表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界  作者: 萌千兎さら
12/12

12. 愛の再配分

(つむぎ)、その小さな白いお花は「ハルジオン」って言うんだよ。


「へー、かわいい!でも小さくて可哀想」

でもほら、寄り添うようにいっぱい咲いてるよ。寂しくなくて良いじゃない?


「お母さん、この黄色い花は?」


珍しいね、このお花は夜にしか咲かないんだよ。この子だけ、寝坊助なのかな?


母はよく道端の花の名前を教えてくれた。

暮らしは貧しかったけど、記憶の中のあの頃の母はいつも自分に笑顔を向けてくれていて、今思えば幸せだった。

だけどその瞬間も、俺がいることで……きっと苦労していたんだろうな。



結局、家に戻る気持ちになれなくて、冬休みの間中ずっと玲衣(れい)の家で世話になっていた。

初詣に行ったり、買い出しに出掛けて料理を手伝ったり、日常の飾り気のないやり取りが新鮮で心地良かった。


玲衣のお母さんもお姉さんも家族思いのやさしい人たちで、急に転がり込んできた自分なんかにも、変に気を遣わずに普通に接してくれた。


いつか玲衣が言っていた。

「――俺の姉ちゃん、美容師の独立資金貯めてたのに、俺の転校費用出してくれてさ…。母さんも夜遅くまで働いてるし。

だから、俺もしっかり支えないとって思ってるんだけど…なかなか、な。」

玲衣は照れ臭そうに笑っていた。


――ああ、いいなぁ。

正直に言うと羨ましい。どうして自分の家はそうじゃないんだろう。

玲衣みたく、母を支えてやれる強さが自分にあったなら、こうはならなかったかもしれない。



その日の夜は二人だけの夕食だった。いつもより少しだけ静かな食卓の上で、紬は箸を置いて口を開く。


「そろそろ学校始まるし、荷物……取りに帰ろうかな」

「そうだよな……俺も手伝いに行こうか?」


「ううん、大丈夫。」

玲衣には自分の歪んだ家を見せたくなかった。


玲衣は「わかった」と頷くと、こたつの上の食器を重ねて台所へ運ぶ。


紬は慌てて自分の食器を両手に玲衣の後を追った。

並んでシンクの前に立つ。

「俺も手伝う」


「ああ、ありがと」

玲衣がひとつ洗い終えると、紬が空いた皿を玲衣に手渡す。

手伝うというより、ただ隣に立って玲衣の手際の良さを眺めているだけ。


「……あ、あの」

「何だよ、改まってさ」

玲衣が泡のついた頬を手の甲で拭う。


「……この前、玲衣のこと怒鳴ったこと。謝りたくて」


玲衣は蛇口を捻り水を止めるといつもの優しい顔で紬を見る。

「それは言わない約束だろ?

……大丈夫だよ、俺怒ってないし、紬の言いたかったこと、ちゃんと分かってるつもりだから」

玲衣は泡に包まれた皿を指でなぞる。

「俺、ちゃんと大学行くことにした」


「………うん」

何だろう、そう言われると、取り残されてしまったようで不安になる。あの日、自分は玲衣の優しさごと押し返してしまったのだと、今になって気付く。


「でも、俺もまだ何したいとかは見えてないしさ。

将来のこと、紬と一緒に悩みたいなって思ってる」


その言葉に、紬は俯いていた顔を上げ、玲衣の横顔を見上げる。

やっぱり玲衣は温かい。


紬は大きく頷き、それから、もう半歩だけ玲衣の隣へと体を寄せた。



家に戻ったのは、二週間振りだった。

誰にも気付かれないように、静かにドアを閉める。

廊下は薄暗く人の気配がない。


音を立てないよう自室への階段を登る。

中程に立つと思い起こす。


――ここであいつに、初めて声を荒げたんだ。


自室に入ると、スマートフォンが机の上に置かれていた。いつの間にか無くしていて、あの時に盗られたんじゃないかとずっと怯えていた。


紬は学校の荷物を鞄に詰め込むと、恐る恐るスマホを手に取る。

チャットアプリを開き、溜まった通知を消していく。

その指が、ふと止まった。


――動画を、送信……?


