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境界  作者: 萌千兎さら
11/12

11. 依存

薄いカーテンの隙間から冬の朝日が差し込む。

畳で寝たせいで、起き上がると背中が痛む。


「いってぇ〜…」

背を伸ばしながら四つん這いのまま頭を上げると、(つむぎ)はまだ布団の中で静かに眠っているようだった。


そのまま立ち上がり、ベッドの上の紬を覗き込む。

顔色は良くなっている。


玲衣(れい)はそっと襖を閉めると、手首のゴムで髪を後ろにまとめながら台所に立ち、電気ポットのスイッチを入れる。


家族が起きたら、紬のこと、何て言えばいいんだろう……。


湯気が静かに立ちのぼる。



その後、家の中に静けさが戻っても、昼前になっても、紬はまだ眠り続けていた。結局、朝の慌ただしさで、母や姉に紬のことを話すタイミングは見つけられなかった。


「……紬」

玲衣はベッドの端に腰を下ろす。

「…お前、家ん中あんなにうるさかったのに、よく寝てられるな?」


玲衣はふっと笑いながら、紬の額を撫でようと手を伸ばす。けれど、触れる寸前で躊躇して、そのまま手を下ろした。


「……俺、ずっと待ってるから。ずっとここに居ていいし。別に、何があったかとか、話さなくていいからさ」


少しの沈黙のあと、玲衣は小さく息を吸う。

「早く……また、いつもみたく話そう。俺、紬のこと……好きだからさ」


昨夜触れた紬の頬の冷たさがまだ指先に残っている。

その冷たさが、死を選ぼうとした幼馴染の後ろ姿を思い起こさせる。

あのまま紬がいなくなっていたら、自分は今度こそ本当におかしくなってしまう。


玲衣はあえて襖を開け放したまま、朝の支度で散らかったままの食卓を片付けはじめた。



「ちょっとお母さーん!?玲衣の奴、黙って友達連れ込んでるんだけど!」


「ちょっ、姉ちゃん、声デカいんだよ!」

「しかもコイツ、帰ったら私の布団で寝てたんだよ、信じらんない!」


……紬は、浮腫んだ瞼を半分開く。


「ちょっと色々あって…具合悪いんだよ、母さん頼むよ。」


「だったら尚更、あんたの部屋なんかに泊めてたら駄目でしょうよ」


すぐ頭上で話しているかのように響く声を、紬は表情を変えずにただ聞いている。


――ああ……また、玲衣に迷惑かけてる。


それでも、身体を起こそうとも思わない。

分かってる。

こんな自分勝手な態度を謝らないといけない。

感謝してるって言わないといけない。

早く出て行かないといけない。……でも、どこへ?


何も考えたくない。


毛布を頭から被る。

ただ眠っていたい。


惨めな自分、汚れた自分、死にたい自分……。

起きたら、全部消えてなくなっていればいいのに。


「……っとにかく、少しの間だけだから!二人とも、勝手に開けるなよ!」


玲衣の声がして、襖が静かに閉まる。

気まずそうな顔で部屋に入ってきた玲衣が、折りたたみの小さな机の上にお盆を置いた。


「……ごめんな?うるさくて」


麦茶の入ったコップと、湯気を立てる卵がゆ。


「……昼飯、手付けてなかったろ?

