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境界  作者: 萌千兎さら
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03. 友達

(つむぎ)が家に帰ると、リビングから夕飯の匂いと家族の話し声が聞こえた。高校3年生の兄、優一郎はずっと続けているバスケ部も引退したようで近頃は帰りが早かった。

紬はなるべく音を立てないよう階段を上がり、そっと自室のドアを閉めた。


制服を脱ぎ捨て、部屋着に着替えると、ベッドに身を沈める。リビングの照明が消えるまで、暗闇の中で息を潜めている。


――お腹空いたな…。


家族と顔を合わさないように夜をやり過ごす。

自分の衣類を洗濯をし、シャワーを浴びる。台所を漁るときも、蛇口の水音が恐ろしく響く。

そんな生活が、いつの間にか当たり前になっていた。


同じ屋根の下にいながら、この家では紬の名前はどこにもない。


母が再婚したのは中学に上がる頃だった。それまでの貧乏暮らしが一変して、まるで上流階級の仲間入りをしたかのようで母は夢中だった。新しい父と、新しい兄の優一郎。

母を振り向かせられないこと、何から何まで兄に劣るどうしようもない自分を否定されることに疲れて、いつしか心を閉ざした。

それがいつの間にか両親にとって紬を突き放す都合のいい言い訳になった。本人が望んで部屋に篭っているのだから、放っておくしかないと。


暗闇のまどろみに沈みゆく意識の中で、ふと昼間の玲衣(れい)の横顔が浮かびぶ。


教室で、クラスメイトたちが通りすがりに笑った。

近衛(このえ)、お前また相馬と一緒かよ」

「やっぱ趣味わりぃ〜」


玲衣はむっとした顔で言い返した。

「はぁ?友達と一緒にいるのは普通だろうが」


紬は少し気恥ずかしそうに目を伏せながらも、胸の高鳴りを感じた。自分を庇ってくれる人なんていないと思っていた。


俺……嬉しいのかな。


玲衣は、空気みたいに溶けた自分のかたちを取り戻すのをたすけてくれる。


「友達……か」

自然と笑みがこぼれ、久しく感じていなかった響きが心の奥に静かに落ちていく。



翌日

今日も二人で同じ帰り道を歩き、少しだけのつもりで寄り道をする、


何度か来たことのある、長い石段の先にある神社。

古ぼけた掲示板に貼られた夏祭りのポスターが、湿った夏の風に揺れていた。

耳に届くのは、遠くから絶え間なく響く蝉の声。


雑木林に囲まれた石段は薄暗く、木漏れ日がまだら模様を描いている。

息を切らせて登りきると、視界が広がり、その先に古びた鳥居と境内があらわれた。


「紬、大丈夫か?」

「う、うん」

紬は息を切らしながら、最後の石段を上がると膝に手をつき額の汗を拭った。


「運動不足が祟ったな」

玲衣は肩越しに笑って見せる。

……本当にその通りだから言い返せない。


境内の石畳に腰を下ろすと、地面からの熱がまだじんわりと伝わってくる。

玲衣が水筒を差し出すと、紬は口をつけて喉を鳴らした。

「ありがとう」


玲衣は自分も水筒に口をつける。

さっき紬の唇が触れた場所を舌でなぞるように。


境内の空気は静かで、蝉の声だけが賑やかに響く。


「もうすぐ夏休みだな」

「うん」


木々の間から差し込む日差しが、二人の影を伸ばしていた。


「俺、今は学校に行く方が楽しいから……寂しいな」

紬が靴の先を見ながら言う。


――それってつまり、俺と会えるからってことだよな……?


「あの、」

「あのさ、」


二人の声が重なり、互いに驚いてすぐに笑い合う。


「じゃあさ、休みになっても遊ぼうぜ。昼間はうち基本誰もいないし、図書館行ってもいいしな!」

「いいの?」

「当たり前じゃん!」


紬の頬がふっと緩む。

笑うと、目元の線が柔らかくなる。


「紬は夏休みに行きたいところとか、したいことってある?」

紬はしばらく思案して、小さく呟いた。

「……夏祭り」


石段で見かけたポスターが浮かぶ。


「じゃあ決まりだな。確か同じ日に花火大会もあるから、ここからも見えるかもな」

紬の顔がふっと明るくなる。


紬が自分からしたいことを話してくれる。玲衣の中で、自分だけが知ってる紬がどんどん増えていく。

そのたびに、自分の過去の傷みまで麻酔のように薄れていく気がした。


それから日が傾くまで二人で他愛もない話をする。

先のことを考えるのが楽しい。お互いがそう思ってることが分かる。


「俺、玲衣と隣の席になって…友達になれてよかった」


そのひと言に胸を掴まれる。

望んでいたはずの言葉が、今度は行き場のない未来への閉塞感を連れてくる。


「……どうしたの?」

紬が不思議そうに玲衣の顔を覗き込む。


「べつに!何でもない」

玲衣は戯けた調子でそう言いながら紬の背を軽く叩くと、そのまま立ち上がり伸びをする。

「帰るか?」


玲衣が紬に手を差し出す。

紬は一瞬ためらうように目を伏せたが、やがてその手を掴み、身体を起こした。


細くて頼りない手なのに不思議と熱を帯びていて、もう少しこのまま握っていたい、そう思ってしまう。


ほんの数秒で離れてしまったけれど、手のひらにはまだ紬の温もりが残っている。


本当は友達じゃ足りない。もっと強く、もっと深く紬と繋がりたい。紬には俺だけを見てほしい。

それなのに、友達という言葉が、その欲望の前に冷たい壁のように立ちはだかって動かない。


紬はそんな玲衣の疼きなど気づかないまま、いつものように微笑む。


過去も未来も見なくて済むのなら、ただ恋の苦味だけ味わえるならどんなに良いだろうか。


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