11. 依存
薄いカーテンの隙間から冬の朝日が差し込む。
畳で寝たせいで、起き上がると背中が痛む。
「いってぇ〜…」
背を伸ばしながら四つん這いのまま頭を上げると、紬はまだ布団の中で静かに眠っているようだった。
そのまま立ち上がり、ベッドの上の紬を覗き込む。
顔色は良くなっている。
玲衣はそっと襖を閉めると、手首のゴムで髪を後ろにまとめながら台所に立ち、電気ポットのスイッチを入れる。
家族が起きたら、紬のこと、何て言えばいいんだろう……。
湯気が静かに立ちのぼる。
…
その後、家の中に静けさが戻っても、昼前になっても、紬はまだ眠り続けていた。結局、朝の慌ただしさで、母や姉に紬のことを話すタイミングは見つけられなかった。
「……紬」
玲衣はベッドの端に腰を下ろす。
「…お前、家ん中あんなにうるさかったのに、よく寝てられるな?」
玲衣はふっと笑いながら、紬の額を撫でようと手を伸ばす。けれど、触れる寸前で躊躇して、そのまま手を下ろした。
「……俺、ずっと待ってるから。ずっとここに居ていいし。別に、何があったかとか、話さなくていいからさ」
少しの沈黙のあと、玲衣は小さく息を吸う。
「早く……また、いつもみたく話そう。俺、紬のこと……好きだからさ」
昨夜触れた紬の頬の冷たさがまだ指先に残っている。
その冷たさが、死を選ぼうとした幼馴染の後ろ姿を思い起こさせる。
あのまま紬がいなくなっていたら、自分は今度こそ本当におかしくなってしまう。
玲衣はあえて襖を開け放したまま、朝の支度で散らかったままの食卓を片付けはじめた。
…
「ちょっとお母さーん!?玲衣の奴、黙って友達連れ込んでるんだけど!」
「ちょっ、姉ちゃん、声デカいんだよ!」
「しかもコイツ、帰ったら私の布団で寝てたんだよ、信じらんない!」
……紬は、浮腫んだ瞼を半分開く。
「ちょっと色々あって…具合悪いんだよ、母さん頼むよ。」
「だったら尚更、あんたの部屋なんかに泊めてたら駄目でしょうよ」
すぐ頭上で話しているかのように響く声を、紬は表情を変えずにただ聞いている。
――ああ……また、玲衣に迷惑かけてる。
それでも、身体を起こそうとも思わない。
分かってる。
こんな自分勝手な態度を謝らないといけない。
感謝してるって言わないといけない。
早く出て行かないといけない。……でも、どこへ?
何も考えたくない。
毛布を頭から被る。
ただ眠っていたい。
惨めな自分、汚れた自分、死にたい自分……。
起きたら、全部消えてなくなっていればいいのに。
「……っとにかく、少しの間だけだから!二人とも、勝手に開けるなよ!」
玲衣の声がして、襖が静かに閉まる。
気まずそうな顔で部屋に入ってきた玲衣が、折りたたみの小さな机の上にお盆を置いた。
「……ごめんな?うるさくて」
麦茶の入ったコップと、湯気を立てる卵がゆ。
「……昼飯、手付けてなかったろ?
