覚まし時計の方を見ると、確かにいい時間だった。
着ていたタンクトップを少女に預け、部屋のドアノブに引っ掛けていたハンガーの制服を片手にバスルームへと向かう。
『……本当に可哀想……私が命に代えても支えてあげなきゃ……』
桜の舞い散る新たな季節。新入生の嬉々とした喋り声に、時々小鳥も反応してさえずりを重ねた。
新たな風の吹く土手沿いの道で、ふいに新入生達の声が失せた。
桜に向いていた視線は全て一点に集中し、足を止める人もいる。
「何あの人……凄い美形なんだけど」「あの制服、私達の学校だよ……」などと、ひそひそと聞こえる女子の声の中心。
少し癖のある黒い髪。それに見え隠れする黒い瞳は、桜の花びらを映して薄暗く輝いている。
他の男子とは頭半分ほど違う長身に、細身の体型でありながら制服の上からでも分かるほど引き締まった筋肉。
全てが人々の視線を惹き付けて止まないその作り物のような美形。
新入生の中心を悠々と歩く一人の同じ新入生が、視線を独り占めしていた原因だった。
『……くす、凄い人気だね』
(何がだ? 桜か?)
音も影もなく存在し、誰の目にも映っていない幽霊のような少女を引き連れる一人の青年。
目が合った新入生一人一人に軽く微笑みを返す好青年こそ、視線を独り占めしている張本人である。
『そうじゃなくて、ああもう……本当鈍感だよね』
(いきなり失礼だな。俺は勘は鋭い方だぞ?)
呆れ返る少女に、青年は心の中でそう返す。
声には出していないが、頭の中に響き合うテレパシーのようなもので意思疎通している。
『じゃあさっきから何人くらい女子と目が合ってる?』
(…………十人前後?)
『そこまで気づいててよく分からないよね。もう慣れたけどさ』
(意味が分からん。しかも何で女子と限定したんだ? 男子とも目は合ってるぞ?)
『もういいよ。それと着いたよ?』
少女に気を取られて気づかなかったが、もう新しく通う学校の校門人到着していた。
先輩達の間(生徒達全員が二つに分かれて空いた真ん中)を通り、体育館へと入る。
そこでも女子達の視線と、潜めながらの黄色い声に、青年の背後にいる少女はため息を吐いた。
「……ねえ、君」
「ん、なに?」
大勢の生徒達に押しつぶされそうな錯覚の中、幼い少女のような小さな呼びかけが耳に入った。
呼びかけているのは青年の丁度隣にいる翠眼の少女だった。
寝癖のように明後日の方向に跳ね返っている癖っ毛のポニーテールと、子犬を思わせる丸い瞳。
他の生徒とは少し違う雰囲気に、青年は一瞬固まった。
「私ね、緑那 梓乃って言うんだ。あなたは?」
「俺は黒音。未愛 黒音だ。よろしく」
黒い髪に黒い瞳、外見に違わないその名前を名乗るとともに、青年は隣の少女へと右手を差し出した。