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りしゅ  作者: 理人
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第四章 異変

第四章 異変






 留守電を聞いてみる。


 聞きなれない声がする。


 その声の女性は、自分の母だと名乗っている。


 だが、波留馨ハルカにはそんな声は聞き覚えがない。


 次に少女の声がした。お兄ちゃんと自分のことを呼んでいるようなので妹なのだろう。だが、やはりこの声も、波留馨の知るものではなかった。


 気味が悪い。何かのいたずらか? それともおかしいのは自分か。


 波留馨は頭を抱え、そこへへたり込んだ。


 誰か助けてくれ……もう何がなんだかわけがわからない。いつからこうなったのだろう。


 少し前まで、この電話を聞いても何も不思議には思わなかった。


 何の違和感も抱かず、聞いていたのだ。


 ふと思った。この大学に来る前は何をしていたのだろうかと。


 それが何も思い出せないのだ。


 どこの高校へ通っていたのか、小学生の時どんな遊びをしていたのか、何一つ思い出せなくなっていた。


 いや、思い出せないのではなくて、記憶にないのかもしれない。


 ないものならば、いくら思い出そうとしても無駄というものである。


 では、先日まであった、あの記憶は何なのだろう。


 偽りの記憶? 誰が何の為に? 植え込まれた偽物の記憶?


 では自分は誰なのか?


 波留はるかおりという人間は、そもそもこの世に存在するのか?


 それとも自分は波留馨ではないのか?


 それともやはり、自分がおかしいだけなのだろうか。ただの記憶障害?


 それとも……


 波留馨はそのまま床に崩れ落ち、頭を抱えて暗い闇を見つめた。


 耳元では、先日まで家族だと思っていた人物の声が、何度も繰り返し聞こえてきていた。


 俺は誰なんだろう……







◆◆◆







「質問がある」


 今日も永遠とわは波留馨の家へ遊びに来ていた。もう日課のようになっていた。


「なんだ? どうしたんだ? 改まった顔して?」


 真剣な波留馨の表情をみてとると、永遠は首を傾げた。


「なぜ、この大学を選んだんだ?」


「なぜって?」


「永遠は足が自慢だろ? なぜ体育系の大学に行かなかったんだ? ここはどう考えても理系に力が入っている大学だろ? なぜなんだ?」


「なぜ……?」


 永遠は波留馨の言葉を反復した。


 そんなことを永遠は考えたことがなかった。


 なぜなんだろう? わからない。なぜ? なぜ俺はここにいる?


 急に永遠は不安になった。今まで自分が積み上げてきたのもが、まやかしのように思えてきた。


「高校はどこへ行っていたか覚えているか? 何を勉強したのか? 友達はいたのか? そして、そいつは今、何をしている? 連絡をとっているか? 大学に入ってから、家族に一度でも会ったことがあるか?」


 永遠は首を振った。


 思い出せない。


 いや覚えていない。記憶がないのだ。なぜ、記憶がない? 大学以前の記憶がない。


「家族とは交流があるのか?」


 もう一度、波留馨が問うた。先ほどより、強い声だった。


 必死に自分の記憶を永遠は探る。


「留守電だけなら、毎日にように入ってる……」


 だんだん自分の記憶に自信が持てなくなってきた。何を信じて、今まで生きていたのか、わからなくなってきた。これから自分はどうすればいいのかわからない。


「俺も一緒だ」


 波留馨の目は真剣そのものだった。


 その時、永遠は悟った。


 前に聞かれた自分を定義するもの、あれはこれを危惧した波留馨の悩みだったのだ。倒れてしまうほど深刻な悩み、自分は何なのか。


 永遠は、この日は波留馨の家に泊まらずに帰った。


 よくよく考えると、家族の名前も生年月日も小学生だったころのことも、全部覚えていた。


 小学校のころ、友達とかっけっこをして、負けた事がなかったとか、外で夜遅くまで遊んで、家にいれてもらえなかったとか、中学校のころ好きだった女の子こととか、すべてが線で繋がった気がした。


