第18話(最終話):2年目の春、満開の桜の下で
春の光が、教室の窓枠を柔らかく縁取っていた。
校庭の桜はちょうど今が満開で、風が吹くたびに淡いピンクの花びらがひらひらと舞い上がり、青空へ溶けていく。
「——はい、それでは次の問題です。この文章の中で、主人公が一番伝えたかったことは何でしょう。分かる人?」
担任の先生の声が、落ち着いた教室内に響く。
「はい!」
「はい、はい!」
元気よく手が挙がる中、二列目の真ん中の席で、すっとまっすぐに右手を挙げている男の子がいた。
少し背が伸び、ブレザーの制服をぴしっと着こなした勇気だ。
かつての勇気なら、大勢の視線が集まる場所では肩をすくめ、存在を消すように小さくなっていた。先生と目が合うことすら怖がり、常に怯えた瞳で私を探していたはずだ。
けれど今の勇気は、背筋をピンと伸ばし、自信に満ちた目で黒板を見つめている。
「じゃあ、湊勇気くん」
「はい!」
勇気は力強く返事をすると、椅子をひいて立ち上がった。
「主人公は、自分の気持ちを言葉にして伝えることが、一番大切だと思っています!」
「素晴らしい! 完璧な答えですね」
先生が笑顔で褒めると、勇気は嬉しそうに照れ笑いを浮かべ、誇らしげに胸を張って座った。
その一連の仕草を見つめながら、私は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感動に包まれていた。
あの日——ちょうど一年前の春。
第一回目の授業参観。
あの頃の私は、前夫・健太の暴力と支配に怯え、周りの親たちの視線から逃げるように教室の最前列の端で縮こまっていた。手首の青あざを隠すために長袖の服を固く握りしめ、自分も勇気も、いつ破滅するかもしれない地獄の中にいた。
教室の後ろに立つ保護者たちの話し声や視線すら、私を攻撃する刃に見えていたあの頃。
(あれから、一年……)
私はそっと、自分の右隣へと視線を向けた。
そこには、ネイビーのスーツを爽やかに着こなした拓也さんが立っていた。
背が高く、温かいオーラを纏った拓也さんは、優しく目元を緩めながら、我が子である勇気の晴れ姿を愛おしそうに見つめている。
視線に気づいた拓也さんが、ふっと私の方へ顔を向けた。
そして、周りの保護者には気づかれないよう、私の手元へそっと自分の大きな手を寄せ、指を絡めてきた。
手袋越しのような静かな温もりが、私の指先から全身へ広がっていく。
(私はもう、一人じゃない)
かつて孤立し、暗闇の中で震えていた私の隣には、世界で一番頼もしく、優しい夫がいてくれる。
私が俯く必要も、勇気が後ろを怯えて振り返る必要も、もうどこにもないのだ。
「勇気くん、本当に発表が上手になりましたね」
授業参観が終わり、休み時間に入ると、隣にいたPTAのお母さんたちが笑顔で声をかけてくれた。
「ええ、ありがとうございます。去年はあんなに恥ずかしがり屋だったのに……」
「湊さんの旦那様も、いつも学校行事に来てくださって本当に素敵ですね。勇気くんも、お父さんのことが大好きみたいで」
「はい、自慢の夫なんです」
私が少し照れながら答えると、拓也さんは照れくさそうに頭をかき、私の肩を優しく抱き寄せた。
「いえいえ、妻と子どもたちが頑張っている姿を見るのが、僕の毎日の生き甲斐ですから」
周りのお母さんたちから「まぁ! 羨ましいわ」と歓声が上がる。
かつては人の視線が恐怖でしかなかった。けれど今、私に向けられるのは、温かい祝福と親しみだけの眼差しだった。
「おかあさん! パパ!」
教室から飛び出してきた勇気が、廊下を走って私たちの元へ駆け寄ってきた。
「こら勇気、廊下は走ったらダメだろう?」
拓也さんがしゃがみ込み、走ってきた勇気を大きな腕でしっかりと受け止めた。
「だって、パパとおかあさんが見ててくれたから、すごく張り切っちゃったんだもん!」
「ふふ、勇気くん、今日の発表すごくかっこよかったよ。完璧だった」
拓也さんが勇気の頭をポンポンと撫でると、勇気は「へへっ」と鼻の下をこすり、心から嬉しそうに目を細めた。
「おーい! 勇気お兄ちゃーん! パパー! ママー!」
反対側の階段から、元気いっぱいの声が響いた。
二年生の教室から走ってきたのは、ピンクの大きなリボンをつけた結衣ちゃんだ。
「結衣! お前も廊下を走るんじゃない」
拓也さんが苦笑しながら、もう片方の腕で結衣ちゃんをしっかりと抱き上げる。
「結衣のクラスも、参観日終わったよ! 結衣ね、大きなお声で本読みできたの!」
「まぁ、結衣ちゃんもすごかったのね。後で拓也さんから動画を見せてもらうわね」
