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境界  作者: 萌千兎さら
9/12

09. 壊す

⚠️性暴力描写あり

冬休みに入ると、玲衣(れい)は短期バイトに精を出し、(つむぎ)とは夕方から少しだけ会うことが多くなっていた。

「……学校に内緒で、大丈夫なのかな」

少し心配になる。


紬は机に大学のパンフレットを広げる。

――将来、自分は何をしたいんだろう…。

母はこの冬の優一郎の受験で頭がいっぱいのようで、学校の三者面談でも、自分の進路にはあまり興味が無さそうだった。

「母さん、ずっとあいつのことばかり話してたな…」


スマホの通知が鳴る。

「玲衣……?」


画面を見て、息を飲む。

珍しく、優一郎からの呼び出しだった。


――何だろう。

今まで、外では良い兄を演じていて何かされることはなかった。それに、最近はずっと静かだった。


だから大丈夫…そう自分に言い聞かせる。

上着を羽織り家を出る。


消えかけの夕陽が夜の闇と混じり合いながら溶けていて、どこか不吉に揺れていた。



駅前で優一郎と合流すると、特に言葉を交わすこともなく、二人で駅の反対側の繁華街を歩く。

雑多な看板が夜の街を照らし、喧騒と雑踏の中で、紬はひとり世界から切り離されていくような感覚に襲われた。


脇道に入ると、寂れた雑居ビルの前で優一郎の足が止まる。

派手な看板に時間制の価格が並んでいる。


――ここって…

優一郎が紬の手首を固く掴み、密着させるよう側に引き寄せると、そのままフロントを潜り、エレベーターのボタンを押す。


不安を隠せずに優一郎の顔を見上げるも、優一郎は何も言わず前だけを見ている。

無言のまま辿り着いた部屋の前に立つと、優一郎がドアをノックした。


鼓動が跳ねる。

――誰か、いる……?


紬は咄嗟に逃げようと優一郎に掴まれた手首を捻るが、力ではとても敵わない。


ドアが開く音がやけに大きく耳に響く。


優一郎が紬の背を蹴って部屋に押し入れると、倒れた紬の腕を部屋の奥から出てきた別の男が押さえ付ける。優一郎はドアを開けた男と言葉を交わしている。


紬はこれから起こることを察すると、恐怖に顔を引き攣らせる。

「に、兄さんっ!?」

「やだっ……嫌だよ!兄さんっ!」


優一郎は紬を見下ろした。

何の感情も読めない表情で。


「いや、助けて。兄さん……ごめんなさい…」

泣きながら、いつものように許しを乞う。


それを見届けると、優一郎は何も言わずに背を向けた。




――見捨て…られた……?




「ふざけんなぁあっ!こんなことして!恥ずかしくないのかよっ!!」

紬は泣きながら叫び狂う。

靴音が遠ざかる。

どんな恥ずかしいことだってする。泣いて謝れば、痛くするのを許してくれたじゃないか…!なのに……


「裏切った…、死ねっ!!死ね!この屑野郎があぁぁ!!」


重いドアの閉まる音が、世界を断ち切った。



誰もいなくなった部屋で、紬はベッドの上で裸のまま膝を抱え、浅い呼吸を繰り返していた。


――学生証……、撮られた…アイツらに。

泣きながらシーツをぐちゃぐちゃに掻き乱し、汚れた身体を隠すように手繰り寄せる。

どうしよう……いやだ、いやだ…!

