04. 許し
冷蔵庫の白い明かりが、夜の静けさに浮かんでいた。紬は、その光に縋るようにタッパーの中身をつまむ。
――足音。
階段を下りるリズムに音紬の肩がびくりと震えた。
振り返ると、風呂上がりの優一郎が、髪をタオルで拭きながら、冷めた目でこちらを見下ろしている。
目が合った瞬間、全身が固まる。
その様子に、優一郎は鼻で笑うと何も言わずに廊下へ消えた。
優一郎の背が暗闇に紛れると、紬はようやく小さく息を吐く。タッパーを冷蔵庫に戻そうとした――そのとき、再びドアが開く。
「……紬。部屋で待ってろ」
低く冷たい声が、目の前の白い明かりの中に落ちる。抵抗という言葉なんて思いつきもしなかった。
…
ベッドの前で正座させられ、紬は落ち着かない手つきで手首を擦っていた。
優一郎はベッドに座り、顎を上げて見下ろす。
「なぁ、自分で惨めだと思わねぇの? 家族に相手にされなくて、残飯漁って……犬と同じじゃん」
「……ごめんなさい」
「謝るくらいなら最初からすんな」
鋭い声と共に、拳が紬の頬に落ちる。視界が揺れ、床に倒れ込む。
「顔は……やだ……」
「へぇ? 顔は駄目なんだ?」
優一郎はわざとゆっくりと紬の腕を剥ぎ取り、顎を掴んで顔を晒させる。
「なんで? 学校で誰かに見られるのが困るのか?」
答えられない紬に、さらに淡々と続ける。
「いいじゃん。みんなに見せてやればいい。お前がどれだけ雑魚で、惨めで、情けないか」
蹴りが腹に突き刺さり、紬は床に崩れ落ちる。
「嫌だ……いやだ……っ」
何度も飛んでくる蹴りに、紬は涙と鼻血に濡れた顔を腕で覆い、必死に頭を振る。
優一郎は無表情のまま足で紬の脇腹を踏みつける。
「なぁ、もっと声出せよ。許してほしいなら、土下座でもなんでもしてみせろ」
苦しげに咳き込みながら、這うように床に額を擦りつけた。
「ごめんなさい……もうしません……だから……」
「声が小さい」
無表情で言い放ち、さらに踏みつける。
「許してっ……! お願いだから……!」
涙で顔を濡らし、紬は必死に叫ぶ。
優一郎は吐き捨てるように言った。
「その姿、みんなに見せたらどう思うんだろうな。笑うか? 軽蔑するか? 哀れんでやるか?」
「いやだ……やだ……見られたくない……」
「だろ? でも俺は見てる」
足で背中を押さえ込み、動きを封じる。
やがて紬の声は掠れて途切れ、震える呼吸とすすり泣きだけが残った。
優一郎はしばらく見下ろす。
「……もういいや」
「ほら、コレ出来たら許してやるよ」
優一郎はベッドに腰掛け、脚を広げてみせる。
腰を浮かし部屋着を下ろす。
紬は、虚な目で優一郎の手のうごきを見ている。
引き締まった太腿の筋肉が、紬との体格の違いを見せつけた。
紬がゆっくりと這うように近づく。
静かな部屋に湿った音だけが不愉快に耳に響いていた。
…
次の日の朝、紬は制服に着替えるために、クローゼットの鏡の前で服を脱ぐ。
「どうしよう、結構目立つな」
昨夜つけられた痣が、太腿や腕、背中にかけて斑模様のように浮かんでいる。紫と赤がまだ新しく、肌の白さに不自然なほど映えていた。
紬は仕方なく長袖のシャツに袖を通す。
「顔は……」
右の目の下に赤紫色の痣が目立つ。
唇にもかさぶたができている。
――玲衣には…また転んだって言えば誤魔化せるかな…。
本当だったら休んでしまいたいけど、学校に行けば今は玲衣に会えるから。
「友達がいるってこんな気持ちなんだな」
あんな目にあった翌日なのに、不思議と心はいつもより軽かった。
玄関のドアを開ける。
もわっとした蒸し暑さが体を包んだ。
「……暑っ」
ゆっくりと息を吐く。
夏の日差しは容赦なく、青い空はどこまでも澄み切っていた。
…
「おはよ!」
玲衣はすでに席に着いていた紬の背に声をかける。
椅子を引いて鞄を机の脇に掛けながら、ふと横目で見る。
紬は、不自然に頬へ手を添えて「おはよう」と微笑んだ。
