ー第2節 巻き戻った時間、入宮の日の控え室。媚びを捨て、袖に隠した月餅を頬張る至福
第2節 巻き戻った時間、入宮の日の控え室。媚びを捨て、袖に隠した月餅を頬張る至福
鳥のさえずりで目が覚めた。
見覚えのある天井。古いが手入れの行き届いた実家の自室だ。
李花は飛び起きて、鏡を覗き込んだ。そこには、処刑された時のやつれた顔ではなく、十五歳の、まだあどけなさの残る自分の顔があった。
「戻った……本当に?」
今日は、入宮の日だ。
前回の人生では、朝から念入りに化粧をし、派手な衣装を選び、「必ず陛下の寵愛を得てみせる」と息巻いていた日。
だが今の李花は、鏡の中の自分を見ても、何の感慨も湧かなかった。
「……化粧は薄めでいいわ。衣装も、この淡い浅葱色のもので」
侍女が驚いた顔をしたが、李花は気にしなかった。
どうせ後宮なんて、女たちの見栄と嫉妬が渦巻く伏魔殿だ。目立てば刺される。地味に、静かに、壁の花として生きるのが一番の安泰なのだ。
いや、それよりも大事なことがある。
数刻後。
李花は皇宮の控え室にいた。
全国から集められた良家の娘たちが、緊張した面持ちで座っている。あるいは、互いを牽制するように視線を飛ばし合っている。
かつての李花なら、ここで一番目立つ席を陣取り、扇子を仰いで周囲を威圧していただろう。
だが今の李花は、部屋の隅の、柱の影になる長椅子に腰掛けていた。
そして、そっと袖の中に手を入れる。
取り出したのは、布に包んだ月餅だ。
中身は黒胡麻餡。実家の料理人が作った、李花の好物である。
「……いただきます」
周囲に気づかれないよう、小さく割って口に運ぶ。
口いっぱいに広がる胡麻の香ばしさと、濃厚な甘み。
ああ、生きている。
毒酒ではなく、甘い菓子を味わえる舌がある。
これ以上の幸せがあるだろうか。
前世では、皇帝の好みに合わせるために無理な食事制限をしていた。常に空腹で、常にイライラしていた。
なんて愚かだったのだろう。
世界にはこんなに美味しいものがあるのに。
もぐもぐと口を動かしていると、ふいに袖口がもぞもぞと動いた。
白い毛の塊が、顔を覗かせる。
『ほう、精が出るのう』
あの時の毛玉だ。
周りの令嬢たちは気づいていない。どうやら、この毛玉は李花にしか見えないらしい。
「……あら、あなたも食べる?」
『儂は人間の食物は食わん。だが、その心持ちは悪くないぞ』
毛玉は李花の膝の上を転がり、ふんぞり返った(ように見えた)。
『周りを見てみろ。あっちの娘は緊張で胃を痛め、こっちの娘は隣の娘の髪飾りが豪華だと嫉妬の炎を燃やしておる。皆、自意識の檻に囚われておるのじゃ』
言われてみれば、その通りだ。
空気は張り詰め、誰もが「選ばれること」に必死になっている。
『だがお主はどうだ? 皇帝になど興味はなく、ただ月餅の味に没頭しておる。その「我関せず」の精神、実に清々しい。まるで山奥で千年生きた岩のようじゃ』
「褒め言葉として受け取っておくわ」
李花は最後の一欠片を口に放り込み、満足げにため息をついた。
そうだ、私はもう戦わない。
ここは戦場ではない。私のための、美味しいものと静寂を探求する修行場なのだ。
名を「おつまみ」とでも付けようか。私の平穏な余生の、良き相棒として。
「よろしくね、おつまみ」
『……なんじゃそのふざけた名は。まあよい、お主の心の凪が続く限り、儂はここにおる』




