12. 愛の再配分
紬、その小さな白いお花は「ハルジオン」って言うんだよ。
「へー、かわいい!でも小さくて可哀想」
でもほら、寄り添うようにいっぱい咲いてるよ。寂しくなくて良いじゃない?
「お母さん、この黄色い花は?」
珍しいね、このお花は夜にしか咲かないんだよ。この子だけ、寝坊助なのかな?
母はよく道端の花の名前を教えてくれた。
暮らしは貧しかったけど、記憶の中のあの頃の母はいつも自分に笑顔を向けてくれていて、今思えば幸せだった。
だけどその瞬間も、俺がいることで……きっと苦労していたんだろうな。
結局、家に戻る気持ちになれなくて、冬休みの間中ずっと玲衣の家で世話になっていた。
初詣に行ったり、買い出しに出掛けて料理を手伝ったり、日常の飾り気のないやり取りが新鮮で心地良かった。
玲衣のお母さんもお姉さんも家族思いのやさしい人たちで、急に転がり込んできた自分なんかにも、変に気を遣わずに普通に接してくれた。
いつか玲衣が言っていた。
「――俺の姉ちゃん、美容師の独立資金貯めてたのに、俺の転校費用出してくれてさ…。母さんも夜遅くまで働いてるし。
だから、俺もしっかり支えないとって思ってるんだけど…なかなか、な。」
玲衣は照れ臭そうに笑っていた。
――ああ、いいなぁ。
正直に言うと羨ましい。どうして自分の家はそうじゃないんだろう。
玲衣みたく、母を支えてやれる強さが自分にあったなら、こうはならなかったかもしれない。
…
その日の夜は二人だけの夕食だった。いつもより少しだけ静かな食卓の上で、紬は箸を置いて口を開く。
「そろそろ学校始まるし、荷物……取りに帰ろうかな」
「そうだよな……俺も手伝いに行こうか?」
「ううん、大丈夫。」
玲衣には自分の歪んだ家を見せたくなかった。
玲衣は「わかった」と頷くと、こたつの上の食器を重ねて台所へ運ぶ。
紬は慌てて自分の食器を両手に玲衣の後を追った。
並んでシンクの前に立つ。
「俺も手伝う」
「ああ、ありがと」
玲衣がひとつ洗い終えると、紬が空いた皿を玲衣に手渡す。
手伝うというより、ただ隣に立って玲衣の手際の良さを眺めているだけ。
「……あ、あの」
「何だよ、改まってさ」
玲衣が泡のついた頬を手の甲で拭う。
「……この前、玲衣のこと怒鳴ったこと。謝りたくて」
玲衣は蛇口を捻り水を止めるといつもの優しい顔で紬を見る。
「それは言わない約束だろ?
……大丈夫だよ、俺怒ってないし、紬の言いたかったこと、ちゃんと分かってるつもりだから」
玲衣は泡に包まれた皿を指でなぞる。
「俺、ちゃんと大学行くことにした」
「………うん」
何だろう、そう言われると、取り残されてしまったようで不安になる。あの日、自分は玲衣の優しさごと押し返してしまったのだと、今になって気付く。
「でも、俺もまだ何したいとかは見えてないしさ。
将来のこと、紬と一緒に悩みたいなって思ってる」
その言葉に、紬は俯いていた顔を上げ、玲衣の横顔を見上げる。
やっぱり玲衣は温かい。
紬は大きく頷き、それから、もう半歩だけ玲衣の隣へと体を寄せた。
…
家に戻ったのは、二週間振りだった。
誰にも気付かれないように、静かにドアを閉める。
廊下は薄暗く人の気配がない。
音を立てないよう自室への階段を登る。
中程に立つと思い起こす。
――ここであいつに、初めて声を荒げたんだ。
自室に入ると、スマートフォンが机の上に置かれていた。いつの間にか無くしていて、あの時に盗られたんじゃないかとずっと怯えていた。
紬は学校の荷物を鞄に詰め込むと、恐る恐るスマホを手に取る。
チャットアプリを開き、溜まった通知を消していく。
その指が、ふと止まった。
――動画を、送信……?
