第五章 約束
第五章 約束
「こんなとこで会うなんて、奇遇だな」
男は、大学内の廊下を歩いている真崎に声をかけた。
「そうだな、暗いところではよく会うけどな」
真崎は眼鏡に手を当て、頷いた。
「こんな明るいところじゃ、珍しいな」
綺麗な茶色の髪を男は軽くかきあげた。
「そっちのプロジェクトは進んでるのか?」
真崎が男に問い掛けた。
「同一なのに同一にならない。お前の方は?」
「無駄が多すぎる」
真崎は首を横に振った。
「俺は諦めないからな」
「もちろん、俺もだよ」
二人はお互いを見て、挑戦するかのように睨み合った。
そしてその後、二人して、ふっと表情を緩めた。
「あっそういや、沙々華が久し振りに皆で会いたいってさ。まぁ、俺たちはいつでも会おうと思えば、すぐ会えるんだけどな。あいつだけだもんな、外にいるのはさ」
男は突然思い出したらしく、笑顔を添えて言った。
「わかった。予定を調べてメールするよ」
「サンキュウ」
「じゃ、またな龍垣」
「あぁ、またな」
そう言うと龍垣は真崎に軽く手を振り、もと来た道へと引き返していった。
真崎はその後ろ姿をしばし見つめた。
「あと少しだからもうちょっと待っていてくれ……里珠奈」
一言ひとこと、噛み締めるように呟きながら、真崎は拳を握り締め、瞳を閉じた。
◆◆◆
「どうしたの永遠? そんな顔して」
まりあは永遠の両頬を挟んで、顔を近づけた。
永遠はそんなまりあの様子を見て穏やかに微笑んで、彼女のほっぺたを優しくつまんで軽く引っぱった。
「ちょっと考え事」
「どんな?」
「俺はなんで、この大学を受験したんだろうってこと」
「どうしたの、急に?」
不思議そうに、まりあは永遠の瞳をみつめた。
授業が終わった教室には、二人以外誰もいなかった。
「覚えてないんだよ。俺はなんでここにいるんだろう。その他の記憶だって、なんだかおぼろげで不安定で」
「昔のことも大事だけど、これからのことも大切だよ。過去に囚われて、未来を棒にふっちゃだめだよ」
まりあは永遠の瞳を覗き込んだ。
「怖くて、言ってないんだ」
小さな声で永遠は呟いた。
「何を?」
「波留馨に、夢のことを……」
無言でまりあは永遠を見つめていた。
「あの夢で、何が起こっているのかはわからないし、『波留馨』が波留馨のことなのかどうかもわからないけど、でも絶対よくないことなんだよ。言ってしまったら、本当になってしまうような気がして、漠然とした不安が襲い掛かるんだよ」
「言霊ね」
その言葉に、永遠は無言で頷いた。
夕焼けが窓の外から、二人を照らしていた。
同じ夕焼けは二度と見られないのだそうだ。その日の塵の量、湿度、天気、その他もろもろのことで色が決まるらしい。
塵と聞いた時点で、なんだかロマンチックな気分がそがれてしまうのはなぜだろう。
永遠は夕焼けの話を波留馨から聞いた時、そう思ってしまった。
それと同時に、なんだか寂しくてしかたなかった。
決して二度と同じ物などありえないという事実が、悲しかったのかもしれない。同じ物など存在しない、同じ物など作れない、一秒一秒が違うものであるという事実が、切なかった。
同じということはありえないということ。
同じ物に出会うこと、めぐり合うことはもう二度とないという事実に心の底から寂しさを感じた。
日々一刻と変化していくことに恐怖を覚えた。
成長も老いもいらない、願わくば今と同じを保ちたかった。
「そうだ、皆で海に行こう」
まりあはポン、と顔の前で手を叩いた。
「海?」
「そう、海、きっと楽しいよ。嫌な気分なんて、あっという間に吹き飛ぶよ、ね、そうしよう」
まりあは永遠の腕にしがみついた。
まりあの顔は、今にも泣き出しそうに見えた。永遠の不安が、彼女に伝染したのかもしれない。まりあは、永遠の不安を少しでも拭おうとしてくれているのだ。その優しさが永遠にはうれしかった。
「そうだな、皆で行くか」
永遠は、まりあに悲しい顔をさせたくなかった。