玲衣とのトーク履歴。


画面を開いた瞬間、スマホが手から滑り落ち、咄嗟に口を押さえる。

「ああぁ…っ」

吐き気が込み上げる。血の気が引いて、息がうまく吸えない。


やだよ………既読になってる…。

もう、何日も前に…。


動画の再生ボタンを押すことは出来なかった。

中身は知っているから。


従順に受け入れる自分の姿がフラッシュバックする。


違う……怖かったから!悦んだら早く終わると思ったんだ。


どうしよう。玲衣がこれを見たら……俺が好きでやってるように見えていたら……。

顔も身体も、全身が羞恥に焼かれていく。


どうして……。

どうして俺は……こうなんだよっ!いつもいつも!!


それから、心の中で何度も自分を殺す。

怒りでも悲しみでもない。

もっと原始的な、自分を壊したい衝動。


こんなに嫌だったんだ。画面の中の「俺」は、俺じゃない。


ここにいる自分とは違う存在だと、そう言い聞かせながら。爪が割れて、血が滲むまで床を叩いた。



それから、気が済むまで泣いて、暴れて、自分を痛めつけると、紬は重い鞄を肩に掛けた。

泣き腫らした目で玄関に座り、靴を履く。

ドアに手を掛けたそのとき、リビングの扉が開く音がした。


「紬……?ちょっと、どこ行ってたの?

