私は誰
石畳のイタリアンレストランの路面店。ガラス越しに差し込む陽射しが、チェックのテーブルクロスを白く灼く。ランチメニューを広げた まほ は、怪訝そうな顔をした。テーブルのスマートフォンに見慣れない電話番号が表示されている。
「ねぇ、ママ……これって詐欺の電話かな」
けれどその着信音は途切れることなく、鳴り続けていた。周囲の客の視線が自然とテーブルに集まる。まほ の指が画面に触れる寸前、着信音がぴたりと止まった。静寂がテーブルを包む。まるで誰かが息を殺して見ているみたいで、背筋がぞわっとした。
「……切れたね」
まほ が小声で呟いて、でもすぐに眉を寄せる。「……そうね」私はその着信にただならぬ気配を感じ、その携帯電話番号を検索した。それは隣町の県立中央病院の外線電話だった。嫌な予感が胸をざわめかせた。
「ちょっと電話してみるわ」
私は席を立ち、店の外に出た。スマートフォンを握る指先が微かに震える。病院からの電話、夫の隆也は県外に出張中だ。今夜の新幹線で帰って来ると言い、土産は何が良いかと笑顔で玄関の扉を閉めた。その時感じた違和感……。
「もしもし……今し方、お電話頂きました小笠原と申します」
ドクドクと波打つ心臓を嘲笑うかのように、電話口では軽やかなメロディが流れる。やがて、「整形外科にお繋ぎいたします」と言われ喉が窄まった。嫌な予感は的中した。看護師の落ち着いた声が、逆に不安を煽る。
「小笠原隆也さんのご家族の方のお電話で、お間違えないでしょうか?」
「……は……はい」
看護師の淡々とした声が耳を素通りした。足元から崩れ落ちそうになるのを堪え、街灯に寄りかかって深く息を吐く。まさか……そんな、そんなことって。私の顔が真っ青なことに気づいた まほ は店の会計を済ませ、背中を支えた。ふと見上げると、 まほ の表情にも焦燥が見てとれた。
「ママ、パパに何かあったの!?」
「 まほ 、どうしよう……パパが交通事故に遭って……救急車で運ばれたって」
「交通事故!大丈夫なの!」
まほ は路肩に停まっていたタクシーの後部座席を慌ててノックした。空気の抜ける音がしてゆっくりとドアが開く。私は まほ に手を引かれ、タクシーに滑り込んだ。
「どちらまで?」
気の良さそうな年配のドライバーが、ルームミラー越しに行き先を尋ねた。 まほ は助手席に身を乗り出し、「県立中央病院までお願いします!」と声を大にした。彼は青ざめた私と、 まほ の唯ならぬ気配を察し、ハンドルを握る手に力を込めた。こめかみが押さえつけられたように痛む。そんな私の肩を まほ はギュッと抱き、彼女自身の不安を振り払っているようだった。時速60キロメートルで流れる景色がスローモーションのように見える。タクシーは黄色信号を突っ切って交差点を横断したが、その時間さえもどかしく私は祈る思いで両手を組んだ。
「ありがとうございました!」
タクシーは病院の車寄せでブレーキを踏んだ。釣りはいらないと言い、運賃を支払う。車から降りると、足が震えていることに気がついた。ドライバーは、気の毒そうな顔で声を掛けて来た。
「お大事に」
「はい......」
県立中央病院は、地上十四階建ての大規模医療施設だ。吹き抜けのロビーには陽光が降り注ぎ、穏やかなバックミュージックが流れている。けれど一歩角を曲がれば、仄暗い廊下が奥まで続く。消毒薬の匂いが漂う廊下に、白い蛍光灯が寂しげに映る。どこからともなく聞こえてくる規則的なビープ音。外来患者の騒めく波を掻き分け、私たちは救急外来へと足早に向かった。
「……ママ、ここだよ!」
