集団的自衛権の論点
●自衛権とは何か
集団的自衛権を理解するためには、まず「自衛権」について理解する必要がある。
皆様ご存じのとおり、日本には憲法第9条(戦争の放棄)があるので、日本という国は原則として、「戦争」を行なうことはできない。
この点は誰が何と言おうと、憲法を改正しない限り、動かすことができない。
ただ、この理想論を愚直に満たそうとすると、現実問題としては色々と無理が生じるので、憲法の「解釈」によってある程度、現実に適合するようにしている。
この「憲法解釈」によって生まれた考え方が、「自衛権」という概念である。
では、「自衛権」とは何か。
これは、「『自衛のための実力行使』は、憲法第9条が禁止している『戦争』に該当しない」とする考え方である。
つまり、「自衛のための実力行使」は「戦争」じゃないから、自衛隊の存在や自衛力の行使は憲法第9条にも違反しないよ、という解釈の仕方だ。
一見屁理屈のようだが、この解釈の仕方は憲法学者の間では常識で、ほとんど誰もが認める考え方である。
ちなみに自衛権(自衛力)の真価は、「抑止力」にある。
「抑止力」とは何か。
仮に日本に対して武力攻撃を仕掛けようとする国があった場合に、「あそこの国に戦争仕掛けるとこっちが痛い目見るぞ」と思わせることによって、そもそも戦争が起こらないようにする──つまり、自衛力を持つことにより「戦争を予防する」という逆転の発想が、抑止力の考え方である。
●集団的自衛権とは何か
以上のように日本には「自衛権」が認められているという前提に立った上で。
次の論点になるのが、「日本には『集団的自衛権』は認められているか」という点である。
「集団的自衛権」とは、日本の友好国が他国から武力攻撃を仕掛けられたときなどに、友好国の領土や人々を守るために、日本の「自衛力」を行使する権利のことを言う。
前述の単なる「自衛権」とは異なり、「集団的自衛権」が認められるかどうかは、憲法学者の間でも大きく意見が分かれている。
●集団的自衛権容認派の意見
「集団的自衛権」を認めないとどうなるか。
例えば、テロ活動が行われている場所に自衛隊を派遣して現地の人々を助けるといった、人道的な活動が困難になる。
食糧支援、医療支援などで自衛隊が現地入りしている時に、自衛隊員のすぐ近くで現地民がテロの対象になったときに、それに対する防衛力を持っていても、自衛隊員は指を咥えて見ていることしかできない。
またそれでなくても、自衛隊員自身がそういったテロの対象となったとき、自分の身を守ることは日本国の持つ「自衛権」に該当するのか。
日本国外で活動する自衛隊員は、どこまでが「自衛権」の範囲内なのか、すごくあやふやな立場に置かれている。
「集団的自衛権」を認めないと、国外で支援活動を行なっている自衛隊員の、本来失われずに済んだはずの命が失われる可能性すらある。
もう一つの容認派の意見。
それは、国際貢献という視野だ。
日本にもし「集団的自衛権」が認められていないとしたならば、日本という国の態度は「自分の国さえ平和ならそれでいいや。よその国とか、全世界の平和なんか知ったことじゃない」というものになる。
これは、友達が殺人犯に襲われても、「私は自分が襲われたとき以外は暴力行使しませんので」と言って、見て見ぬふりをする態度である。
先進国の一角として、より大きな、国際平和に対して貢献する義務があるのではないか──とする見解が、一つの有力な意見としてあげられる。
●集団的自衛権反対派の意見
「集団的自衛権」を認めてしまうと、なし崩し的に戦争に巻き込まれてしまう危険性が、格段に大きくなる。
例えば、「世界平和を乱す国」に対して、「世界平和を守るため」に武力攻撃を仕掛ける国の兵士(具体的にはアメリカ軍とか)と合流して、彼らを攻撃してくる敵国や敵集団に対して自衛力の行使(武器による反撃)をすることになれば、それはもはや、憲法第9条が禁止している「国際紛争を解決する手段としての武力の行使」と、実質変わらない。
「テロリスト」と呼べば血も涙もない殺人鬼のような印象になるが、テロを行なう人々にだって主張があるし、彼らはひょっとしたら、先進国の利益のために不当に抑圧を受け、犠牲を強いられた人々であるかもしれない。
「国際平和」という耳触りのいい大義名分、「正義」というお題目に則った武力行使は、非常に危険である。
「集団的自衛権」を容認することは、そういった強者の論理に基づいた武力行使に加担する、その素地を作るということである。
時の政府の判断次第で、実質的な戦争行為が、容易に行えるようになるということである。
●まとめ
以上で見てきたように、集団的自衛権には容認することにもメリット・デメリットがあるし、否定することにもメリット・デメリットがある。
したがって、どちらが一方的に正しい考え方だ、などと短絡的な「正解」を出すことはできず、あとは国民個々の「判断」ということになるのだと思う。
つまり、「私は容認することによるメリットの方が、否定することによるメリットよりも大きいと思う」とか、そういう考え方をして、自分の立場を決めるべき問題だと思う。
いずれの立場を取るにしても、「はい、論破。」などと言ってしまったり、反対意見の持ち主をクズだの何だのと貶してしまう人は、だいたい議論をしっかりと理解していない、程度が低い人だと思う。
しっかり論点を把握していれば、対立意見を持つ者の考えや判断も、それなりの考えとして、尊重できるはずだ。