09. 壊す
⚠️性暴力描写あり
冬休みに入ると、玲衣は短期バイトに精を出し、紬とは夕方から少しだけ会うことが多くなっていた。
「……学校に内緒で、大丈夫なのかな」
少し心配になる。
紬は机に大学のパンフレットを広げる。
――将来、自分は何をしたいんだろう…。
母はこの冬の優一郎の受験で頭がいっぱいのようで、学校の三者面談でも、自分の進路にはあまり興味が無さそうだった。
「母さん、ずっとあいつのことばかり話してたな…」
スマホの通知が鳴る。
「玲衣……?」
画面を見て、息を飲む。
珍しく、優一郎からの呼び出しだった。
――何だろう。
今まで、外では良い兄を演じていて何かされることはなかった。それに、最近はずっと静かだった。
だから大丈夫…そう自分に言い聞かせる。
上着を羽織り家を出る。
消えかけの夕陽が夜の闇と混じり合いながら溶けていて、どこか不吉に揺れていた。
駅前で優一郎と合流すると、特に言葉を交わすこともなく、二人で駅の反対側の繁華街を歩く。
雑多な看板が夜の街を照らし、喧騒と雑踏の中で、紬はひとり世界から切り離されていくような感覚に襲われた。
脇道に入ると、寂れた雑居ビルの前で優一郎の足が止まる。
派手な看板に時間制の価格が並んでいる。
――ここって…
優一郎が紬の手首を固く掴み、密着させるよう側に引き寄せると、そのままフロントを潜り、エレベーターのボタンを押す。
不安を隠せずに優一郎の顔を見上げるも、優一郎は何も言わず前だけを見ている。
無言のまま辿り着いた部屋の前に立つと、優一郎がドアをノックした。
鼓動が跳ねる。
――誰か、いる……?
紬は咄嗟に逃げようと優一郎に掴まれた手首を捻るが、力ではとても敵わない。
ドアが開く音がやけに大きく耳に響く。
優一郎が紬の背を蹴って部屋に押し入れると、倒れた紬の腕を部屋の奥から出てきた別の男が押さえ付ける。優一郎はドアを開けた男と言葉を交わしている。
紬はこれから起こることを察すると、恐怖に顔を引き攣らせる。
「に、兄さんっ!?」
「やだっ……嫌だよ!兄さんっ!」
優一郎は紬を見下ろした。
何の感情も読めない表情で。
「いや、助けて。兄さん……ごめんなさい…」
泣きながら、いつものように許しを乞う。
それを見届けると、優一郎は何も言わずに背を向けた。
――見捨て…られた……?
「ふざけんなぁあっ!こんなことして!恥ずかしくないのかよっ!!」
紬は泣きながら叫び狂う。
靴音が遠ざかる。
どんな恥ずかしいことだってする。泣いて謝れば、痛くするのを許してくれたじゃないか…!なのに……
「裏切った…、死ねっ!!死ね!この屑野郎があぁぁ!!」
重いドアの閉まる音が、世界を断ち切った。
…
誰もいなくなった部屋で、紬はベッドの上で裸のまま膝を抱え、浅い呼吸を繰り返していた。
――学生証……、撮られた…アイツらに。
泣きながらシーツをぐちゃぐちゃに掻き乱し、汚れた身体を隠すように手繰り寄せる。
どうしよう……いやだ、いやだ…!