玲衣とのトーク履歴。
画面を開いた瞬間、スマホが手から滑り落ち、咄嗟に口を押さえる。
「ああぁ…っ」
吐き気が込み上げる。血の気が引いて、息がうまく吸えない。
やだよ………既読になってる…。
もう、何日も前に…。
動画の再生ボタンを押すことは出来なかった。
中身は知っているから。
従順に受け入れる自分の姿がフラッシュバックする。
違う……怖かったから!悦んだら早く終わると思ったんだ。
どうしよう。玲衣がこれを見たら……俺が好きでやってるように見えていたら……。
顔も身体も、全身が羞恥に焼かれていく。
どうして……。
どうして俺は……こうなんだよっ!いつもいつも!!
それから、心の中で何度も自分を殺す。
怒りでも悲しみでもない。
もっと原始的な、自分を壊したい衝動。
こんなに嫌だったんだ。画面の中の「俺」は、俺じゃない。
ここにいる自分とは違う存在だと、そう言い聞かせながら。爪が割れて、血が滲むまで床を叩いた。
…
それから、気が済むまで泣いて、暴れて、自分を痛めつけると、紬は重い鞄を肩に掛けた。
泣き腫らした目で玄関に座り、靴を履く。
ドアに手を掛けたそのとき、リビングの扉が開く音がした。
「紬……?ちょっと、どこ行ってたの?
一度も帰ってないでしょう?」
――母さん。
「……友達の家に」
紬は背を向けながら言葉を押し出すように答えた。
「それならそうと連絡くらいしなさい。お家の方にもきちんと説明しないと失礼じゃない。それに、もうすぐ新学期でしょう?心配ばかり――」
「……後で、連絡するから」
母の声を遮るようにして言うと、一度も振り向かず、玄関を出た。
外気が肌に触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸が、音もなく切れた気がした。
ドアを閉め、ほんの少しの間だけ空を仰ぐ。
雲の切れ間に、寒々しい冬の日差し。
直視できない傷みはそのままだけど、以前みたく、もう馬鹿なことはしない。立ち止まらずに歩こうと思った。
紬は真っ直ぐに玲衣の家のある方へ足を踏み出した。
…
季節が巡り、半袖の制服に袖を通す。
進路を決める面談に、母は来なかった。
がらんとした教室で教師が意気揚々と言う。
「相馬は成績も良いからな。
うちの市に製鉄会社の工場があるだろう。そこの事務募集が来ていてなぁ。有数の企業だぞ?」
「………はい」
「こんな募集、そうないぞ?相馬なら推薦枠狙えるし、先生が推してやる」
「…………はい」
引き戸を閉めると、廊下の窓にもたれた玲衣が小さく手を振った。
「どうだった?」
「……うん、就職先、決まりそう」
玲衣は紬の浮かない顔を横目で見ると、言葉を探して思案する。
「玲衣は?」
「俺は日頃の行い悪すぎて、推薦のすの字も出てこなかったな。一般入試で行くよ」
「その髪色だもんね?」
紬は冗談めかして笑ってみせる。
玲衣は難関大学を目指して勉強している。
二人でいる時間は減ったけれど、目標に向かって頑張っている玲衣の姿は眩しくて、見ているとなんだか嬉しくなる。
俺は、このままでいいのかな……。
そんな引っ掛かりを抱えたまま、季節がゆっくりと巡っていった。
蝉の声が遠ざかり、高校三年の夏が終わる。
木の葉が色を変える頃には、玲衣と過ごす時間も少しずつ減っていた。
けれど、それは寂しさというより、どこか現実に引き戻されていくような感覚だった。
冬休みを控えた放課後――
