02. 陰影
夕暮れの教室に、窓から差す赤い夕焼けが暗い影と混ざり合い不穏に落ちる。
玲衣は誰もいない教室で黒板の前に立ち尽くしていた。
殴り書きの嘲笑で埋め尽くされた黒板の中央には、一枚の写真が貼り付けられている。
仲良く肩を組む二人組。まだ黒髪だった玲衣と――もう一人は、顔だけが黒く塗り潰されていて見えない。
子どもの頃から兄弟みたいに育ち、同じ高校に進んで。お互いに永遠に親友だと思っていた。
だからずっと抱いていた想いを打ち明けて、たとえ受け入れられなかったとしても、また友達に戻るだけだと信じていた。
顔の塗り潰されたその写真を見た瞬間、喪失感が全身を巡っていく。喉が渇く。手首が刺すように痛み、胸がざわつく。
――違う、俺のせいじゃない。
今度は吐き気がして両手で口を押さえて膝をつく。
あいつは、俺から告白されたことを誰かに話した。多分、それがあいつのクラス中に知れ渡る事になるなんて、思ってもなかったのだろうけど。
爽やかなスポーツマンでクラスの人気者が、翌日には好奇の目に晒されて、からかいの対象になった。からかいは増幅して陰湿な虐めに変わった。
それを俺は、あろうことか、あの日あの教室で初めて知った。
玲衣の横顔に汗が伝い、生理的な涙が目の端に滲む。
俺は、一番好きだった人の一番憎む人間になっていた。
男を好きになるってこういうことなんだって思った。
求めても求めても手に入らない。
俺はただ好きになった人に本当の俺を見てほしかった。
あいつが俺を見る憎悪でいっぱいの目。
固く目を瞑り顔を背けた横顔。
どうにかして守りたかった。それからしばらくして、あいつが自殺未遂をしたと聞いた。
はっとして顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは、静かに座る紬の横顔だった。
また、白昼夢をみていた。
先に図書室に来て紬の当番が終わるのを待っていたんだ。
「宿題……全然進んでない」
紬は、玲衣が机に広げていたノートを指差してから、手を口元に当てクスッと笑った。
玲衣は目の端に僅かに滲んでいた涙を拭った。
宿題もひと通り終わって、一息付く。
「そういや、授業以外で図書室来たの初めてかも。
ちょっと前は本ばっか読んでたんだけどなぁ」
「玲衣って本読むの?」
「う〜ん……まぁ。
ここに転校してくる前は、俺、学校行かなかった時期があってさ。暇だし金もないしで、近所の図書館行って。色々読んでたよ」
「そう、なんだ」
紬は本の上に重ねた手の指を僅かに動かす。
「紬は本好き?」
視線が玲衣の口元を捉える。
「俺さ、王道の青春ものとかサスペンスとか、先が気になるやつが好きなんだよな。次どうなるんだろってページめくるのが楽しくて」
そう言って紬の横顔を伺う。
紬は指先で本の背を撫でながら、小さく答えた。
「俺は、人の感情とか、言葉にできない気持ちが丁寧に書いてあるのがいい。純文学とか、かな」
ああ、全然違う。
俺なら途中で飽きそうだな――そう思ったのに、不思議と「知りたい」って気持ちが勝った。
「へぇ。結構違うな。でも紬が好きならちょっと読んでみたい」
紬は手元の本に視線を落とした。
「じゃあ、玲衣の好きなのも、読んでみようかな」
口元がかすかに笑みを結んでいるように見えた。
紬が何気なく袖をまくる。
紫色の痣が目に入った。
「……紬、腕、怪我してる?」
その言葉に、紬の瞳が一瞬暗い影に揺れる。
兄に強く腕を掴まれ、骨が軋むほど捻られた腕。痛みに身体を捩じり、渇いた悲鳴を上げる自分の姿。
冷たい汗が背を伝い、袖を引き下ろす指が震えた。
「なんでもないよ。俺、運動神経悪すぎて。すぐ転ぶんだよね」
……嘘だ。
玲衣はそう直感したけれど、それ以上は踏み込めなかった。
追及すればいい。どうして、と訊けば簡単なのに。
紬が触れてほしくないと引いたその線を越えた瞬間、せっかく繋がりかけた糸が切れてしまう気がした。
それに、あの黒板の顔を塗り潰された写真が脳裏をかすめると、どうしても身体が緊張する。
拒まれるのが怖い。
玲衣は喉まで出かかった言葉を押し込め、ただ「そっか」と頷いた。
放課後。
校門まで来ると、いつもならここで別れる。玲衣は自転車、紬はバス。
だけど、今日は足が止まる。
「紬、駅まで一緒に行かない?」
紬は数歩先から振り返ると微笑みながら瞬きをした。
並んで歩きながら、他愛もない話をする。
笑ったり、時折照れくさそうに目を逸らしたり。
意外と人懐っこいんだな――その仕草ひとつひとつが新鮮で、どうにかしてしまいたいと心の奥底が疼く。
学校では誰も知らない紬の顔。もしかしたら、家の人間さえ知らないかもしれない。
「自分だけが知っている」甘い感覚が、胸の奥で熱く満ちていく。紬が自分を認めてくれたようで、嬉しくて、愛おしくて……たまらない。
駅前の分かれ道で、紬が小さく手を振る。
玲衣はその華奢な背を見送る。
――大丈夫かな。
心配する気持ちは本物だ。けど同時に、あの笑顔だけじゃなく弱さも、自分だけに向けてほしいと願ってしまう。紬が求めるなら、俺はたぶん、何だって差し出してしまう。
信号が変わり、玲衣は自転車を押す。
だから紬は今度こそ俺が守ってやりたい。
でもその手で掴もうとしているのが本当に紬なのか、それとも別のなにかが溶け合っているのか、玲衣にはもう分からなかった。




