4.暁の為に-アカツキノタメニ-
辺りは暗く、人気はない。
走り出したはいいものの、少年はどこに向かうでもなく、無意識のうちにある場所へと来ていた。
「ここ…」
そこは最初に少女と出会った瓦礫の山があった場所。
この場所に来てしまったのは、最後にもう一度だけ彼女に会いたかったからなのかもしれない。
「逃げなきゃいけないはずなのに…こんなとこにくるなんて」
自嘲気味に呟くと、かつて少女が座っていた場所へと腰かける。
内側から溢れ出しそうな黒い感情の渦に顔を歪め、もはや歩く気力はなくなっていた。
あの時少女が魂の浄化をしたおかげか、あたりに霊たちの姿は見られなかった。
「ははっ…僕が悪霊だなんて笑っちゃうよ」
乾いた笑みを浮かべ、少年は膝を抱える。
砂に染み込む水の様に、自分の中を黒い感情が染めていくのを少年は感じていた。
少年はもはや正気を保てなくなることぐらい、とうに分かっていたのだ。
それでも母に会えなくなるよりはずっとマシだと考えていた。
「父さん、母さん、ごめんなさい…」
少年の身体が徐々に黒く濁り始める。
悪霊に成り果てても、いつか母親を見つけることが出来るかもしれない。
例えその時自分が、自分でなくなっていたとしても。
「無駄だと分かっていても…それでもボクは生きて――"いたかった"」
月を見上げながら涙を流すと、やがて全身が黒く染まっていった。
少年の意識は黒い感情の渦に飲まれ、正気を失う寸前まで迫っている。
その時だった。
「ダメよ!」
辺りに悲痛な叫びが木霊する。
「アナタはまだそっちに行っちゃダメ!」
肩で息をする少女が、苦しそうな表情で少年を呼びとめたのだ。
その手に綺麗な数珠を持って。
「アナタのお母さんはここにいる!だから戻ってきて!」
しかし振り向いた少年の顔は、もはや悪霊と化し黒い影が口を開けているだけだった。
もう間に合わなかったのだ。
少年が悪霊へと成り果ててしまったのだ。
「どうしてよ…せっかく出会えるチャンスだったのに…ばかっ!」
少女の訴えはもはや届かず、少年だった成れの果てはゆっくりと立ち上がり近づいてきていた。
少女は数珠手に合掌すると、真言を唱え始めた。
「お願い…もしまだあの子を救いたいなら、私に力を貸して!」
少女の周りを淡い光が漂い始める。
やがてその光は人の形を取ると、少女の前に姿を現した。
その半透明な身体は霊体を意味し、白い光は守護霊の証。
「あの子を、お願い…!」
厳粛な雰囲気でありながら、優し表情を浮かべる女性は静かに頷いた。
その顔は少年が少女の後ろに見ていた、少年の母と同じものだった。
女性は悪霊へ近づき、ゆっくりと抱きしめた。
しかし呻き声を上げるだけで、少女に近づく足は止まらない。
やがて少女の目の前まで来ると、悪霊は少女の首へと腕を伸ばし、締め上げ始めた。
「うっ…ぐっ…おね、がい…!」
懸命に訴えかけ、闇に飲まれた少年の意識を呼び起こそうとする。
「くっ…戻って、きてっ…!」
少年から流れ込んでくる負の感情に耐えながら、少女は必死に呼びかけていた。
悪霊になって間もない彼だからこそ、まだ引き戻せると信じていたのだ。
女性の霊は抱きしめる力を更に強めた。
「ぁが…がっ…!」
するとその時、悪霊に小さな変化が現れた。
少女の首を絞めていた手を離し、膝をついて頭を抱えたのだ。
「けほっ!けほっ…!」
「うがぁあ゛あ゛!」
苦しそうな声を上げると、悪霊の身体から黒い瘴気が噴出していた。
「戻ってきなさい!」
「があ゛…たす、けて…あ゛あ゛あ゛!」
少女の声が届いたのか、雄たけびの中に確かに救いを求める声が聞こえた。
負の感情が押し寄せるのも構わず、少女はすぐさま悪霊の身体を抱きしめる。
「大丈夫。私はここにいるわ。だから、戻ってきなさい!」
「うああ゛あ゛あ゛…!」
耳元で囁いた言葉は、確かに少年へと届いた。
黒い身体から負の感情が抜け出すかのように、徐々に元に戻っていった。
