第八章 分析
第八章 分析
「最近どうだ?」
「うーん、最近ねぇ」
永遠は返答に困った。
記憶のことを言うべきか否か。
波留馨の、笑われるか病院送りになるだろうという言葉を思い出した。
しかし目の前にいるのは医者だ。これは言うべきだろうか?
真崎先生の専門はなんだろう? ふと永遠は思った。
どうみても精神科医には見えなかった。
そもそも医者にすら見えなかった。
黒髪に縁なしの眼鏡に、すらっとした細身な体つき。
顔は適度に整っていた。
良くてモデル、悪くてゲームの悪役キャラが似合っているのかもしれない。
いくら医者に見えない医者でも、真崎はまぎれもなく永遠の担当医だった。
やはり担当医には言っておくべきだろうか。
単なるノイローゼかなんかだと言われるのだろうか。
洗脳説など持ち出そうものなら、即入院だろうか?
急に笑いがこみ上げてきた。
波留馨と二人で入院生活?
何の為に? 治療のため? それとも隔離されるため? 実験の続行?
『そもそも何の実験だ?』波留馨の馬鹿にしたような声が聞こえてきそうだった。
「どうした? 永遠」
不思議そうに真崎は永遠をみつめ、形の良い眉を歪めた。
「なんでもないです」
慌てて永遠は両手を大げさに振った。
そんな状態を笑える自分がいることに気が付いた。
だから俺は大丈夫だ。永遠はそう確信した。
◆◆◆
「どうだ? まだ体の調子はおかしいか?」
「はい」
力なく波留馨は頷いた。
ここはいつ来ても白い世界だ、と波留馨は思っていた。
あまりの清廉さに、少し気後れするところがあった。
だが、今はそれが羨ましかった。
何もかも白くすっきりさせたかった。
「他におかしなところはあるか?」
波留馨は真崎の言葉に考えを巡らせた。
記憶……これを今ここで言ってよいのだろうか。
不安がよぎった。
もし大学内で何かの実験が行われているとしたら、記憶のことを大学側の人間に言ってもよいのだろうか?
それはひどく危険な気がした。
「ありません」
波留馨はそう答えるに留めた。
それが何の解決にもならないのはわかっているが、そうするしかなかった。
いつになったら、心が晴れやかになるのだろうか。
ドアを閉めると波留馨は深い溜息をついた。
◆◆◆
定期検診を終えた永遠は、まりあの家で夕食にありついていた。
苦手だといつも口にしているが、いつ食べても、まりあの料理はおいしかった。
デザートの手作りババロアも、冷えていてとてもおいしかった。
「で、俺に話って何だ?」
おなかがいっぱいになり、満足した永遠はお茶をすすりながら、まりあに問うた。
「うん、ひとつはね、夢のことなんだけどね……」
「夢って俺の?」
「そう、あの夢のこと。それでね、夢占い、夢分析してみたらどうかなって思ったの。でもいろいろものによって、全然解釈が違ってどう判断していいかわかんないんだよね」
とまりあは言いながら、パソコンをたちあげた。
「キーワードは、暗闇でしょ、走るでしょ、泣く、叫ぶ……」
永遠は、指を折り、数えるまりあの言葉を遮った。
「でもそれって夢を見た奴、つまり俺の心がどうなってるかがわかるってやつだろ?」
そんなのどうでもいいよ、わかりきったことだし。
俺はおかしいんだよ。
そんなことはもうわかっている。
「俺のことなんてどうでもいいよ。それより『波留馨』がなんなのかが知りたいんだ」
まりあの表情は穏やかだった。
「うん、私も永遠はそう言うと思ってた。でも一応めぼしいものはデータ、落としておいたから、あとで見てみて。何かの参考になるかもしれないし」
「サンキュウ」
永遠はにっこり微笑んだ。
まりあが自分を心配してくれていることが心苦しくもあり、またうれしかった。
「夢分析で『波留馨』のことはわからないけど、あの夢が、自分でも気づいていない現状を気づかせてくれたとしたら、未来を変える事ができるかもしれない。夢が教えてくれたのかもしれない。今の永遠にどうするべきかを、何をするべきかを……」