お粥作ったから、少しでも食べないか?」
返事はない。
「………俺は、バイト行ってくるから。ゆっくり休んでろ。」
玲衣は上着を掴むと、立ち上がり、背を向けた。
静けさが戻る。
紬は身体の向きを変えると、毛布の隙間から、玲衣が用意したお粥を黙って見つめる。湯気がまだかすかに立ちのぼっている。
食欲は無いはずなのに、その温かさに、やっぱり触れてみたくて。ためらいながらそっと手を伸ばした。
…
その日は海沿いの道を歩くことにした。
潮の匂いが風に混じり、玲衣の金色に染めた髪を揺らす。
紬はジャケットのフードを深く被り、俯いたまま歩いていた。
「体、大丈夫か?五日も寝てたんだからキツいだろ」
玲衣は悪戯っぽく笑いかける。
「………」
「でもさ、陽に当たって、外の空気吸うのっていいんだって。俺も外に出られない時期があったから、なんか分かるんだよな」
玲衣は砂浜に下りると、波打ち際で靴先を軽く蹴った。
しぶきが白く散る。
「……迷惑かけて、ごめん」
紬の声は掠れて小さい。
「あと、俺、もう……大学行けない」
穏やかに寄せる波音と、遠くの海鳥の声だけが、二人のあいだを静かに繋いでいる。
玲衣はそれが覆せない事実だと分かる。
「………じゃあ、俺も行かない」
別に、何か大学でしか叶えられないような夢があるわけじゃない。ただ、周りの奴らが普通に行くから流されているだけだ。だから――俺は紬の側にいてやりたい。
紬は苦悶に満ちた顔で瞼を閉じる。
「………何でだよ」
「そんなの、俺のせいにするなっ!」
玲衣は紬の方へ振り返る。驚きの余り言葉が出ない。
紬が声を張り上げる姿なんて、一度も想像したことがなかった。
「俺のせいで玲衣が諦めるなんて嫌だ……。俺を、ただの足手纏いにしないでよ!」
玲衣の目が見開く。
その叫びが波の音とともに、何度も耳に戻ってくる。
紬の被っていたフードが落ち、肩で息をしているのが映る。
ショックで言葉を失ったまま、頭が真っ白で……。
――いや、でも………そうかもしれない。
黒板に晒された、顔の塗り潰された写真が鮮やかに蘇る。
守っているつもりだった。
でも実際は、俺の方が紬に寄り掛かっていたんだ。
あのとき、黒板を眺めていた俺は、本当は優しくされたかった。誰かに俺の気持ちをわかってほしかった。
「あいつ」を追い込んだのは俺じゃないって慰めてほしかった。
足元の砂が波にさらわれ、靴の裏が沈む。
心の奥まで空気が抜けていくように、何も言えなくなる。
呆然と立ち尽くす玲衣の様子に、紬はハッとしたように駆け寄り、玲衣の両腕を掴んで揺らす。
「ごめん、そんなつもりじゃなくて…」
「玲衣に将来のこと、絶対諦めて欲しくなかったから…つい熱くなって、あんな言い方して…。」
玲衣はゆっくり首を横に振る。
――違う、悪いのは俺だ。
ずっと、誰かに必要とされたかった。
役に立つことでしか自分の価値を見つけられなくて、紬が俺を頼る程、俺自身が救われた気がしていた。
紬を助けたい気持ちは確かに本物だ。
でも、そんなことで満たされていく歪な自分に…気付かない振りをした。
本当は、たとえ隣に自分がいなくても、遠くからでも幸せを願えるくらいの人間でいるべきなんだ。
分かっているのに。
喉まで上がった言葉を、もう一度のみ込む。
それでも…
「……紬と、一緒にいたい」
震える声。
それがすべてだった。
紬の顔はすぐ近くで、呆気に取られたような瞳で玲衣を見上げている。
紬は、少し間を置くと、やがて口元を押さえて困ったように笑う。
「何、それ…」
「約束は?……二人暮らし、するんでしょう?」
紬の声が暖かい。玲衣の心の内なんて知らずに無垢な笑みを向けてくれる。自分だって痛いはずなのに。
涙が溢れて頬を伝う。
結局、紬を慰めるつもりが、いつも自分の方が救われてる。
…
年の瀬、
鍋の湯気がゆらゆらと立ちのぼり、その向こうで紬が小さく笑った。
いつもより少し豪華な具材が並び、部屋には出汁の良い香りが満ちている。
最初こそ緊張して、箸を持つ手もぎこちなかった。
けれど、賑やかな会話と笑い声に包まれて、温かいごはんを口に運ぶうちに、肩の力が少しずつ抜けていく。
相変わらず、玲衣と姉は子どものように言い合いをしていたし、玲衣の母と姉は紬のことを「つむちゃん」と呼び、「ガサツな玲衣とは違って、いい子だから」と笑う。
玲衣の母と姉の笑い声、こたつの中のぬくもり、箸が触れ合う音――どれも優しい生活の音だった。
鍋の食材を追加しに立っていた玲衣が戻ってきて、紬の隣に腰を下ろす。
紬の横顔に笑みが灯る。
あの海辺で交わした言葉の続きは、もう口にする必要なんてない。
玲衣はそっと目を伏せた。
紬が自分らしく笑っていて、今、俺が隣にいることができる。
それで充分なんだから――そう思いながらも、胸の奥に残ったままの傷がかすかに痛んだ。
この穏やかさの中で、自分だけがまだ償いの途中にいるような気がして。
それでも、紬の笑顔が目の前にある限り、今日だけはそれを忘れていたいと思った。




