08. 希望
夏が終わり、木々の葉も色づき、めっきり秋らしくなってきた。吹く風は涼しいを通り越して、少し冷たくも感じる。
あれから俺は、紬を守りたい気持ちとは裏腹に、何ひとつ紬を取り巻く現実を変えられていない。
毎日、駅前の横断歩道で別れるとき、紬をこのまま家に帰していいんだろうかと自問する。
けど、その先の答えを俺はいつも選ばない。
自分に出来ることといえば、ただ紬の側に居てやることだけ。
だからせめて、俺といる時は心から笑っていられるようにしてやりたい。
あれ以来、紬は家のことも、優一郎のことも話さない。
少し前にまた顔に痣を付けてきていたから、きっとまだ殴られているはずなのに。
それでも紬は、何事もなかったように笑おうとする。
俺はただ隣で笑い返して、何も知らないふりをする。
紬はそんな俺を許してくれる。
でもそれは優しさに見えて、きっと同じ場所に、二人して閉じこもっているのと同じだ。
図書室の扉を開けると、いつものように静かな空気が流れていた。
玲衣は一番奥、窓際のカウンター席へ足を進める。
「紬、お待たせ!」
紬は読んでいた文庫本に栞を挟んでから閉じると、顔を上げて微笑んで、それから小さく手を振って見せた。
「何読んでるの?」
「この前、玲衣が好きって言ってた作家の……」
見覚えのある表紙に玲衣が頷く。
「あぁ、これ、ドラマ化もしてるし面白いよな」
「うん、続きが気になって読むのが止まらなくて」
その笑顔が嬉しくて、玲衣も自然と笑う。
紬が本を脇に置くと、鞄からノートに挟んだプリントを取り出す。玲衣もしわの寄ったプリントを広げ、二人で並んで問題を解く。
それが終わったら、明日の授業の予習をする。
紬とは、同じ大学に行くと約束している。
紬はなんだかんだで頭がいい。だから俺も、紬の志望校に合わせられるように、こうして毎日勉強を教えてもらっている。
ふと隣を見ると、先に解き終えた紬が窓の外――四角い枠にはめ込まれた小さな空を見上げていた。
…
帰り道、いつものように玲衣は自転車を押し、紬はバスに乗らず玲衣の隣を歩いている。
道すがら、紬がふと立ち止まった。
以前、二人で約束した高台の公園だ。
「ちょっとだけ、寄って行きたいな」
二人は眼前に広がる街と公園とを隔てる柵に体をもたれる。
冷たい風が頬を撫でる。
「……ここに来ると、安心する。まだ大丈夫なんだって思える気がして。」
「何かあったのか?」
玲衣は、答えを知っていながらも問いかけた。
「何もない」
低く小さく呟いたあと、紬はハッとしたように微笑む。
「何でもないよ。もう、玲衣はいつも考えすぎ」
「なら、いいけど」
玲衣は少し間を置いてから、ぽつりと口を開いた。
「紬、大学入ったらさ――ルームシェアしない?」
そうしたら、あの家から紬を出してやれる。俺が、本当の意味で守ってやれる。
「………それって、二人暮らし?」
「そうだけど……やっぱ嫌か?」
「嫌じゃないよ、したい!」
紬の顔がパッと明るくなった。
「すっごく楽しそうだなぁ」
想像以上の反応に、玲衣は自分が言い出したくせに、少し照れくさくなる。
「あ、でも……うちは仕送り期待出来ないし、大変だと思うけど」
「大丈夫だよ、二人で頑張れば!」
でも、良かった。
「……じゃあ、約束な」
玲衣が拳を差し出す。
紬が前向きになってくれるのが一番嬉しい。
紬は笑いながら拳を合わせた。
――すっかり冷たくなった自分の手と違って、玲衣の手は暖かい。
その日から、何かが変わった。
紬は目の前を覆っていた深い霧が、少しずつ晴れていくのを感じる。
これまでは、今日を終えることで精一杯で、明日のことなんて、怖くて考えないようにしていた。
だから、玲衣と進路の話をしていても、どこか他人事というか、遠い先の話のような気がしていた。
けれど、あの家から離れられる。
みんなと同じ普通の学生として、大学に通う未来を玲衣が見せてくれた。
――こんな自分が「普通」になれる。
そう思うと、ぼんやりしていた人生の輪郭が、少しずつ形を持ち始める。
しかも、玲衣と一緒だったら――絶対に楽しいに決まってる。
口元が自然と笑みを結ぶ。
この気持ちってなんていうんだろう。
――自分が、自分でいていいと思える感じ。
冬休みに入れば、もう学校に行けない。
それでも、玲衣とのたくさんの約束があるから、不思議と怖くない。
台所に行こうと階段を降りると、リビングのドアが開く。
――優一郎…。
体が強張る。
優一郎は紬に気付くと、不機嫌そうな目で下から睨み付けた。
紬は無言のまま身を避け階段を譲る。
すれ違いざま、優一郎が立ち止まり、紬を見下ろした。
「お前…、いつもそれ持ち歩いてるな」
視線の先には、紬が胸に握り締めるスマホ。
「また俺に触らせないためか?」
「……そんなこと…ない」
紬は目を逸らし、声を絞り出す。
「じゃあ貸せよ」
優一郎が紬のスマホを奪おうとする。紬は身を丸めて小さく抵抗するも、力ずくで奪い取られる。
「馬鹿が」
優一郎はそう吐き捨てるとその場で画面をいじり始めた。
「まさかロック変えてないだろうな…」
紬は俯き、拳を握りしめる。
「……やめろよ」
「は?」
「……やめろっつってんだろっ!!」
紬は怒鳴りながら、呆気に取られる優一郎からスマホを奪い返すと、息の荒いまま階段を駆け降りる。
――やばい、やばい……。
こんなことして、何されるか分からない。
身体の震えが、怒りなのか恐怖なのか、自分でも分からなかった。
恐る恐る振り返ると、意外にも優一郎は無表情で紬を一瞥すると、そのまま部屋に戻っていった。
しん、とした空気の中で、紬はその場に立ち尽くす。
――初めて、あいつに逆らった…。
紬は震えの残る手のひらを見つめた。
その手の震えが、“生きている”証みたいに思えた。