 お粥作ったから、少しでも食べないか?」


返事はない。


「………俺は、バイト行ってくるから。ゆっくり休んでろ。」

玲衣は上着を掴むと、立ち上がり、背を向けた。


静けさが戻る。

紬は身体の向きを変えると、毛布の隙間から、玲衣が用意したお粥を黙って見つめる。湯気がまだかすかに立ちのぼっている。

食欲は無いはずなのに、その温かさに、やっぱり触れてみたくて。ためらいながらそっと手を伸ばした。



その日は海沿いの道を歩くことにした。

潮の匂いが風に混じり、玲衣の金色に染めた髪を揺らす。

紬はジャケットのフードを深く被り、俯いたまま歩いていた。


「体、大丈夫か?五日も寝てたんだからキツいだろ」

玲衣は悪戯っぽく笑いかける。


「………」


「でもさ、陽に当たって、外の空気吸うのっていいんだって。俺も外に出られない時期があったから、なんか分かるんだよな」


玲衣は砂浜に下りると、波打ち際で靴先を軽く蹴った。

しぶきが白く散る。


「……迷惑かけて、ごめん」

紬の声は掠れて小さい。


「あと、俺、もう……大学行けない」


穏やかに寄せる波音と、遠くの海鳥の声だけが、二人のあいだを静かに繋いでいる。

玲衣はそれが覆せない事実だと分かる。


「………じゃあ、俺も行かない」


別に、何か大学でしか叶えられないような夢があるわけじゃない。ただ、周りの奴らが普通に行くから流されているだけだ。だから――俺は紬の側にいてやりたい。


紬は苦悶に満ちた顔で瞼を閉じる。


「………何でだよ」

「そんなの、俺のせいにするなっ!」


玲衣は紬の方へ振り返る。驚きの余り言葉が出ない。

紬が声を張り上げる姿なんて、一度も想像したことがなかった。


「俺のせいで玲衣が諦めるなんて嫌だ……。俺を、ただの足手纏いにしないでよ!」


玲衣の目が見開く。

その叫びが波の音とともに、何度も耳に戻ってくる。

紬の被っていたフードが落ち、肩で息をしているのが映る。


ショックで言葉を失ったまま、頭が真っ白で……。


――いや、でも………そうかもしれない。


黒板に晒された、顔の塗り潰された写真が鮮やかに蘇る。


守っているつもりだった。

でも実際は、俺の方が紬に寄り掛かっていたんだ。

あのとき、黒板を眺めていた俺は、本当は優しくされたかった。誰かに俺の気持ちをわかってほしかった。

「あいつ」を追い込んだのは俺じゃないって慰めてほしかった。


足元の砂が波にさらわれ、靴の裏が沈む。

心の奥まで空気が抜けていくように、何も言えなくなる。


呆然と立ち尽くす玲衣の様子に、紬はハッとしたように駆け寄り、玲衣の両腕を掴んで揺らす。

「ごめん、そんなつもりじゃなくて…」


「玲衣に将来のこと、絶対諦めて欲しくなかったから…つい熱くなって、あんな言い方して…。」


玲衣はゆっくり首を横に振る。

――違う、悪いのは俺だ。


ずっと、誰かに必要とされたかった。

役に立つことでしか自分の価値を見つけられなくて、紬が俺を頼る程、俺自身が救われた気がしていた。


紬を助けたい気持ちは確かに本物だ。


でも、そんなことで満たされていく歪な自分に…気付かない振りをした。


本当は、たとえ隣に自分がいなくても、遠くからでも幸せを願えるくらいの人間でいるべきなんだ。


分かっているのに。

喉まで上がった言葉を、もう一度のみ込む。

それでも…


「……紬と、一緒にいたい」


震える声。

それがすべてだった。


紬の顔はすぐ近くで、呆気に取られたような瞳で玲衣を見上げている。


紬は、少し間を置くと、やがて口元を押さえて困ったように笑う。

「何、それ…」


「約束は?……二人暮らし、するんでしょう?」


紬の声が暖かい。玲衣の心の内なんて知らずに無垢な笑みを向けてくれる。自分だって痛いはずなのに。


涙が溢れて頬を伝う。


結局、紬を慰めるつもりが、いつも自分の方が救われてる。



年の瀬、


鍋の湯気がゆらゆらと立ちのぼり、その向こうで紬が小さく笑った。

いつもより少し豪華な具材が並び、部屋には出汁の良い香りが満ちている。


最初こそ緊張して、箸を持つ手もぎこちなかった。

けれど、賑やかな会話と笑い声に包まれて、温かいごはんを口に運ぶうちに、肩の力が少しずつ抜けていく。


相変わらず、玲衣と姉は子どものように言い合いをしていたし、玲衣の母と姉は紬のことを「つむちゃん」と呼び、「ガサツな玲衣とは違って、いい子だから」と笑う。

玲衣の母と姉の笑い声、こたつの中のぬくもり、箸が触れ合う音――どれも優しい生活の音だった。


鍋の食材を追加しに立っていた玲衣が戻ってきて、紬の隣に腰を下ろす。


紬の横顔に笑みが灯る。

あの海辺で交わした言葉の続きは、もう口にする必要なんてない。


玲衣はそっと目を伏せた。

紬が自分らしく笑っていて、今、俺が隣にいることができる。

それで充分なんだから――そう思いながらも、胸の奥に残ったままの傷がかすかに痛んだ。

この穏やかさの中で、自分だけがまだ償いの途中にいるような気がして。


それでも、紬の笑顔が目の前にある限り、今日だけはそれを忘れていたいと思った。

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