春が体を包み込む
眠い。
雅は眠気と戦っていた。
雅が右を見ると、隣の安寿が一生懸命黒板を写している。しかしひどく書くのが遅い。それを見ているだけでますます眠くなってくる。
黒板を見ても何も面白くないので、雅はとりあえず窓の外を眺めることにした。高地に校舎があるので、二階にあるこの教室でも、景色がすごく良い。下ったところにある湖も、その先にある山も、そのまた先も見渡せる。だが、この景色を1年近く見ている。見慣れた景色で眠気を飛ばすことはできない。
うつらうつらと、頭が揺れ始める。安寿がとなりで頭をふらつかせている雅に気づくと、肩を人差し指でつついた。安寿なりに起こそうとしているのだろうが、意識が飛びかけている雅には全く影響はないようだった。
5年1組担任の津川沖矢は眠気と戦っていた。子供の頃から嫌いな国語の授業、それも物語文。フィクションに一切関心のない津川にとっては退屈でしかなかった。春の陽気と昨日の飲み会の疲れで、時々意識が飛びそうになる。しかし、教師として寝るわけには行かず、必死で黒板に文字を書く。最近、校長が構内を見まわっているので、気を抜く訳にはいかない。文字が汚い黒板が、校長は大嫌いなのだ。
板書を書き終わり、子供の様子を見る。津川は一人、自分と全く同じ気持ちを持っている奴を見つけた。
雅のまぶたは限界に達していた。なんとかこじ開けようとするが、春の空気が体の周りを心地よく漂っていて、力が抜けていく。聴覚と、視覚と、痛覚と、だんだん鈍っていくのを感じる。津川の声も、前の席の米川のアホ毛も、安寿のつっつきも、おぼろなものとなっていく。意識が遠くなっていく。
津川の視線は、一番窓側の、前から三番目の座席に釘付けになる。頭が揺れ動き、口元には光るものが見える。眼は半分白目になり、視点が定まらない。となりの安寿が津川の視線に気づき、目を見開いて硬直する。
津川は昔読んだマンガで教師が注意するときに行った技を真似することにした。昔から一度はやってみたかった。子供の頃には何度も練習した。教師という仕事になってすっかりと忘れていたが、今は完全にやるその時だと思った。津川の右指に力が入る。ゆっくりと肘を上げ、手に持っているものを右耳の後ろまで振り上げて・・・
右頬にものすごく鋭く弾ける感覚があった。すべての感覚が、遠いところから急激に引き戻される。何が起こったのかわからない。動揺しているのがバレるのがしゃくなので姿勢は変えず、眼だけぎょろりと動かす。右の安寿を見ると、少し涙ぐんで、こちらを見ている。前を向くと、米川がニヤニヤとアホ毛ごとこちらを眺めている。ふと、机の上を見ると、見慣れない白い棒状のものがトンとおいてある。2、3箇所砕けていて、先端は丸まっている。雅は黒板のある方に目線を向けると、口元が少し歪んだ担任の視線にぶつかった。
津川の投げたチョークは雅の右頬に綺麗にあたった。まさかここまで完璧に当たるとは。雅の細い眼がぎょろりと開き、周囲を見渡している。嬉しさがこみ上げてくる。口元が自然とゆがんでしまう。雅が、机の上に落ちたチョークに気づき、そしてこちらを見た。津川は子供の頃、もう一つやってみたいことがあった。それは、今では体罰になるということで、忌避されることが多く、見かけることは少ない。だが、これをやらぬで教師となりうるのか。教師という立場にいるものの持つ、絶対的な権限である。言うべきは今である。津川の口がゆっくり開き、少し小さめの声で静かに、だが高らかに宣言する。
「廊下に立ってとれ。」
雅はとりあえず窓の外を眺めることにした。高地に校舎があるので、二階にあるこの教室でも、景色がすごく良い。学校の裏には、山がある。凛々と立つ木々が眩しい。一面に広がる若葉色が少しずつ春を遠くへ運んでいく。
「はあ。」
雅は一つあくびをした。雅から漏れた小さな声は、狭い廊下の遠くまで反響していった。