受験生応援三部作『春の扉の前で』
二月二十五日、午前六時。
朝倉葵は駅のホームで白い息を吐きながら、スマートフォンの画面を何度も消しては点けた。受験票、鉛筆、消しゴム、腕時計——頭の中でチェックリストを繰り返すのは、そうしていないと手が震えてくるからだった。
今日は国公立大学の入試当日だ。
この一年、いや、高校三年間を懸けてきた日。模試の判定はずっとB。志望校の友人たちはみんなAかCに振り分けられていって、Bのまま本番を迎えたのは葵だけだった。「ボーダーライン上」という言葉が、ずっと胸に刺さっている。
電車が滑り込んできた。
乗り込むと、車内はすでに受験生らしき人たちで埋まっていた。みんな参考書や単語帳を膝の上に広げている。葵も鞄から英単語帳を出そうとして、やめた。今さら覚えられるものなんて何もない。それよりも、胃のあたりがじわじわと痛い。
三駅目で、葵の隣に人が座った。
大学のロゴの入ったトートバッグを肩にかけた、二十歳くらいの女性だった。髪をざっくりとひとつに結んで、コートの上からマフラーをぐるぐる巻きにしている。寝起きなのか、少しだけ目が赤い。
女性はバッグからコーヒーの缶を取り出して一口飲み、それからふと葵のほうを見た。
「受験?」
思いがけない問いかけに、葵は小さく頷いた。
「そっか」
それだけ言って、女性は前を向いた。葵もまた窓の外を見た。まだ夜明けきらない空が、濃い紺色をしていた。
しばらくして、女性がまた口を開いた。
「私もね、三年前の今日、この電車に乗ってたよ」
葵は顔を向けた。
「同じ路線で受けたの。第一志望の国立大。もう緊張しすぎて、乗り換え間違えそうになったけど」
女性は少し笑った。目尻に柔らかい皺が寄った。
「受かった、んですか」
葵が聞くと、女性は「うん」と頷いた。
「でも模試ではずっとC判定だったよ。先生にも一回、志望校下げることを考えてみてって言われた」
葵は息をのんだ。C判定。自分より下じゃないか。
「それでも受けたんですか」
「受けた。だって、行きたかったから」
女性はコーヒーをもう一口飲んだ。
「合否って、当日の自分が決めるものだと思うんだよね。模試は模試で、あくまで練習の結果でしかない。本番で何点取れるかは、本番の自分にしかわからない。C判定だろうとB判定だろうと、試験場に行ったら全員、白紙から始まるじゃない」
白紙から始まる。
その言葉が、葵の胸にすとんと落ちた。
「緊張してる?」と女性が聞いた。
「めちゃくちゃ、してます」
「それでいいよ」女性は即答した。「緊張してない人なんていないし、してるってことはちゃんと本気だってことだから。あがり症の人は本番に強いって言うし」
「私、あがり症です」
「じゃあ最高じゃん」
女性がにっと笑ったので、葵も思わず笑ってしまった。車内で初めて笑った気がした。
電車が大きな駅に差し掛かった。
「私ここで降りる」と女性が立ち上がった。「頑張って、じゃなくて——」
女性はドアの前で振り返った。
「もう十分頑張ってきたんだから、今日だけは楽しんで。自分が一年かけて積み上げてきたものを、ただ答案用紙に置いてくるだけでいい。それだけでいいよ」
ドアが開いた。女性はホームに降り、一度だけこちらを振り返って、小さく手を振った。
葵も手を振り返した。
名前も知らない。どの大学の人かも知らない。また会うこともないだろう。
でも、窓の外に遠ざかっていくその背中を見ながら、葵は気づいたら涙をこらえていた。
ふいに、担任が最後に言ってくれた「大丈夫だよ」という声が、マフラーの奥から聞こえた気がした。
泣いたら目が赤くなる、と思ってぐっとこらえたけれど、なんだか胸の奥の固まっていたものが、すうっと溶けていく感じがした。
積み上げてきたものを、置いてくるだけ。
葵は鞄を膝の上に抱え直した。窓の外の空が、少しずつ白んでいく。地平線の向こうが、薄いオレンジ色に染まり始めていた。
今日の試験が終わったら、桜の季節にはまだ早いけれど、少しだけ春の匂いがするような気がした。
電車は試験場の最寄り駅へ向かって、真っすぐに走り続けた。
その春、朝倉葵は第一志望の国立大学に合格した。
合格発表のページをスマートフォンで開いたとき、最初に頭に浮かんだのはあの朝のことだった。名前も知らない女性の、「楽しんで」という言葉。
いつかもし自分が同じ電車に乗ることがあったら、自分も誰かにそう言えるだろうか、と葵は思った。きっと言える、と思った。今ならわかるから。あの言葉がどれほど温かかったか。




