いつもがいなくなるとき
3時50分。いつも通り、担任の津川の話が終わった。津川の話はどんなことがあっても予定表通りに終わる。それが津川の唯一の良いところだと、5年1組の誰もが言う。話が終わるといつも通り、帰りのあいさつ。いつも通り、一斉に駆け出すサッカー少年。
そしていつも通り、安寿は左隣の雅の方を向く。雅がランドセルを背負って教室を出ると、安寿はいつも通り、雅の右側を歩く。
階段で、玄関で、校庭で。雅と安寿の横をクラスメイトが駆けていく。
学校を離れて行くにつれ、少しずつ周りから人が減って行く。しまいには2人きりになった。
工業地帯を抜け、砂利の山を左手に坂を上ると林の中に入る。そこをしばらく歩くと大きな公園のある通りに出る。この地域に昔からある公園で、祭りの会場や校外学習でよく使われている。中では一足先に下校した低学年が、キャッチボールをしていた。
公園を過ぎ、坂を下ると見渡す限りに空が広がる。遠くまで続く田んぼ道。その先では沼が光を反射して小さく光っている。収穫の時期はとうに過ぎていて、ほとんどの稲は、根元だけを残してさっぱりとしているが、所々、収穫を忘れた稲穂がゆらゆらとなびいている。
この道に出るといつも晩御飯の話題を雅がだす。
「今日は焼肉がいい。」
遠くの鉄塔を眺めながらぽつりと言う。
安寿は少し目を細め、難しい顔をしたが、雅の方を向くと、小さくうなずいた。
それを横目に確認すると、よっこらと一声かけて、ランドセルを背負い直し、転がっていた小石を思い切り蹴飛ばした。二メートルほど低い弾道で飛んで行くと、右にはね、刈り忘れの田んぼへ転げ落ちていった。
「カルビな。」
田んぼ道をしばらくまっすぐ行き、沼に架かる橋を渡る。渡って右手には野球グラウンドがあり、高校生の自転車が気だるそうに並んでいた。
2人の買い物をする場所は、いつも同じ。赤色の羽のマークが目印、スーパー赤羽である。常に子供2人でくるので、店員にすぐに顔を覚えられ、暇なおばちゃんやバイトの高校生にあれやこれやと世話を焼かれていた。そんなご厚意に、雅はぶっきらぼうに、安寿は一言も声を発さないで俯いている。それでも2人の買い物はスーパー赤羽だし、店員は世話を焼きに近寄ってくる。
グラウンドを過ぎて、遊歩道を県道のほうに曲がるといつもの赤い羽根が見えてくる。少し色褪せて、朱色になった羽の看板は、後ろに緑の小山があることもあってとてもよく目立つ。
県道を渡って、店に入ろうとしたが、いつもは開く自動ドアが開かない。ドアには張り紙が一枚。
「スーパー赤羽は9月30日をもって閉店致しました。10月21日よりマックスマートとして新装開店いたします。」
雅の祖父がどこからか持ってきた大量の食糧の消化に追われて、しばらく来ていなかったとはいえ、閉店するなんてことは雅も安寿も全く知らなかった。店員に構われているときも、そんなことは一言も言われなかった。
もやもやとした気持ちが雅の中に膨らむ。閉店とはいえ、またすぐ、店は開かれる。マックスマートといえば、スーパーの中でも大手で、前住んでいた町にもあった見慣れた店だ。でもなんだか、納得がいかない。安寿もどこか寂し気に張り紙を眺めている。
敷地を出て家への道を歩く。安寿が雅の裾を引っ張ってくる。
「どこにすっかなあ。」
視線を変えず雅がぽつりと言う。いつも赤羽だった。どこにするかとっさに思いつかない。
もちろんほかにも店があるのは知っている。帰る途中にコンビニもあるし、弁当屋もある。でも夕食の買い物は赤羽なのだ。
迷っているうちにいつの間にか家の前まで来てしまった。安寿が雅のほうを見つめる。