救急外来と赤いランプが点るグレーの扉が、まるで自分を拒むように重々しく佇んでいる。ノックをする握り拳が震えた。喉に渇きを感じ、鼓動が早鐘を打つ。戸惑っていると、まほ が焦ったく扉を叩いた。乾いた音が静まり返った廊下に響く。蝶番が軋む音、ゆっくりと開く扉、中から神妙な表情の看護師が顔を覗かせた。その背後に、ベッドに横たわる隆也の姿が見え、心臓が鷲掴みにされた。
「た……隆也」
「パパ!」
白いシーツの下、隆也は目を閉じていた。右腕にギプス、額に包帯。点滴の管が蛇のようにはい回り、顔は土気色だった。いつも冗談を言って私たちを笑わせる唇が、今は乾いてかすかに開いている。まほが「パパ……」と掠れた声を漏らし、私の腕にすがりついた。看護師が静かに口を開いた。「手術は無事に終わりました。骨折と打撲が主で、意識が戻るまであと少しです」 その言葉に力が抜けて、私は膝から崩れ落ちそうになった。まほが支えてくれなければ、床に座り込んでいただろう。隆也の指先が、小さく、確かに動いた。まるで「ここにいるよ」と告げるように。
まほ が看護師の横をすり抜け、隆也のベッドに駆け寄った。彼は眠るように目を閉じていた。「鎮痛剤で意識が朦朧としています……お声を掛けて差し上げて下さい」長身の医師は銀縁眼鏡の奥で微笑んだ。
「パパ、パパ……大丈夫なの?」
すると彼はうっすらと目を開け、痛みに顔を歪めながら起き上がった。「お父様は、右足を骨折されました。それだけで済んで奇跡としか言いようがありませんね」医師によれば、隆也を乗せたタクシーは大型トラックと接触し、車体は大破。ドライバーは生死の淵を彷徨っていると言う。
「念の為、二日ほど入院して下さい」
医師は白衣のポケットに手を入れながら まほ に優しく声を掛けた。けれど不思議なことに、彼の視線は私を素通りする。
「分かりました……よろしくお願いします」
「……ただ」
それまでの柔らかな物腰が一転し、険しい顔になった。不安が押し寄せる。
「ただ?ただ……なんですか?」
看護師がカーテンを捲ると、見覚えのある女性が頭に白い包帯を巻きベッドに横たわっていた。
*****
呼吸器が白く曇り、胸がわずかに上下している。鼻にはチューブ、腕には点滴を付け、まるで操り人形のようだった。
「ただ……奥様は意識がありません」
「ただ?ただ……なんですか?」
看護師がカーテンを捲ると、見覚えのある女性が頭に白い包帯を巻きベッドに横たわっていた。呼吸器が白く曇り、胸がわずかに上下している。鼻にはチューブ、腕には点滴を付け、まるで操り人形のようだった。
薄く開いた唇、長い睫毛、頬に残る小さな傷跡……それは紛れもなく、私自身の顔だった。
「ただ……奥様は意識がありません」
医師の言葉が、遠雷のように響いた。まほ が「え……?」と掠れた声を漏らし、私の腕を掴む。でもその指が、誰にも届いていない。隆也が苦しげに身を起こし、こちらを見ている。瞳に映るのは、確かに私なのに、なぜか届かない。
モニターのビープ音が急に速くなり、部屋がゆっくりと傾く。足元が溶けていくような感覚に襲われ、私はカーテンの向こうの自分を見つめ続けた。呼吸器の曇りが、私の吐息のように見えた。
すべてが、遅れて理解された。あの電話は、事故直後に病院から まほ にかかってきたものだった。隆也と私は、同じタクシーに乗っていた。出張から帰る彼を駅に迎えに行き、二人で遅いランチを食べようとこの街へ寄ったのだ。
まほ とはイタリアンレストランで待ち合わせをしていた。事故の瞬間、私は後部座席で隆也の肩に頭を預けていた。激しい衝撃、砕け散るサイドウィンドー、焼け付くような痛み。私は意識を失い、魂だけが抜け出たようにここまで来てしまった。
隆也の目が、涙で歪む。「ごめん……お前を、守れなくて」彼の声が、初めて私に届いた。でももう、触れられない。まほ がベッドの私にすがりつき、嗚咽を漏らす。
「ママ、ママ……起きてよ」