永遠はまりあの頭を優しく撫でた。
次の日曜は晴天だった。
まさに海びよりよ。とまりあは、はしゃいでいた。
永遠、波留馨、まりあ、梨花の四人で出かけることになっていた。
梨花がお弁当を作ってきたから、と言うと一同深く感謝し、喜んだ。
大学内でレンタカーを借りることにした。
運転手はじゃんけんで負けた人よ。というまりあの一言で勝負が始まった。
「あー、負けちゃった。じゃ、私が運転するね」
そう言ったまりあを、慌てて永遠が制止した。
「おいっおいっおい。ちょっと待て。おまえ、こないだ免許とったばっかだろ? 俺たちの命を、お前の技量なんぞには預けられない」
永遠は、キーを握り締めるまりあから、無理やりもぎとった。
「あっ何するのよ。私の運転はプロ級だって教官のお墨付きなんだから」
まりあは両の頬をふくらませた。
「永遠君は、まりあにかっこいい姿を見せたいのよ」
「あいつは、まりあにかっこいいとこ見せたいんだよ」
まりあの両耳にそれぞれ囁かれた。
途端にまりあは、ぱっと顔を赤らめ、嬉しそうに助手席へと駆け込んだ。
「お前等、まりあの扱いになれてるんだな」
永遠の発言に三人は顔を見合わせて笑った。
「どうしたのー? はやく行こうよ」
ひとり先に乗りこんだまりあは皆を急かした。
車の窓を開けると、風が入ってきて気持ちよかった。
法定速度を守りながら、永遠は快調に飛ばす。
終始安全運転な永遠に、まりあは感心していた。
景色が次々と流れていった。
「今、波留馨はどんな研究してるの?」
まりあは後ろを向きながら言った。
「今のところは特に何も」
「じゃ、次回の研究テーマは?」
「まだ決まってないよ。何かいい案でもあるの?」
弾んだまりあの声に、波留馨は応じた。
「えへへ、えっとねぇ、次元についてはどう?」
「この世は三次元って奴か?」
運転しながら、永遠はまりあに視線を移した。
「前見て運転」
とまりあにぴしゃりと言われ、永遠は黙って前を向きなおした。
「そう、おもしろそうだと思わない?」
「そうだね、でもこの三次元の世界で生きている俺たちには、高次の世界は理解できないんだよ」
「どうして?」
まりあが問う。
「仮にこの世が二次元だとしよう」
「縦と横しか存在しない世界ね」
梨花が補足した。
「その世界で、どうやって存在しない高さを理解することができるんだい?」
「そうね、そう言われるとわかんないわ」
まりあは握った拳を、顎の下に置いた。
「もっとわかりやすい例えだと、セピア色の世界、もしくは白黒の世界が存在すると仮定しよう。そんな中でどうやってカラー、色の存在を知ればいいんだ? その世界の住人には知る術はないんだよ。存在しないものを理解することはできない。存在するものしか存在しないんだよ。存在するもの以外は、理解できないんだよ」
一呼吸置いてから、波留馨は続けた。
「人間の脳で考えられること以上のものは、この世では起こらない。裏を返せば、人間の脳で思いつくものは、いずれ実現されるそうだよ」
「でも四次元って、縦、横、高さに時間軸を足したものなんでしょ? それってよくわかんないんだけど。だって、この世界にも時間って概念はあるわけでしょ?」
隣に座っている梨花は、波留馨を仰ぎ見た。
「時間を自由に操れるとしたら、どうだろう?」
「自由に? 巻き戻せたり、早く送りできるってこと?」
まりあは大きい瞳を、より一層大きくした。
「さぁ、それはわかんないよ。それを俺たちが体感してはいけない。いや、できないんだよ。絶対にね。できてしまったら、ここは四次元の世界になってしまうんだからね」
潮の香りが四人の鼻を刺激した。もうすぐ海だ。そう思うと自然に心が弾んだ。
ほどなく一面に海が広がった。海はとても綺麗だった。すべてを包み込んでくれるように大きかった。それと同時に、自分たちがいかにちっぽけな存在であるかを思い知らされて、胸がしめつけられる思いがした。