「今日は、出前にするか。」
雅は安寿のほうを向いて言う。安寿はやはり目を細め、難しい顔をしたが小さくうなずいた。
10月21日午後3時50分。いつも通り、担任の津川の話が終わった。津川の話はどんなことがあっても予定表通りの時間に終わる。話が終わるといつも通り、帰りのあいさつ。いつも通り、一斉に駆け出すサッカー少年。
そしていつも通り、安寿は左隣の雅の方を向く。雅がランドセルを背負って教室を出ると、安寿はいつも通り、雅の右側を歩く。
工業地帯を超え、林の中の公園を通り過ぎ、田んぼ道に出る。
「今日は焼き肉がいい。」
雅がここで夕食の話題を出すのは久々だ。安寿はまた目を細め、難しい顔をしたが小さくうなずいた。
「カルビな。」
近くの小石を蹴り飛ばすと、まっすぐ転がっていき、アスファルトの真ん中でぴたりと止まった。
橋を越えて野球グラウンドを通り過ぎる。自転車は止まっておらず、掛け声も金属音も聞こえない。
遊歩道を県道のほうに曲がると、先月まであった赤羽から筆の字ででかでかと書かれた「MAX」の看板。今までの薄汚れた感じはなく清潔で、文字の背景の青ははっきりとした発色。敷地には新装開店というでかでかとしたのぼりが何本も立っていた。客も普段より多く、駐車場も満車だ。
店の中に入ると、たくさんの声が文字が、一気に押し寄せてきた。
「いらっしゃいませ!」本日大特価!開店特大値引きセール!「いらっしゃいませ!」黒毛和牛半額セール!「タイムセール実施中です!野菜売り場へお越しください!」南国の味覚フェア!「いらっしゃいませ!」
雅は昔行った大学の学園祭を思い出した。途切れぬ宣伝の声。縦横無尽に動き回る人々。
安寿ははぐれないように雅の腕にしがみついている。困惑の色がにじみでていた。
よく見ると、いらっしゃいませの斉唱をしているのは、赤羽の店員だった。名札に書いてある名前にも見覚えがある。
雅と安寿が来ると必ず声をかけてきて、高校の愚痴をこぼしていた茶髪の女子高生店員は髪を黒く染め、パーマをかけていた髪を一つ縛りにして、わき目も降らずレジ打ちをしていた。雅を坊主と呼び続け、必ずお菓子を一つサービスしてくれた店長は野菜コーナーでタイムセールの宣伝。一度も仕事をしているのを見かけなかった天パのおばちゃんは熱心に商品棚の整理をしていた。いつもなら必ず相手をしてくれたみんなが、二人に気づくこともなくひたすらに仕事をしている。その全員の名札には名前と一緒にトレーニング中の文字が小さくあった。
何をトレーニングする必要があるのだろう。今までずっと赤羽で仕事をしていたのに。女子高生のレジ打ちは愚痴を言いながらでも正確で間違えることはなかった。店長のけだるい店内放送は独特のテンポで不思議な魅力があった。天パのおばちゃんの書くポップは商品に関係はなかったが、絵はプロ並みだった。そんなみんなの良さはこの店には残ってない。みんながみんな、必死に仕事をしている。
雅はなんだか急に寂しくなった。ここにいつもはなくなってしまっていた。
「出ようか。」
雅は腕にしがみついている安寿に声をかけた。安寿はすぐに首を縦に振る。
客の群れから抜け出し、店を抜けた。見上げて見える看板に赤い羽根はない。
店を出ても店内からの勢いを背に受ける。活気が外までこぼれていた。
「新しい店、探さないとな。」
雅は視線を変えずぽつりと言った。安寿はどこかホッとした表情。
「今日も出前だな!」
いつもの帰り道を歩きながら何かに向かって叫ぶ。声はまっすぐ道の先まで飛んでいき、夕日の中に染みこんでいった。