 なぜさきほどは、あんなに不安にかられたのだろうか。


 本当に自分が誰なのか、わからなくなりそうで怖かった。


 波留馨といたため、きっと彼の精神に同調してしまったのだろうと思った。


 いや、そう思わなければ、やっていけないと思った。


 なぜあの時、自分の記憶はなくなっていたのだろうか。よく考えなければ思い出せないとは、いったいなんの冗談なのだろうか。考えれば考えるほど怖くなった。


 そして、その不安を拭いたくて、留守電を聞いてみた。


 そこには、お調子者の母の声、厳格な父の声、陽気な弟の声が永遠の脳を刺激した。


 俺って影響されやすいのかな、永遠は心の底から笑った。さっきまでの不安を、えもいわれぬ恐怖を、払拭するかのように。


 波留馨は大丈夫だろうか。すごく心配だった。あの時の波留馨の深刻な表情が、永遠の脳裏に焼き付いて離れなかった。


 やっと安堵できたと思ったとたん、ふと波留馨の言葉が脳裏を掠めた。


『なぜ、この大学を選んだんだ?』


 俺はなぜ、この大学を選んだのか。その回答は、自分の記憶の中からは得られなかった。


 なぜ俺は、体育系の大学に行かなかったのだろう。


 永遠は急に不安に襲われた。


 俺の記憶も、何かおかしいのだろうか。それとも、そもそも人間の記憶なんてものが不安定なのだろうか。そうあって欲しいと願った。


 これがあの夢の暗示なのだろうか?







