序章 雫松の記憶
序章 雫松の記憶
福岡市西区。
海風が住宅街を抜けるこの街で、井間晧真は暮らしていた。
年齢は二十歳。大学に通う、ごく普通の青年だ。
だが彼の人生の中心にあるのは、講義でも日常でもない。
幼いころから変わらず、将棋だった。
初めて駒を握ったのは六歳のとき。
父に教えられ、意味もわからぬまま歩を動かしたあの日から、晧真は盤の上の世界に惹かれていった。
小学生のころ、彼が通っていたのは雫松道場。
古い木造の建物で、静かな駒音が響く場所だった。
師匠の古川は、かつてプロを目指していた人物だ。
多くを語らず、ただ盤の前で将棋の厳しさと奥深さを教えてくれた。
「受けることは、逃げじゃない」
その言葉とともに教えられたのが振り飛車だった。
相手の攻めを受け止め、陣形を整え、機を見て仕掛ける。
その戦い方は、晧真の性格によく合っていた。
全国大会に出場したことは、一度だけある。
けれど地方大会では、いつも二位か三位。
勝負どころで踏み切れず、代表の座には、あと一歩届かなかった。
それでも、将棋を嫌いになったことはない。
受けて、耐えて、その先で勝ちをつかむ過程が、何より面白かった。
その日の夜も、いつもと変わらない帰り道だった。
自転車を走らせ、川沿いの道を進む。
(まだ、強くなれる)
そう思った瞬間だった。
金属音とともに自転車が止まり、足元の道が淡く光り始めた。
「……なに?」
逃げる間もなく、光は視界を覆い、意識が遠ざかっていく。
次に目を開けたとき、晧真は見知らぬ草原に立っていた。
空には二つの月が浮かび、地面には奇妙な陣形の紋様が刻まれている。
将棋の駒も、盤もない世界。
それでも、戦術と陣形がすべてを決める場所。
受けて、耐え、そして仕掛ける。
その思考を武器に、晧真の異世界での物語が、いま始まる。