一度も帰ってないでしょう?」


――母さん。


「……友達の家に」

紬は背を向けながら言葉を押し出すように答えた。


「それならそうと連絡くらいしなさい。お家の方にもきちんと説明しないと失礼じゃない。それに、もうすぐ新学期でしょう?心配ばかり――」


「……後で、連絡するから」


母の声を遮るようにして言うと、一度も振り向かず、玄関を出た。


外気が肌に触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸が、音もなく切れた気がした。


ドアを閉め、ほんの少しの間だけ空を仰ぐ。

雲の切れ間に、寒々しい冬の日差し。


直視できない傷みはそのままだけど、以前みたく、もう馬鹿なことはしない。立ち止まらずに歩こうと思った。

紬は真っ直ぐに玲衣の家のある方へ足を踏み出した。



季節が巡り、半袖の制服に袖を通す。

進路を決める面談に、母は来なかった。


がらんとした教室で教師が意気揚々と言う。

「相馬は成績も良いからな。

うちの市に製鉄会社の工場があるだろう。そこの事務募集が来ていてなぁ。有数の企業だぞ?」


「………はい」


「こんな募集、そうないぞ?相馬なら推薦枠狙えるし、先生が推してやる」


「…………はい」


引き戸を閉めると、廊下の窓にもたれた玲衣が小さく手を振った。


「どうだった?」

「……うん、就職先、決まりそう」


玲衣は紬の浮かない顔を横目で見ると、言葉を探して思案する。


「玲衣は?」

「俺は日頃の行い悪すぎて、推薦のすの字も出てこなかったな。一般入試で行くよ」

「その髪色だもんね?」

紬は冗談めかして笑ってみせる。


玲衣は難関大学を目指して勉強している。

二人でいる時間は減ったけれど、目標に向かって頑張っている玲衣の姿は眩しくて、見ているとなんだか嬉しくなる。


俺は、このままでいいのかな……。


そんな引っ掛かりを抱えたまま、季節がゆっくりと巡っていった。

蝉の声が遠ざかり、高校三年の夏が終わる。

木の葉が色を変える頃には、玲衣と過ごす時間も少しずつ減っていた。

けれど、それは寂しさというより、どこか現実に引き戻されていくような感覚だった。


冬休みを控えた放課後――

玲衣と本屋の参考書フロアを覗いていたとき、紬の目に予備校のポスターが目に留まる。


「何見てんの?」

玲衣は紬の背中越しに顔を出すと、紬の視線の先のポスターに目を遣る。

「へぇ、公務員試験……高卒でも受けられるのか」


紬は備え付けの二つ折りのパンフレットを手に取る。


「気になるの?」

「………でも、もう推薦決まっちゃったし」


紬はパンフレットを台の上に戻す。


「関係ないよ、自分の将来のことなんだから。

やりたいなら俺は応援するよ」


紬は下を向いたまま目を逸らす。


「学費だって、少しくらいなら貸せるし」

「そんな、いいよ」


玲衣は何も言わず、パンフレットを手に取って、紬に差し出す。


「俺も、紬にやりたいこと諦めて欲しくない」

そう言って、励ますように紬の背を叩いて、玲衣はまた本棚の間に歩いて行った。


――俺の、やりたいこと……。


一年前、玲衣と「同じ大学に行こう」と約束したときも、未来の自分を思い描こうとしていた。

あのときの夢はすぐに途絶えてしまったけれど。


でも今、もう一度、同じ問いかけをしている。


その日は、家に帰ってもパンフレットを眺めていた。

スマホの検索ボックスに文字を打ち込む。


画面をスクロールするごとに、自分の世界の輪郭が急に広がったような気がした。

自分の未来を考えるということへの、ほんの少しの高揚感。

けれど、悩んで、諦めて、またページを開くうちに、季節はあっという間に移ろっていく。


そして今日、俺と玲衣は高校卒業の日を迎える。


俺はしばらく悩んだ末に、土壇場で内定を辞退した。

先生たちからは死ぬ程詰められたし、本当に悪いことをしたと思う。

玲衣は保護者席に座って一緒に謝りに来てくれたけど、態度が悪くて余計に担任を激怒させて…。


「紬!」

校門の前で、玲衣が駆け寄って来る。


「……髪!どうしたの!?」

明るい金髪が、黒く染まっていて、長さも短くなっている。

「まぁ、俺だってTPOくらい分かるからな」

冗談めかしながらも、どこか照れくさそうに笑う玲衣。


「すごいおしゃれ!お姉さんに切ってもらったの?」


玲衣は、無事に第一志望の大学に合格した。

就職浪人の自分とは違い、来月からは大学生だ。


――自分で選択した道だから後悔はない。

玲衣が隣に居てくれたから、自分の人生を自分で選ぶことが出来たのだから。




講堂に向かう途中の中庭で、玲衣は紬の方へ振り返る。


ふと、紬がこのまま自分の側から居なくなってしまうような……そんな言いようのない不安を感じ、立ち止まる。


咄嗟に紬の腕を掴む。

考える間もなく、足早に人目のない物置の裏へ、二人で身を寄せた。


紬は黙ったまま、玲衣の顔を見ている。


向かい合ったまま、玲衣は掴んでいた手で、ブレザー越しに紬の腕をたどる。細く冷たい手首のかたちを確かめて、それから指を絡める。


「……俺、ちょっと緊張してきてさ」

稚拙な言い訳。


手のひらの温もりを確かめるように、ほんの少しだけ指に力を込める。


「玲衣……」


紬は握られた手の上に、そっともう片方の手を重ねた。


玲衣はすぐに手を引き、視線を逸らす。

「ご、ごめん!なんか今キモかったな」


「うん、ちょっとね」

紬が笑いながら、玲衣の脇腹を軽く拳で突く。


「ほら、卒業式、始まっちゃうよ」


よく分からないけど、その笑顔を見た瞬間、さっきまで感じていた不安が嘘のように晴れていた。


これからは同じ立ち位置で側にいられたらいい。


玲衣は顔を上げる。

駆け出していく紬の背に追いつくと、軽く肩に拳を返した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
エピソード全て拝読しました。玲衣の同性愛者としての苦しみから始まり、紬の壮絶な環境にこちらまで胸が張り裂けそうな心地がしました……。その中で二人の間に流れる空気感や描写が切なく、より胸に刺さりました。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