◆◆◆







「あれ、おまえこんなとこで何してるんだ?」


 事務局の前で、見慣れた姿を見つけ、永遠は声をかけた。


 あの奇妙な記憶の喪失を感じた日から、ちょうど一週間が経った、午後だった。


 不意に声をかけられたのに驚いたようで、びくりと体をこわばらせながら、波留馨が振り返った。


「あぁ、住所を調べてたんだ」


 永遠の顔を見て、波留馨は力なく微笑んだ。


 心なしか、前より痩せたような気がした。


「住所? 誰の?」


「自分の」


「おまえ、自分の住所、忘れたのか?」


 いぶかしむように、永遠は波留馨の顔を覗き込んだ。


 あれから一週間、ずっとまた思いつめていたのだろう。


 波留馨の顔色は、以前倒れていた時のように青ざめている。


「あぁ、こんな住所は俺の記憶には無いんだよ」


 と呟いた波留馨の表情は強張っていた。


 住所が書いてあるとおぼしき紙を持つ手が震えていた。


 不安が横切った。


「今から行くのか?」


「あぁ」


「じゃ、俺もついてく」


「楽しくはないと思うけど、それでも?」


「それでも」


 永遠は力強く頷いた。


 なんだか、このまま波留馨をひとりにしておくことは、酷く危険な気がした。


 永遠はあの夢の『波留馨』を思い出していた。


 電車を二本乗り継いだ。


 大学の敷地内から出たのは、本当に久し振りだった。だが、今はそんなことに感心している場合ではなかった。


 そしてまた別の電車に乗り換え、バスにも乗った。


 永遠はその間、ずっと考えていた。


 波留馨の記憶にない、波留馨の家がみつかった場合どうなるのだろう。


 その場合、家族が出てきても、波留馨はわからないのだろうか。


 それはそれで大変なことになるには違いない。この場合、波留馨の記憶があとから失われたという事になる。住所記入の時には記憶があったのだから。


 もし、波留馨の探している家がなかったらどうしよう。


 それは大学側の登録ミスか、それとも最初から、波留馨が住所記入の時にミスをして、そのまま登録されてしまったのか。


 それとも、本当にそんなものは、最初から存在しえなかったのか。


 どちらにしても、あまりよい展開になるとは思えない。


 そして、どちらにしても、波留馨がつらい立場にたたされるのは目に見えていた。どう転んでも、波留馨の記憶が困惑しているという証なのだから。


 波留馨は電車に乗っている時も、バスに乗っている時も、一言もしゃべらなかった。ずっと緊張している様子だった。なんとなく、永遠も声をかけられずにいた。


「ここら辺だと思うんだけど」


 地図を片手に、波留馨は辺りを見回した。


 どれどれ、と永遠も地図を覗き込んだ。


「なんか、ここら辺は入り組んでて、よくわかんないなぁ」


 永遠も首を捻った。


「でも、この辺なんだよな? 近所の人に聞いてみるか」


「そうだね」


 偶然、永遠たちの前を通りかかろうとした、犬の散歩していた女性に尋ねてみた。


 返答はいたってシンプルだった。


 そんな住所は聞いたことがない。


 波留という名字も聞いたことがない。


 本当にこの近くなのか。


 住所が間違っているのではないか。


 この女性から得られた情報はこれだけだった。


「そういえば、さっき交番があったね。戻って聞いてみよう」


 そう波留馨は提案し、二人はまた無言で歩き始めた。


「ここの住所は、どこになるんでしょうか?」


 地図を広げ、波留馨は駐在所の警官に尋ねた。


「うん、ちょっと待ってよ、どれどれ」


 と人の良さそうな、腹が出ている中年の警官が対応してくれた。


「あぁ、この住所はでたらめだな。近頃の若者は、人をおちょくることしか考えていない。大人をからかって楽しいか?」


 急に警官は怒り出し、永遠たちを追い出した。


「何がどうなってんだ?」


 永遠は叫んで、波留馨の方を見た。


 波留馨の表情は、これ以上ないというほど暗かった。


 結局、その場ではどうにもならず、二人は大学に引き返した。帰りの道中も、二人は一言もしゃべらなかった。


 波留馨は、ずっと何か考えた風だった。


 永遠はその様子を見て、何も言い出せなかった。







 永遠は波留馨の家のソファに足を投げ出した。


「俺は誰なんだろう?」


 溜息まじりに波留馨は呟いた。波留馨の家探しから戻ってきて、一時間近く経って、漸く発した彼の言葉はこれだった。


 永遠は身構えるように、波留馨に視線を向けた。


「最近、昼間に幻影が見えるんだよ」


「幻影?」


 永遠は眉を顰めた。


「全く知らない人が、俺のことを親しげに呼ぶんだ」


「まさか幽霊?」


「それもかなりの勘違いだよ。なんか違う名前で、俺のことを呼んでいるんだ。気味が悪いよ」


「とり憑かれそうなのか?」


「さぁ、それはどうだかね」


 波留馨は肩を竦めて、弱々しく微笑んだ。冗談などに構っていられない様子だった。


「俺は気が狂いそうだよ」


 波留馨はぼそりと呟いた。たぶんそれが本音なのだろう。


 永遠はこれ以上、苦しむ波留馨の姿を見たくなかった。だが、お気楽に大丈夫だよと、何の根拠もなく、励ますようなまねだけはしたくなかった。そんな無責任な友人にはなりたくない。


 永遠は無言で、波留馨の手を握った。その手はとても冷たかった。彼の心が溶け出しているかのようだった。


 突然の永遠の奇異な行動にも、波留馨は動じなかった。もうそれほど心が病んでいるのかと永遠が不安に思った頃、波留馨の指が力をこめ握り返してきた。


 その様子に永遠は安堵した。まだ大丈夫だ。あの夢は何でもない。ただの夢だ。永遠は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。


 波留馨は俺が救う。


 突如、あの夢の場面が頭をよぎった。何も覚えていないはずなのに、頭の中に浮かんだのは黒だった。ただ暗闇がある風景だった。すべてが黒かった。暗黒だった。


 身震いがした。初めて、あの夢が恐ろしいと思った。奇妙だとは思っていたが、怖いと感じたのは、今日が初めてだった。


 あの夢の『波留馨』は、現実の波留馨の危機を俺に知らせに来てくれたのだろうか。


 そうだったならば、まだ救われる。これからそれに対処すればいい。


 だが、逆に本当にあの闇が、未来の波留馨の姿をうつしだしているだけだとしたら……


 不安だけが俺の胸をしめつけた。


 先ほどの安堵感は風の前の塵のように、僅かな力でどこかに吹き飛んでしまった。


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