その華奢な背中を、私は抱きしめたかった。指先が、彼女の髪に触れる気がしたのに、何も感じない。
医師が静かに言った。
「脳死状態です。小笠原さんは、奇跡的に軽傷で済みました」
隆也が首を振り、まほ を抱き寄せる。二人が泣く姿を、私はただ見つめることしかできない。白いカーテンが風に揺れ、私の体を優しく覆った。陽光が窓から差し込み、部屋を温かく照らす。でも私の周りだけ、冷えていく。
最後に、隆也が私の手を握った。彼の温もりが、かすかに伝わってくる。
「ありがとう……ずっと、愛してた」
その言葉に、私は微笑んだ。誰も見えないのに。まほ が顔を上げ、私の頬にキスをする。「ママ、大好き......」二人の涙が、私の指に落ちた。熱かった。
視界が白く霞み、ビープ音が長く伸びる。すべてが遠ざかっていく。石畳のレストランで見た陽射し、チェックのテーブルクロス、隆也の笑顔、まほ の声……大切なものたちが、優しく私を包み込んだ。もう、痛みはない。寂しさもない。ただ、静かな安堵だけ。
私は、二人を見守り続ける。永遠に、ここから。
*****
あれから三年が経った。
隆也は、あの事故の後、右足に少し引きずるような癖が残ったけれど、会社を休むことなく復帰した。最初は夜遅くまで残業を続け、帰宅するとすぐに私の仏壇の前に座って、ぼんやりと写真を見つめていた。
まほ は大学を卒業し、希望していた銀行に就職した。笑いながら帰ってくる姿は、あの日の華奢な女の子とは思えないほど凛々しくなった。
家は少し変わった。リビングのソファは新しくなり、私が好きだったチェック柄のカーテンは、淡いベージュの無地に替わった。でも、ダイニングテーブルの上には、いつも季節の花が活けられている。
まほが職場からの帰り、花屋に寄って買ってくるのだ。隆也は料理が上手くなった。週末には、まほ のリクエストで私の得意だったハンバーグを作る。味は、私のものに少しずつ近づいているらしい。
私は、いつもここにいる。朝、隆也がネクタイを締めるのを鏡の後ろから見守り、まほが髪を結うのをそっと眺めている。二人とも、時折ふと立ち止まって、私のいた場所に目をやる。隆也は「奈緒、今日も行ってきます」と小さく呟き、まほ は「ママ、行ってくるね」と笑顔で手を振る。誰も見ていないのに、私は必ず「行ってらっしゃい」と答える。
去年の春、まほ の誕生日には、隆也が新しい女性を家に連れてきた。穏やかで優しい人で、まほ ともすぐに打ち解けた。私は最初、胸が締めつけられるような思いをした。でも、夜中に隆也が私の写真に向かって「いい人だろ?お前が勤めていた図書館の人なんだ......奈緒が選んでくれたみたいだ」と囁いたとき、安心した。
新しい彼女は、私の服が入っていたクローゼットを整理するのを手伝い、隆也のスーツにアイロンをかけてくれる。まほ は彼女を『恵さん』と呼び、時々三人で食卓を囲む。
今年の夏、隆也は試験に合格し、部長に昇進した。二人は私の仏壇の前で抱き合って泣いた。隆也が「奈緒、見てくれたか?俺、すごいだろ」と声を震わせ、まほ が「ママ......ありがとう。パパ頑張ったよ!」と花を供えた。私は、二人の肩にそっと手を置いたつもりだった。風がカーテンを揺らし、花びらが一枚、優しく舞い落ちた。
今、隆也は新しい家族の形を少しずつ築いている。まほ は一人暮らしを始める準備をし、時々帰ってきては恵さんと一緒に夕飯を作る。私はもう、寂しさを感じない。ただ、温かな充足だけ。
二人が笑うとき、私は一緒に笑っている。
二人が泣くとき、私はそっと寄り添っている。
二人が前を向いて歩くとき、私はいつも背中を押している。
愛は、形を変えても、決して途切れない。
私は、永遠にここで、二人を見守り続ける。
優しく、静かに、満ち足りて。
了