砂浜にシートを敷き、梨花が作ってくれたお弁当を食べた。
「朝、何時に起きて作ったの?」
「五時よ」
「うへーすごいねぇ。梨花は」
まりあは感心したようにうなずき、おにぎりとサンドイッチを両手に握り締めていた。
「っていうか、お前は作ろうとかは思わなかったのか?」
「だって料理は苦手だもん」
まりあは永遠を睨みつけた。
「あっ、俺、何か冷たいもの買ってくるよ、何がいい?」
「えっとねぇ、果汁のジュースがいいな」
「私はお茶をお願いします」
「永遠は?」
「俺、優柔不断だから、見てから決める。一緒に行こうぜ波留馨」
車を置いた近くの自動販売機まで、二人は歩いた。
まりあたちからは少し距離がある。こちらの会話は絶対に聞こえないだろう。
「お前、大丈夫か?」
ジーンズのポケットから、永遠は財布を取り出し、自販機に硬貨を入れながら呟いた。
これを言う為に永遠は波留馨についてきたのだった。それは波留馨にもわかっていただろう。
「何が?」
おどけた表情をして、明るい声で波留馨は返した。
「何がって」
永遠は眉を顰めた。
「ごめん、からかってみただけ。大丈夫だよ。それより、お前こそどうしたんだ?」
波留馨の声はいつもと同じ調子に戻っていた。
仮面をかぶるのが上手な奴なんだ、と永遠はその時、初めて気が付いた。まりあや梨花としゃべる時は、いたって普段の彼だった。
それと同時に、自分にだけ本心を語ってくれたことが嬉しかった。心を許してくれているのが心地よかった。
そして、やはり波留馨は、永遠の前では演技はしないつもりなのかもしれない。いや、できないのかもしれない。波留馨の笑顔はぎこちなかった。
引きつった笑顔の波留馨なんて、それこそ重症な証拠だろ。永遠は心の中で、苦々しく呟いた。
「えっ俺?」
ふと、話題が自分に向けられていることに気が付いて、永遠は慌てて視線を波留馨にあわせた。
「なんだか元気がないよ」
「俺も不安なんだ。なぜ、俺はこの大学にいるんだろうって。どうしてもわからない。思い出せないんだ」
段々と語尾が小さくなっていった。本当に永遠は自信がないのだ。どちらかといえば体育会系の自分が、理系の大学にいるのが不思議でならない。
「ごめん、俺が変なこと言ったから」
波留馨は下を向いた。
「違う、波留馨の所為じゃないよ」
永遠は軽く首を振った。
「俺の記憶もおかしいんだよ」
永遠は海を見つめた。
深い青色は何も言わず、ただそこあるだけだった。語りかけても、何の答えもくれないだろう。
そして空を見上げた。
相変わらずの晴天だった。その清々しさが永遠には恨めしかった。
「こないだお願いしていたモデルの件、今でもいいかな?」
梨花は皆の顔を順に見た。弁当を食べ終えた皆は思い思いにくつろいでいた。
「もちろん」
と三人の笑顔をと声が綺麗にはもった。
梨花は鞄からスケッチブックを取り出し、デッサンを始めた。
「楽な姿勢でお願いね」
梨花から少し離れたところで、まりあと波留馨が砂浜にすわり、永遠はその横に寝転がった。
砂の感触が心地よい。適度に熱を持った砂が永遠を包み込んでいる。
「五年先も十年先も、こうやって皆で一緒にいられたらいいね」
まりあは呟いた。その声は真剣だった。
「約束だよ」
そう言って、永遠と波留馨の顔を覗き込むまりあは、今にも泣き出しそうだった。
五年先、十年先はどうなっているか、それは誰にもわからない。
約束していないと不安で弱い人間。でもそんな人間を永遠は愛おしく思う。
不安定なゆえに求める安定。
同一なものなどありえないことを知っていて、それでも同じを望んでしまう愚かしさ。
完璧なものなどつまらない、だからその危うさを持っている人間が永遠は好きだった。
永遠は無言でまりあの言葉に頷いた。
波留馨を見ると彼も微かに笑んでいた。
例え約束が守れなくても、約束を守りたいという気持ちは嘘偽りではない。
この感情は決して、まやかしなどではない。