今すぐ消えて無くなりたい。何も考えたくない……。
両手で顔を覆うと、その手にねっとりと汚れた液体が絡んだ。
「あ……ぁ……」
引き攣った顔でそれを見る紬。吐き気が込み上げる。
洗面台へ駆け込むと、嗚咽が堰を切ったようにこぼれ、止まらなかった。
涙が滲み出て、喉が焼けるように痛い。
鏡に映る顔は焦点が合わず曖昧で、まるで自分ではなく他人の顔のように見えた。
ああ……顔にも身体にも、触れられた箇所全部に、あいつらの感触がまだ残っている。
「は、早く……消さなきゃ……」
それからずっとバスルームに篭って、何度も身体を洗い続けた。
誰にも見られたくない。道行く人の気配、信号の点滅する光、笑い声――どれも全部、肌に突き刺さる。
目が合いそうになるのも、誰かが振り向くのを見るのも、怖い。
だから早く、家に帰って……目を閉じてしまいたい――ただそれだけだった。
玄関のドアを開けた瞬間、靴の底に触れる床の冷たさに、体が反応する。
遅い時間なのに、リビングの明かりがついていた。
視線を上げると両親が立っていた。
その姿が、まるで影のようにぼやける。
紬は靴を脱ぐと、憔悴しきった様子で縋るように顔を上げた。
「お母さん……俺――」
――助けてほしい。
その言葉が空気に溶ける。
父の手が紬の腕を掴み、何の躊躇もなく床へ叩きつけた。
空気が抜ける音がした。
冷たい床の感触。
母の金切声が頭上で反響し、その後ろから父の低く冷たい声が重石のように圧し掛かってくる。
何が起きているのか理解する間もなく床に頭を押し付けられ、呼吸が狭まり、体が熱くなる。
「優ちゃんはこれから大事な試験なのよ!?あんたのせいで、何かあったらどうするの?私が何て言われると思ってるの!?」
母の声にははっきりと憎悪が滲んでいて、その泣き方はすでに母親ではなく、別の何かの泣き方に見えた。
「紬、自分が何をしたのか、言ってみなさい。いつからこんなことしてたんだ?」
父にスマホを突きつけられ、画面が視界に滲む。
その瞬間、階段から足音が降りてきた。
優一郎がいつもと違う優しい調子で言う。
「……紬、何か、事情があるんだよな?」
その言葉に顔を上げた紬は、画面を見て固まる。
――優一郎に撮られた写真。
スタンプで顔が潰され、露わになった下半身が情け無く白く浮いて目に焼き付く。
写真の下には体を売ることを示唆する言葉が続いている。
………何、これ。
喉が潰れそうに塞がり、息は過呼吸のように乱れる。
目の前の画面はにじんで、形を結ばない。
「……今の学校を出るまでは置いてやる。でも、その後は知らない。お前のための金は今後一切出さない」
父の言葉は、鈍器のように脳に響いた。
下を向いたまま、紬の目が大きく見開く。
「卒業したら家を出る費用だけは出してやる」
「男のくせにこんなこと…」
「あんたなんて産まなきゃよかった」
「どうせろくな学校にしか行けない」
「あの子は昔から変だった」
「恥さらし、顔も見たくない」
「今までどんなに他人の子のお前のためにしてきたか」
母と父の言葉が混ざり合い、身体の内側まで突き刺さる。
「紬……?」
優一郎が膝をつき、紬を心配そうな声色で呼びかけてから、耳元で囁く。
「なぁ……今、どんな気分だ?」
返事は出来なかった。
代わりに身体が動く。
玄関のドアは重さを感じなかった。家の中の声が背中に刺さるけれど、振り向くことはない。
息をするたびに胸の中の空洞が広がっていく。
足がふらつき、呼吸は浅くなって、世界が遠ざかるようだった。
冬の空気は冷たく肌を刺すのに、生きている実感はどんどん薄れていく。
それなのに…、一歩ごとに体の重さが増していく。
街灯が作る光の輪はにじんで絵の具のようにぼやけて。
頭の中にはさっき父に見せられた画面と、母の悲痛な声、優一郎の馬鹿にしたような優しい声色が反響する。
――あったはずの未来が、砂のように指の間から零れ落ちていく。
大学案内をめくったときの玲衣の笑顔、二人で話した新しい生活のこと、ふと未来に描いていたささやかな場面が、一つずつ消えていく。
足は無意識に高台の方へと向かっていた。
公園にたどり着くと、町の小さな灯りが暗い海のように広がっていた。
そのまま倒れるようにベンチに腰を下ろす。
どうして泣いていたのか、自分でもわからない。
……もう、全部…どうでもいいや。
涙も枯れ、思考が止まり、このまま刺すような冷たさのまま消えてしまえればいいと思った。