「ここは…?」
「おかえりなさい…」
正気を取り戻した少年を見て、少女はもう一度彼の身体を抱きしめた。
それを見た少年はようやく全てを思い出した。
「どうして…?」
それは悪霊と成った自分をそのまま浄化できたはずなのに、という疑問だった。
「私出会ったとき、アナタは怖がりもせず、近づいてきてくれたでしょう?」
思い返せば、あの時この場所で少女に出会わなければ、そのまま悪霊に成り果てていたかもしれない。
「私を見た人たちは、みんな気味悪がって近寄ってこなかった…だから、すごく嬉しかったの」
少女は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべ、少年が戻ってきてくれたことを喜んでいた。
そして同時に、自分に会わせたい人がいると言って、後ろを指差したのだ。
少年はまるで夢でも見ているかのように、少しの間固まっていた。
「母さん…!」
そして自分の後ろに佇んでいた霊の顔を一目見て母親であることを理解すると、その胸に飛び込んだ。
母に抱きつく我が子と、優しい笑みを浮かべる母。
それは親子の愛を感じさせる一瞬であった。
「今までどこにいたの?」
「私の守護霊として、傍にいてくれたの」
少女が出掛けたとき、少年は確かに母の姿を見ていた。
つまりあの時既に母は少女の守護霊として憑いていたのだ。
「アナタ、屋敷で盗み聞きしてたでしょ?」
ぎくり、と少年は焦りの表情が出ていた。
「私と喋っていたあの人、写真で見せた人だけど、ありとあらゆる全てを見通せる千里眼の持ち主なの」
「じゃあ、ここにボクがいることも…?」
「そ。盗み聞きしていたことも。私に守護霊が憑いていることも。アナタが屋敷を逃げ出した後にあの人が全部教えてくれたの」
結局、逃げ出したところで全て筒抜けだったのだ。
それを知った少年はそっか、という短い言葉しか出てこなかった。
「…あのね、アナタに伝えなきゃいけないことがあるの」
「うん…」
話を切り出した少女は、どこか言いにくそうに喋っていた。
いずれ迎えるであろう結末を、受け入れる覚悟は既に出来ている。
全てを受け止めようと、少女の言葉に耳を傾けた。
「本当はアナタをお母さんと引き合わせたくなかった」
「え…?」
予期せぬ言葉に、少年は戸惑いを隠せなかった。
少女は苦笑いしながら何を言うべきか迷っているように見えた。
「アナタのお母さんはアナタと一緒にいることを願った。そしてアナタはお母さんに会うことを望んだ…」
少女の目から涙が溢れると同時に、少年と母の身体は光を帯び始めた。
「霊っていうのは、未練があるからこの世に残るの…けど、アナタたちはもう、未練がなくなったのよ」
「未練がなくなった霊は、どうなるの?」
「ただ成仏するのみ、よ」
最後の言葉は震えていた。
少女はとめどなく溢れる涙を拭いながら、声を押し殺して泣いていた。
「せっかく、私を怖がらない人に会えたと思ったのにっ…」
二人の身体からはやがて、ホタルのような小さな光が夜空へと昇って行った。
ひとつ、ふたつと光は数を増やし、少年の身体は透け始める。
「泣かないで…」
「こうなることもっ…あの人は全部お見通しだったのよっ…」
嗚咽交じりに少女は語る。
守護霊となった母親と引き合わせれば、悪霊から戻れることも。
そして、少女の力を使わずとも成仏することも。
全てあの人は見えていた、と。
「もっと、アナタと話したかった…」
「うん…」
「もっと、アナタと一緒にいたかった…」
「うんっ…」
少年の目からも涙が溢れ、少女は手を伸ばす。
「もっと、アナタを感じていたかったっ…」
少女の手は少年の顔に触れることなく、空を切った。
もう少年の魂は還り始めているのだ。
「ボクも、だよ」
少年は微笑みを浮かべ、やがて母と共に光となって空へと昇っていく。
あとに残ったのは、少女の慟哭の叫びだけだった。