ー第5節 期待はずれの夜伽と、安眠を求める李花の静かなる抵抗。皇帝の勘違いと思いもよらぬ反応
第5節 期待はずれの夜伽と、安眠を求める李花の静かなる抵抗。皇帝の勘違いと思いもよらぬ反応
皇帝の来訪は、後宮の女にとって最高の名誉であり、生き残りをかけた戦いの始まりを意味する。
通常ならば、平伏して感謝し、持てる限りの色香を使って引き止める場面だ。
だが、李花は違った。
彼女の頭の中を占めていたのは、「満腹になって眠くなってきたのに」という一点のみである。
「……陛下におかせられましては、このようなむさ苦しい場所へ、いかなるご用向きでしょうか」
李花は跪いたが、その声には歓喜のカケラもなかった。むしろ、微妙に「早く帰ってくれないかな」というニュアンスが含まれていた。
蒼龍は椅子に腰を下ろすと、じっと李花を見下ろした。
「夜伽に来たとは思わぬのか?」
「まさか。私のような未熟者に、そのような大役が務まるとは思えません。宰相様のご令嬢の方が、よほどお相手にふさわしいかと」
嫌味ではなく、心からの推薦だった。
あちらに行ってくれれば、私は寝られるのだ。
蒼龍は目を細めた。
他の女たちは皆、「私を選んで」と目で訴えてくる。あるいは、ライバルを蹴落とそうと画策する。
なのに、この女は自分を他へ追いやろうとしている。
「……お前、私が嫌いか?」
「滅相もございません。雲の上の存在に対し、好き嫌いなどという感情を持つこと自体が不敬でございます」
完璧な模範解答。
だが、そこには「無関心」という名の壁がそびえ立っていた。
前世の重い愛を知る(はずもないが)蒼龍にとって、この温度差は未知の体験だった。
「……まあいい。茶を」
「はい」
李花は立ち上がり、茶の支度を始めた。
侍女を呼ぶのも面倒だったので、自分で手際よく茶葉を入れ、湯を注ぐ。
その動作には迷いがなく、無駄な力が抜けていた。
茶器が触れ合うかすかな音だけが、静寂な部屋に響く。
それは、茶道というよりは、瞑想に近い所作だった。
蒼龍は、その背中を黙って見ていた。
いつもなら、背後からの視線にも媚びが含まれるものだが、李花の背中はただ淡々と作業をこなしているだけだ。
差し出された茶を一口啜る。
ぬるくもなく、熱すぎもしない。香りが際立つ、絶妙な加減。
「……悪くない」
「恐れ入ります」
李花は部屋の隅に控え、じっと床の木目を見つめ始めた。
(早く飲み終わらないかな。この木目、人の顔に見える……)
そんなことを考えていると、蒼龍が不意に立ち上がった。
「帰る」
「はっ、お気をつけて」
李花の返事は、今日一番の元気良さだった。
蒼龍は振り返り、怪訝な顔をしたが、何も言わずに部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、李花は大きく息を吐き、その場にへたり込んだ。
「はあ……疲れた」
『傑作じゃったぞ、李花』
おつまみが転がり出てくる。
『皇帝の前で「早く帰れ」オーラを全開にする妃など、古今東西お主くらいじゃろう』
「だって、眠いんだもの。あの方も、あんなに愛想のない女相手じゃつまらなかったでしょうね。これで二度と来ないわ」
李花は安心して寝台に潜り込んだ。
布団の温もりが心地よい。
数秒で意識が微睡みの中へ落ちていく。
一方、回廊を歩く皇帝・蒼龍の表情は、部下たちが久しく見たことのないものだった。
彼は、小さく笑っていたのだ。
「……媚びぬ、か」
権力も、美貌も、何もかもが通用しない女。
まるで、そこにいるのにいないような、不思議な存在感。
長年、人間不信の孤独の中にいた皇帝にとって、李花の放つ「無害な空気」は、初めて呼吸ができる場所のように感じられたのかもしれない。
李花の目論見とは裏腹に、皇帝の興味は完全に彼女にロックオンされていた。
後宮という戦場において、「戦わない」という最強の武器を手に入れた李花の、波乱に満ちた(本人は平穏を望む)第二の人生が、こうして幕を開けたのである。