「俺の未来は『波留馨』が握ってるってことか?」
「そうかどうかはわかんないけど、可能性の一つとして捉えておいてね。私の言うことなんて、あてにならないかもしれないから」
「そんなことないよ、ありがとう」
永遠は力強く言った。本当に心の底から、彼女の優しさに感謝していた。
言葉に表すと、ありがとうという五文字のありきたりの言葉に、軽くおさまってしまうが、その気持ちは、それの何倍も大きいものだった。
「そして、もうひとつの話……」
そう言ってまりあは瞳を閉じて深呼吸した。
言いにくい話なのだろうか。永遠は先を促すことはやめ、彼女が言葉を紡ぐまで、黙って彼女を優しく見つめた。
「私をひとりにしないでね」
まりあは永遠の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
そう言って永遠もまりあの瞳を覗き込んだ。
その瞳は震えているように見えた。
あきらかに何かにおびえている。
その彼女の瞳の中に永遠の姿が歪んで映っていた。それと同時に、まりあの頬を一滴の涙が伝い落ちた。
永遠はそっと人差し指でその涙を拭った。
「このごろ波留馨と仲良しじゃない。私ひとり、置いてけぼりにされたみたいで寂しいの」
永遠はまりあをそっと抱き寄せた。
まりあは黙って、永遠の腕の中で静かに瞳を閉じた。
「お前をひとりにさせない。俺たちはどこへも行かないよ」
まりあはその言葉に小さく頷いた。
永遠の腕の中の暖かいここちよさは残念ながら、言葉では言い表せない漠然とした不安をまりあから拭い去ることはできなかった。
◆◆◆
暗く冷たく広い場所に、ひとり分の足音だけがこだましていた。
ふと足音がやんだ。だが静寂が訪れたわけではなかった。相変わらず機械音だけは、忙しそうに働くのをやめなかった。だが耳につく大きさではなかったので、気にする人間などここには誰もいなかった。
部屋の中央にあるガラスケースの前で、真崎は歩みを止めた。
ガラスケースに、そっと手をあて、視線を少し上にずらした。
これは神の意志に背く行為だろうか?
だが、神などという生き物などどうでもよい。天罰なんていくらでも受けてやる。
必要な人間はただひとり。
たとえ世界が滅びようとも、世界中の人間から非難されようとも、己の意志は歪められない。あの時にした決心は揺らがない。
あいつがそれを望まなくとも……たとえ恨まれ嫌われようとも……
真崎は瞳を閉じた。
瞼に光景が浮かぶ。
柔らかな笑顔を浮かべた、髪の長い可愛らしい少女が微笑む。真崎に微笑む。愛くるしい表情を浮かべる。
「おまえもここに来ていたのか」
ふと背後から近づいてくる人物がいた。
そして男は真崎の隣に立った。
二人は無言でガラスケースの中をみつめた。
男は真崎に視線を移して言った。
「あの時の決心を誰もが忘れない。それだけあいつは……」
皆にとって必要だった。最後まで聞かなくとも、真崎は男の言葉の続きを理解した。
「石神、おまえには見えるのか?」
石神と呼ばれた男は、黙って首を横に振った。
「俺たちは間違っているのか?」
間違っていると言われても、無論やめるつもりなど毛頭ない。
それは他の奴等も同じだろう。今までこうして過ごしてきたのがなによりの証だ。
「わからない。あいつが望んでいるのか否かも、感じることができないんだよ」
石神は弱々しく呟いた。悔しさが滲んだ、切ない声音だった。
「ただやっぱり、俺たちには必要なんだよ。自分勝手な言い分だけどな」
石神は肩を竦めた。
「あいつがたとえ悲しもうとも、拒絶しようとも、俺たちの気持ちは、あの時のまま変わらない」
「諦めない。それが俺たちの交わした約束だ」
そしてまた、二人は無言でガラスケースの中をみつめた。