昼休みになると、いつもの屋上階段に腰を下ろし、弁当を広げる。
嫌でも目に入る頬の痣を、紬は食べている間もずっと手で隠そうとする。
「紬、その痣……どうしたの?」
紬はおにぎりを頬張ったまま、わずかに視線を逸らして笑った。
「昨日、玄関で転んじゃって。俺、本当、駄目だよね」
玲衣は目を伏せ、ゆっくりと言葉を探す。
「玲衣?」
紬が首を傾げ、不思議そうに覗き込む。
玲衣は目を合わせないまま、低い声で口を開いた。
「……誰かに、殴られたんじゃなくて?」
一瞬、空気が止まる。紬の指がわずかに震えた。
けれどすぐに笑顔を作り直して言葉を繋げた。
「違うよ。本当に転んだだけ」
――嘘だ。わかってる。
でも困らせたくなくて、それ以上は聞けなかった。
「……分かったよ」
弁当の箸を置き、玲衣は小さく息を吐いた。
「紬さ。あんまり自分のこと、悪く思うなよ。
お前は駄目なやつじゃないし、俺なんかよりずっとちゃんとしてるから」
紬は驚いたように玲衣の顔を見上げると、それから、照れるように小さく「うん」と頷いた。
玲衣は、ほんの少し気恥ずかしさを隠すように言葉を足す。
「俺みたいに朝ギリギリで教室入らないしな」
紬はクスッと笑った。
その小さな笑みは抱きしめたくなる程可愛らしい。
けれど同時に、焦りや、自分への苛立ちが湧き上がる。
紬が懸命に守ろうとしている部分に踏み込んで、拒絶されるのが怖い。
「ねえ、玲衣。今日も一緒に帰れる?」
卵焼きを箸でつまみながら、紬が小さく問いかけた。
玲衣は息を詰まらせる。
断る理由なんてない。
最近は紬の方から誘ってくれることが増えた。
「もちろん、あと数学の宿題もやってこう」
紬は卵焼きを飲み込み、頷いた。
――幸せだな。
ふと、そんな言葉が心を満たす。
けれど同時に、紬の頬に残る痣が視界にちらつく。
痛々しい紫の痕跡。
…
夕暮れの駅前を並んで歩く。
紬はこの暑いなか、制服の袖を下ろし体の痣を隠している。
玲衣の目にはその不自然さが痛々しく映る。
「さっきの動画、本当面白かったね。ちょっと笑い過ぎたかな」
紬が苦笑いを浮かべる。
「だろ?俺も部屋でめっちゃ笑ってたら姉ちゃんに変な目で見られた」
――こうして笑い合ってると、本当に普通の「友達」だな。
分かれ道の信号で立ち止まる。
玲衣は自転車のハンドルを握る手に、無意識に力を込めた。
紬を守りたいのに何を恐れているんだろう。
紬の世界に足を踏み入れた瞬間、紬が守ろうとしているものを壊しかねないこと、同時に自分の傷にも向き合わされる気がすること。
「玲衣、また明日ね」
紬が微笑む。初めて話をした頃とは見違えるほど、自然な笑顔。
「……ああ。また明日」
声を出した瞬間、玲衣は自分の喉の奥が熱くなるのを感じた。
――帰るな!本当に言いたいのはその言葉なのに。
信号が青に変わり、玲衣が自転車を押して歩き出す。
紬はその背中を見送ると、自分も反対側の道を歩き出す。
――また明日。
口にした言葉が胸の奥で何度も反響する。
玲衣と一緒に帰れること、他愛ない話をして笑えること。
それだけで一日を生きられる気がした。
頬に触れる夕方の風が、じんと痣を痛ませる。
痛みは消えないのに、玲衣といるときだけはそれを忘れられる。
――だからこそ、隠さなきゃ。
この痣も、家でのことも。
昨夜、優一郎に投げつけられた言葉が頭をよぎる。
――お前がどれだけ雑魚で、惨めで、情けないか。
玲衣に知られたら、玲衣はこんな自分にも優しいから、憐れんでくれるかもしれない。もしかしたら、助けようとしてくれるかもしれない。……でも、こんな自分を、どうしようもなく惨めで弱い本当の自分を知られるのは許せなかった。
――普通の友達でいたい。
だから、頑張るんだ。
胸の奥に矛盾した願いを抱えながら、紬は帰路を辿る。
街灯の下に落ちる影は細く頼りなかったが、その足取りだけは、確かに前を向いていた。




