07. 告白
それから――九月になり、新学期が始まった。
玲衣は重い足取りで、教室へ続く廊下を歩いていた。
夏祭りの夜、紬との繋がりが途絶えたあの日から、眩しかった夏は一瞬で遠ざかっていった。
――じゃあ……俺と付き合う?
あの言葉が、何度も頭の中で再生される。
調子に乗って、冗談に聞こえない言い方をしたからだろうか。
花火のとき、体を近付け過ぎただろうか。
焼きそば代を渡さなかったのが気に障ったのかもしれない。
そんな終わりのない答え合わせを、延々と続ける毎日。
まるで生き地獄だ。
いっそ思いっきり嫌われて、酷いこと言われて、死ぬほど傷付けられた方が楽になれる。
玲衣はそっと、脈打つたびに疼く手首をさする。
――紬は、もう来てるのだろうか。
教室の前で息を整え、顔を上げる。
紬はいつものようにすでに自席に座っていた。
視線を落とし、静かに読んでいた本を閉じる。
目が合ったら絶対気まずい。
玲衣はあえて紬を見ないように無言で席に着くと、頬杖を付いて窓の方へ顔を向けた。
昼休みを告げる鐘が鳴る。
いつもなら、どちらともなく声を掛け合い、二人で屋上階段へ向かうはずだった。
玲衣が横目で見ると、紬は机に顔を伏せていた。
拒絶されているような気がした。
今胸にある感情が焦りなのか、怒りなのか、自分でも分からない。
玲衣はわざと音を立てて椅子を引き、ひとり無言で教室を出た。
結局その日は、紬はこちらを見ようともしなかった。
言葉を交わすことも、なかった。
放課後、予鈴が鳴る。
玲衣はいつもよりずっと時間をかけて鞄に教科書を詰める。
本当にこのまま……終わりなのだろうか。
胸の奥で名前のない感情が渦を巻く。
縋るように隣へ目を遣ると、紬が鞄を肩に掛け、静かに立ち上がるところだった。
堪えていたものが込み上げる。
「おい!相馬…!」
玲衣が立ち上がり、声を張る。
抑えきれない感情が、言葉の端に滲む。
紬は振り返った。
驚いたような目が、玲衣を捉える。
そのまま腕を掴み、教室を出る。
人気の無い校舎裏まで来ると、紬の腕を体ごと突き放し、華奢な身体を覆うように壁を叩いた。
「何だよっ、急に……!!」
玲衣の声が震える。
「俺、何か嫌なことしてたなら、はっきり言えよ!!そしたら、謝るとか直すとか、仲直りするとか……色々あるじゃんか…」
叫びながら、怒っているのに、声が滲む。
「…こういうの、本っ当、やめてくれよ……」
最後は消え入りそうな声で吐き出した。
紬は、玲衣の真剣さに息を呑む。
沈黙が落ちて、やがて小さく呟いた。
「ごめん………」
玲衣は、鼻をすすり、俯いたまま動かない。
かすかに肩が震えている。
――泣いてるのだろうか、自分のことで。
「俺が……俺が全部悪いんだ」
紬が目を伏せる。
「兄さんにスマホ取られて…。だから、本当は玲衣と話したかった。けど、俺のことなんてもう、見放してると思って…だから――」
紬の言葉を最後まで待たず、玲衣は壁についた手を下ろす。
「なんだよっ…それ…、俺、めちゃくちゃ心配したんだからな……!!」
堰を切ったように泣きじゃくる様子に、紬は狼狽える。
「な、泣かないで…」
紬は恐る恐る玲衣の肩に手を伸ばす。
そのまま不器用になぞりながら触れると、指の先から温かさを感じる。
頑なに隠して、守ろうとしていた何か……そんなものがどうでもよく思えるくらい、心が解けていく。
…
二人並んで、ひび割れたコンクリートに腰を下ろす。
玲衣は何も言わず、ただ隣にいる。
少しだけ風が吹いて、夏の名残りの湿った空気が頬を撫でた。
しばらく黙ったまま、紬は唇を噛みしめた。
――話さなきゃ。そう思うのに、声が喉につかえて出てこない。
「……俺、さ」
やっとの思いで、小さな声が漏れる。
母が再婚して、新しい父と優一郎に会った日のこと。
緊張でろくに挨拶も出来ない自分を、優一郎が無表情に見下ろしていたこと。あの瞬間から、もう自分の居場所なんて無いんだって、心のどこかで分かっていた。