玲衣と本屋の参考書フロアを覗いていたとき、紬の目に予備校のポスターが目に留まる。
「何見てんの?」
玲衣は紬の背中越しに顔を出すと、紬の視線の先のポスターに目を遣る。
「へぇ、公務員試験……高卒でも受けられるのか」
紬は備え付けの二つ折りのパンフレットを手に取る。
「気になるの?」
「………でも、もう推薦決まっちゃったし」
紬はパンフレットを台の上に戻す。
「関係ないよ、自分の将来のことなんだから。
やりたいなら俺は応援するよ」
紬は下を向いたまま目を逸らす。
「学費だって、少しくらいなら貸せるし」
「そんな、いいよ」
玲衣は何も言わず、パンフレットを手に取って、紬に差し出す。
「俺も、紬にやりたいこと諦めて欲しくない」
そう言って、励ますように紬の背を叩いて、玲衣はまた本棚の間に歩いて行った。
――俺の、やりたいこと……。
一年前、玲衣と「同じ大学に行こう」と約束したときも、未来の自分を思い描こうとしていた。
あのときの夢はすぐに途絶えてしまったけれど。
でも今、もう一度、同じ問いかけをしている。
その日は、家に帰ってもパンフレットを眺めていた。
スマホの検索ボックスに文字を打ち込む。
画面をスクロールするごとに、自分の世界の輪郭が急に広がったような気がした。
自分の未来を考えるということへの、ほんの少しの高揚感。
けれど、悩んで、諦めて、またページを開くうちに、季節はあっという間に移ろっていく。
そして今日、俺と玲衣は高校卒業の日を迎える。
俺はしばらく悩んだ末に、土壇場で内定を辞退した。
先生たちからは死ぬ程詰められたし、本当に悪いことをしたと思う。
玲衣は保護者席に座って一緒に謝りに来てくれたけど、態度が悪くて余計に担任を激怒させて…。
「紬!」
校門の前で、玲衣が駆け寄って来る。
「……髪!どうしたの!?」
明るい金髪が、黒く染まっていて、長さも短くなっている。
「まぁ、俺だってTPOくらい分かるからな」
冗談めかしながらも、どこか照れくさそうに笑う玲衣。
「すごいおしゃれ!お姉さんに切ってもらったの?」
玲衣は、無事に第一志望の大学に合格した。
就職浪人の自分とは違い、来月からは大学生だ。
――自分で選択した道だから後悔はない。
玲衣が隣に居てくれたから、自分の人生を自分で選ぶことが出来たのだから。
…
講堂に向かう途中の中庭で、玲衣は紬の方へ振り返る。
ふと、紬がこのまま自分の側から居なくなってしまうような……そんな言いようのない不安を感じ、立ち止まる。
咄嗟に紬の腕を掴む。
考える間もなく、足早に人目のない物置の裏へ、二人で身を寄せた。
紬は黙ったまま、玲衣の顔を見ている。
向かい合ったまま、玲衣は掴んでいた手で、ブレザー越しに紬の腕をたどる。細く冷たい手首のかたちを確かめて、それから指を絡める。
「……俺、ちょっと緊張してきてさ」
稚拙な言い訳。
手のひらの温もりを確かめるように、ほんの少しだけ指に力を込める。
「玲衣……」
紬は握られた手の上に、そっともう片方の手を重ねた。
玲衣はすぐに手を引き、視線を逸らす。
「ご、ごめん!なんか今キモかったな」
「うん、ちょっとね」
紬が笑いながら、玲衣の脇腹を軽く拳で突く。
「ほら、卒業式、始まっちゃうよ」
よく分からないけど、その笑顔を見た瞬間、さっきまで感じていた不安が嘘のように晴れていた。
これからは同じ立ち位置で側にいられたらいい。
玲衣は顔を上げる。
駆け出していく紬の背に追いつくと、軽く肩に拳を返した。