「うん! ママ、見てね!」
『ママ』。
結衣ちゃんが私をそう呼んでくれるようになってから、半年が経っていた。
最初は「おばちゃん」だった呼び名が、毎日の暮らしの中で、ごく自然に「ママ」へと変わっていったのだ。
その響きを耳にするたび、私の胸には温かい幸せの波が押し寄せてくる。
「さあ、じゃあ二人とも、荷物を持って帰る準備をしておいで。今日はこれから、4人でお花見に行こうか」
拓也さんが提案すると、子どもたちは「わぁぁぁい!」と大はしゃぎで教室へと戻っていった。
子どもたちの背中を見送りながら、私は深く、深く息を吐き出した。
「拓也さん」
「ん? どうしたの、深雪」
「……ありがとう。私、今……生まれてきて一番、幸せです」
私がポツリと呟くと、拓也さんは愛おしそうに目元をくしゃっとさせて笑い、私の額にそっと自分の額を合わせた。
「お礼を言うのは僕の方だよ、深雪。君が勇気を振り絞って僕の手をとってくれたから、僕はこんなにも温かい『家族』を手に入れることができたんだ。……僕を選んでくれて、本当にありがとう」
澄み切った春の風が、二人の間を吹き抜けていく。
かつて泥沼の絶望の中にいた私に、こんなにも眩しい光に満ちた未来が待っているなんて、誰が想像できただろう。
壊れた家族の破片を捨て、自分の足で立ち上がり、手に入れた最高のハッピーエンド。
ううん、これはエンディングじゃない。
ここからが、私たち4人の、本当の幸せな人生の始まりなのだ。
校門を出ると、街全体が春の光と桜色に染まっていた。
満開の桜並木が続く通学路。
風が吹くたび、まるで祝福の紙吹雪のように、無数の桜の花びらが私たちの頭上に降り注ぐ。
「ねえねえ! パパ、手繋ごう!」
結衣ちゃんが拓也さんの右手をギュッと握る。
「勇気お兄ちゃんは、ママと繋ぐの!」
結衣ちゃんに促され、勇気は少し照れくさそうに、けれど誇らしげに私の左手を握りしめた。
そして、勇気のもう片方の右手は——拓也さんの左手へ、自然と伸びていった。
拓也さんは勇気の小さな手を、大きな掌で優しく、力強く包み込む。
中央で手を繋ぐ勇気。
その両隣には、私と拓也さん。
そして私の隣には、拓也さんと手を繋いだ結衣ちゃん。
4人の手が、ひとつの温かい大きな輪となって繋がっていた。
「おかあさん、手、すごく温かいね」
勇気が私を見上げて笑う。
「そうね、勇気。拓也さんの手も、結衣ちゃんの手も、みんな温かいわね」
「うん! ぼく、このお手手繋ぐの、だいすき!」
勇気はもう、後ろを振り返ることはなかった。
かつてのように、怯えて大人の影を探すこともない。
彼の視線はまっすぐに前を向き、満開の桜が咲き誇る、光に満ちた未来の道をしっかりと見つめていた。
「深雪」
反対側から、拓也さんの低く優しい声が響く。
「今夜は、みんなでつくったお弁当を持って、夜桜を見に行こうか。深雪の作ってくれる唐揚げと、卵焼きを持って」
「ええ、いいですね! 勇気も結衣ちゃんも、大好きなメニューで作るわ」
「わーい! 唐揚げ! からあげー!」
「結衣、夜は少し冷えるから、温かいお茶も持っていこうね」
たわいもない、けれどかけがえのない会話。
横を見ると、拓也さんが私を見つめ、優しく微笑んでいた。
その瞳には、私と子どもたちへの、どこまでも深い愛と誠実さが満ちあふれていた。
私は握りしめた勇気の手と、指輪の嵌った自分の手を見つめ、心からの笑顔を浮かべた。
桜の花びらが舞う中、長くて美しい4人の影が、温かなアスファルトの上へまっすぐに伸びていく。
自由になった空の下。
愛する夫と、愛する子どもたちとともに。
私たちは手を繋ぎ合い、どこまでも続く幸せな明日へと、しっかりと踏み出していった。
最終話までお付き合いいただきありがとうございます。
これにて現代恋愛 第4弾終了となります。
今回のテーマ「シングルファーザーのかっこよさ」です。いかがでしたでしょうか。
現代恋愛と現代ドラマどちらにするべきか、迷う作品ではありますが、楽しんでいただければ幸いです。
もし「面白かった!」「もっと読みたい!」と思ってくださったら、ぜひ作品への応援をお願いいたします。
画面下部にある、
・【ブックマークに追加】
・【★★★★★】(ポイント評価)
をポチッと押して応援していただけますと、第5弾の執筆エネルギーが100倍になります!
皆様の評価一つ一つが、作者の何よりの支えです。
本作が気に入った方は、他の現代恋愛シリーズも楽しんでいただけると思います!
かぶんすの作品一覧からご覧ください。