「優一郎は、何でも出来てさ。すごく頭もいいし、バスケも上手くて……。母さんも、父さんも夢中で…」
声が震え、自然と視線を落とす。
「俺は……比べられることさえなくて、ただ、居ないみたいでさ……」
惨めさを少しでも隠したくて、ふっと小さく笑ってみせる。玲衣は何も言わないで、ただ頷きながら耳を傾ける。
「最初は、無視されるだけで……。けど、そのうち……」
言葉が詰まり、胸の奥が痛い。
記憶が蘇る。優一郎の鋭い目、背中を蹴られた衝撃、殴られた頬の痛み。
「……叩かれるようになって」
その先は、どうしても言えなかった。喉がつかえて、息が苦しくなる。
もう、玲衣の方を見ることはできなかった。
見てしまったら、あのことまで悟られる気がして。
あれだけは絶対に知られたくない。知られたら、きっと……。
「だから、玲衣が俺のこと友達だって言ってくれて……嬉しかった。俺のこと、ちゃんと見てくれる人がいるんだって……」
涙がにじみ、視界がぼやける。
「でも、こんな俺……嫌だよね」
最後の一言は、情けなく、掠れた声になった。
「……嫌じゃない。絶対に……」
玲衣は真剣な声で、はっきりとそう言うと、拳を握る。
「ありがとう、話してくれてさ」
自分が悩んでいたことが、紬の抱えていた重さの前では恥ずかしいくらい小さなものに思えた。
「俺、何があっても紬の味方でいるから」
玲衣はそっと片手を伸ばし、紬の頭に触れる。
やわらかな髪を優しく撫でる。
紬の肩がかすかに震え、吐息のような安堵が零れる。
二人のあいだに、しばらく沈黙が降りた。
その静けさが、不思議と心地よい。
玲衣は言葉を探すように少し間を置いてから、口を開いた。
「……もしまた、連絡取れなくなったとしてもさ。それでも、会える場所を決めとかない?」
紬は目の端をそっと拭う。
「神社?」
玲衣は笑って肩をすくめた。
「いいけどさ、夜はちょっと怖くないか?なんか出そうだし」
「何それ」
紬は思わず吹き出す。それから少し思案して、
「じゃあ……高台の公園」
「お、いいじゃん。街も見渡せて景色も良いし」
「ちゃんと、覚えておいてよ?」
紬が悪戯っぽく笑って見せる。
さっきまでの重苦しさが嘘みたいに、二人の時間が再び動き出すのを感じた。
…
その日の夜、玲衣はベッドに体を埋め、ぼんやりとした意識のまま、目を閉じても眠ることが出来ずにいた。
――何があっても、俺は紬の味方でいる。
紬と居ると満たされる。あの日、「あいつ」が死のうとしたことを知ったとき、俺が欲しかった言葉。
いや、違う。
そんなんじゃない。
放課後の紬の姿を思い返す。弱さを見せながらも必死に堪えていた健気な姿、俯いた表情の儚さ――そして自分の前だけで見せる微笑み。
「……紬……」
吐き出すように名前を零した瞬間、抑え込んでいた熱が堰を切ったように溢れ出す。
気づけば手が下腹部へと這い、すでに硬く疼いている自身を握りしめる。
紬を傷つける優一郎への憎悪でもない。そばにいることしかできない無力さでもない。
それよりもずっと醜いもの――。
罪悪感と欲望がぐちゃぐちゃに絡み合いながら玲衣の理性を溶かしていく。
「っ……はぁ……」
吐息が熱を帯び、脳裏に紬の顔が浮かぶたびに衝動が強くなる。
想像の中で、紬を強く抱き寄せる。
優一郎に、あんな奴に触れさせるくらいなら、俺が全部奪ってしまいたい。紬を守る。俺だけのものにしたい。
紬の体が火照り、淫らな熱に熟れた瞳で自分を見上げてくる。
「…あっ……あぁ」
一気に絶頂が押し寄せ、喉の奥で声を殺しながら果てた。
荒い呼吸の中で濡れた掌と熱い残滓を見下ろす。
「……俺、何やってんだよ」
あまりの情けなさに思わず額を押さえる。
守りたいはずなのに、結局こんな風に欲をぶつけるしかできないのか……。
マジで最低………。
無理矢理にでも瞼を閉じてみるも、意識は鮮明なまま、自己嫌悪の夜が更けていく。




