表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界  作者: 萌千兎さら
10/12

10. 献身

バイト上がり、玲衣(れい)は駅前の駐輪場まで来るとスマホを取り出す。


(つむぎ)…今日は連絡ないな。


メッセージを打とうとする指が、途中で止まる。

しつこい奴だと思われたくない。

………まぁ…そんな日もあるよな。


白い蛍光灯がかすかに音を立てながら瞬いている。


玲衣はスマホをポケットに押し込み、自転車のスタンドを蹴る。冷たい夜風が頬を刺す。


……自分でもどうかしてると思う。

紬に会えるわけじゃない。

それでも、少しでも繋がりを感じていたい、とか。

そんな理由で、冬休みにバイトを始めてから毎晩のように、二人で約束したあの公園に立ち寄っていた。

玲衣は、颯爽と帰る家とは反対の方向へハンドルを切った。




真っ暗な公園のベンチに人影を見つけると、玲衣は音を立てないよう自転車を止め、様子を伺うようにゆっくりと近づく。


「――紬…!」

遠くから聞こえるその声に、紬の瞳が僅かに揺れる。


駆け寄りながら紬の名前を呼びかける。

でも何故か、嬉しさよりも急速に不安が募る。


紬の様子がおかしい。


紬は言葉を発すること無く、虚な瞳でただ前方の暗闇を力無く見つめている。

「おい、どうした?何かあったのか?」

玲衣は紬の肩に両手を掛けると軽く揺する。

どれくらいここに居たのだろうか。

「紬、大丈夫か?」

何度呼び掛けても紬は応えない。玲衣は、ジャケットのフードに隠れた紬の頬に手を触れる。

「こんな冷たくなってるじゃないか、馬鹿!……何してんだよ…。」

温めるように手のひらで包み込む。光の失われた目に、玲衣の姿は映らない。

頬に触れる手指は体温が奪われて、すぐに冷たさに染まってしまう。


紬の息の隙間に掠れ声が漏れる。


「もう………放って、…いて」

紬は色の映らない瞳で、ただ目の前を見つめている。


「…………嫌だ。」

玲衣は眉を吊り上げて短く言うと、紬の隣に腰を下ろす。

冷たいベンチの上に投げ出された手を、膝の上に戻してやる。玲衣は立ち上がり、自分のマフラーを紬の首に巻き、ポケットに入れていた手袋を冷えた細い手にはめてやる。


それから…沈黙のまま、ただ座り続けた。


途中、玲衣が紬に身を寄せる。

少しでも紬が寒くないように。


どれくらいの時間が経っただろう。

じっと俯いていた顔を上げ、公園の時計を目で探すと、すでに午前零時を過ぎていた。


――ここに来たの、何時だっけ……。


不意に身体が震え出し両腕で温めるように体を抱える。

思考が鈍り、寒さに身体の芯から凍えていくのがわかる。


……やばい…、このままいたら…マジでやばいかも。


紬の方を見ると、小さく息を吐く唇が震えているように見えた。


「………おい、紬」

玲衣は紬の肩を揺すり、力一杯腕を掴んで立ち上がらせると、ふらつく紬の前に背を向けて屈んでみせた。

「掴まれ、ほら……早く!」


終電の時間は過ぎている。

玲衣は紬を背負い、自分の家を目指すことにした。歩くには遠い距離だけど、仕方ない。

自転車は…明日にでも取りに戻ればいい。


紬を背負って歩き出す瞬間、足がよろけた。

――こんなに細いのに、ちゃんと重いんだな…。


街灯の少ない夜道を、一歩、一歩進んでいく。

汗が額から落ちる。

冬の冷気で手足が痺れるのに、背中だけが熱い。


「…紬、俺、運動部じゃないんだぞ……」

途中、何度も紬に声を掛ける。このまま紬が動かなくなると思うと怖かった。


一時間近く歩いただろうか。やっとのことで団地街に辿り着くと、自宅のある棟の前に立つ。


――いや、無理だろ……。


部屋は最上階の五階だった。


玲衣は覚悟を決めて、背中に体温を感じたまま、疲れで足がもたつきそうになるのを堪え、根性で階段を一歩ずつ上がる。


玄関をそっと閉めた時、時計の針は午前二時前を指していた。家の中は闇に沈み、母も姉も眠り込んでいる。

襖一枚で仕切られただけの空間を押し込めたような間取り。自室へ行くには姉の部屋を横切らなければならなかった。

背に負った紬の重みを感じながら、足元を確かめるように畳の上を一歩ずつ進む。衣擦れの音さえ大きく響く気がして、姉が目を覚さないか心配で心臓が喉まで競り上がった。


自室の襖を開け、ベッドへ紬をそっと降ろす。

「ほら、上着邪魔だろ」

小声でそう言いながらジャケットを脱がせ、半分床に落ちていた掛け布団を元に戻す。

返事はない。紬の目は虚ろなままで、まるで息をしたまま死んでいるみたいだ。


台所で水を汲み、自分の喉を潤してから紬のもとへ戻る。

「ちょっとだけでも飲め」

コップを差し出すと、紬はかすかに指を動かし、一口だけ水を口に含んだ。

それ以上は拒むように顔を横にして、また目を閉じる。


玲衣は安堵と疲労に包まれながら、畳の上に散乱する物を足で退けると身体を横たえた。

視線の端に紬の輪郭が映る。敢えて背を向けるように体を反転させ、ひざ掛けをかぶって目を閉じた。


ベッドの上の紬は、暗闇の中で玲衣の背を見つめていた。

その背中はすぐ手の届く距離にあるのに。


視界がかすみ、やがて重い瞼がゆっくりと閉じていく。

冷たい夜に、二人の呼吸だけが静かに重なっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