今すぐ消えて無くなりたい。何も考えたくない……。


両手で顔を覆うと、その手にねっとりと汚れた液体が絡んだ。


「あ……ぁ……」


引き攣った顔でそれを見る紬。吐き気が込み上げる。


洗面台へ駆け込むと、嗚咽が堰を切ったようにこぼれ、止まらなかった。


涙が滲み出て、喉が焼けるように痛い。

鏡に映る顔は焦点が合わず曖昧で、まるで自分ではなく他人の顔のように見えた。


ああ……顔にも身体にも、触れられた箇所全部に、あいつらの感触がまだ残っている。


「は、早く……消さなきゃ……」

それからずっとバスルームに篭って、何度も身体を洗い続けた。




誰にも見られたくない。道行く人の気配、信号の点滅する光、笑い声――どれも全部、肌に突き刺さる。

目が合いそうになるのも、誰かが振り向くのを見るのも、怖い。

だから早く、家に帰って……目を閉じてしまいたい――ただそれだけだった。



玄関のドアを開けた瞬間、靴の底に触れる床の冷たさに、体が反応する。

遅い時間なのに、リビングの明かりがついていた。

視線を上げると両親が立っていた。

その姿が、まるで影のようにぼやける。


紬は靴を脱ぐと、憔悴しきった様子で縋るように顔を上げた。

「お母さん……俺――」


――助けてほしい。


その言葉が空気に溶ける。

父の手が紬の腕を掴み、何の躊躇もなく床へ叩きつけた。


空気が抜ける音がした。

冷たい床の感触。


母の金切声が頭上で反響し、その後ろから父の低く冷たい声が重石のように圧し掛かってくる。

何が起きているのか理解する間もなく床に頭を押し付けられ、呼吸が狭まり、体が熱くなる。


「優ちゃんはこれから大事な試験なのよ!?あんたのせいで、何かあったらどうするの?私が何て言われると思ってるの!?」

母の声にははっきりと憎悪が滲んでいて、その泣き方はすでに母親ではなく、別の何かの泣き方に見えた。


「紬、自分が何をしたのか、言ってみなさい。いつからこんなことしてたんだ?」

父にスマホを突きつけられ、画面が視界に滲む。


その瞬間、階段から足音が降りてきた。

優一郎がいつもと違う優しい調子で言う。

「……紬、何か、事情があるんだよな?」


その言葉に顔を上げた紬は、画面を見て固まる。


――優一郎に撮られた写真。


スタンプで顔が潰され、露わになった下半身が情け無く白く浮いて目に焼き付く。

写真の下には体を売ることを示唆する言葉が続いている。


………何、これ。


喉が潰れそうに塞がり、息は過呼吸のように乱れる。

目の前の画面はにじんで、形を結ばない。


「……今の学校を出るまでは置いてやる。でも、その後は知らない。お前のための金は今後一切出さない」

父の言葉は、鈍器のように脳に響いた。


下を向いたまま、紬の目が大きく見開く。


「卒業したら家を出る費用だけは出してやる」


「男のくせにこんなこと…」

「あんたなんて産まなきゃよかった」

「どうせろくな学校にしか行けない」

「あの子は昔から変だった」

「恥さらし、顔も見たくない」

「今までどんなに他人の子のお前のためにしてきたか」


母と父の言葉が混ざり合い、身体の内側まで突き刺さる。


「紬……?」

優一郎が膝をつき、紬を心配そうな声色で呼びかけてから、耳元で囁く。

「なぁ……今、どんな気分だ?」


返事は出来なかった。

代わりに身体が動く。


玄関のドアは重さを感じなかった。家の中の声が背中に刺さるけれど、振り向くことはない。

息をするたびに胸の中の空洞が広がっていく。

足がふらつき、呼吸は浅くなって、世界が遠ざかるようだった。

冬の空気は冷たく肌を刺すのに、生きている実感はどんどん薄れていく。


それなのに…、一歩ごとに体の重さが増していく。

街灯が作る光の輪はにじんで絵の具のようにぼやけて。


頭の中にはさっき父に見せられた画面と、母の悲痛な声、優一郎の馬鹿にしたような優しい声色が反響する。


――あったはずの未来が、砂のように指の間から零れ落ちていく。

大学案内をめくったときの玲衣の笑顔、二人で話した新しい生活のこと、ふと未来に描いていたささやかな場面が、一つずつ消えていく。


足は無意識に高台の方へと向かっていた。


公園にたどり着くと、町の小さな灯りが暗い海のように広がっていた。

そのまま倒れるようにベンチに腰を下ろす。

どうして泣いていたのか、自分でもわからない。


……もう、全部…どうでもいいや。


涙も枯れ、思考が止まり、このまま刺すような冷たさのまま消えてしまえればいいと思った。


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