10. 献身
バイト上がり、玲衣は駅前の駐輪場まで来るとスマホを取り出す。
紬…今日は連絡ないな。
メッセージを打とうとする指が、途中で止まる。
しつこい奴だと思われたくない。
………まぁ…そんな日もあるよな。
白い蛍光灯がかすかに音を立てながら瞬いている。
玲衣はスマホをポケットに押し込み、自転車のスタンドを蹴る。冷たい夜風が頬を刺す。
……自分でもどうかしてると思う。
紬に会えるわけじゃない。
それでも、少しでも繋がりを感じていたい、とか。
そんな理由で、冬休みにバイトを始めてから毎晩のように、二人で約束したあの公園に立ち寄っていた。
玲衣は、颯爽と帰る家とは反対の方向へハンドルを切った。
…
真っ暗な公園のベンチに人影を見つけると、玲衣は音を立てないよう自転車を止め、様子を伺うようにゆっくりと近づく。
「――紬…!」
遠くから聞こえるその声に、紬の瞳が僅かに揺れる。
駆け寄りながら紬の名前を呼びかける。
でも何故か、嬉しさよりも急速に不安が募る。
紬の様子がおかしい。
紬は言葉を発すること無く、虚な瞳でただ前方の暗闇を力無く見つめている。
「おい、どうした?何かあったのか?」
玲衣は紬の肩に両手を掛けると軽く揺する。
どれくらいここに居たのだろうか。
「紬、大丈夫か?」
何度呼び掛けても紬は応えない。玲衣は、ジャケットのフードに隠れた紬の頬に手を触れる。
「こんな冷たくなってるじゃないか、馬鹿!……何してんだよ…。」
温めるように手のひらで包み込む。光の失われた目に、玲衣の姿は映らない。
頬に触れる手指は体温が奪われて、すぐに冷たさに染まってしまう。
紬の息の隙間に掠れ声が漏れる。
「もう………放って、…いて」
紬は色の映らない瞳で、ただ目の前を見つめている。
「…………嫌だ。」
玲衣は眉を吊り上げて短く言うと、紬の隣に腰を下ろす。
冷たいベンチの上に投げ出された手を、膝の上に戻してやる。玲衣は立ち上がり、自分のマフラーを紬の首に巻き、ポケットに入れていた手袋を冷えた細い手にはめてやる。
それから…沈黙のまま、ただ座り続けた。
途中、玲衣が紬に身を寄せる。
少しでも紬が寒くないように。
どれくらいの時間が経っただろう。
じっと俯いていた顔を上げ、公園の時計を目で探すと、すでに午前零時を過ぎていた。
――ここに来たの、何時だっけ……。
不意に身体が震え出し両腕で温めるように体を抱える。
思考が鈍り、寒さに身体の芯から凍えていくのがわかる。
……やばい…、このままいたら…マジでやばいかも。
紬の方を見ると、小さく息を吐く唇が震えているように見えた。
「………おい、紬」
玲衣は紬の肩を揺すり、力一杯腕を掴んで立ち上がらせると、ふらつく紬の前に背を向けて屈んでみせた。
「掴まれ、ほら……早く!」
終電の時間は過ぎている。
玲衣は紬を背負い、自分の家を目指すことにした。歩くには遠い距離だけど、仕方ない。
自転車は…明日にでも取りに戻ればいい。
紬を背負って歩き出す瞬間、足がよろけた。
――こんなに細いのに、ちゃんと重いんだな…。
街灯の少ない夜道を、一歩、一歩進んでいく。
汗が額から落ちる。
冬の冷気で手足が痺れるのに、背中だけが熱い。
「…紬、俺、運動部じゃないんだぞ……」
途中、何度も紬に声を掛ける。このまま紬が動かなくなると思うと怖かった。
一時間近く歩いただろうか。やっとのことで団地街に辿り着くと、自宅のある棟の前に立つ。
――いや、無理だろ……。
部屋は最上階の五階だった。
玲衣は覚悟を決めて、背中に体温を感じたまま、疲れで足がもたつきそうになるのを堪え、根性で階段を一歩ずつ上がる。
…
玄関をそっと閉めた時、時計の針は午前二時前を指していた。家の中は闇に沈み、母も姉も眠り込んでいる。
襖一枚で仕切られただけの空間を押し込めたような間取り。自室へ行くには姉の部屋を横切らなければならなかった。
背に負った紬の重みを感じながら、足元を確かめるように畳の上を一歩ずつ進む。衣擦れの音さえ大きく響く気がして、姉が目を覚さないか心配で心臓が喉まで競り上がった。
自室の襖を開け、ベッドへ紬をそっと降ろす。
「ほら、上着邪魔だろ」
小声でそう言いながらジャケットを脱がせ、半分床に落ちていた掛け布団を元に戻す。
返事はない。紬の目は虚ろなままで、まるで息をしたまま死んでいるみたいだ。
台所で水を汲み、自分の喉を潤してから紬のもとへ戻る。
「ちょっとだけでも飲め」
コップを差し出すと、紬はかすかに指を動かし、一口だけ水を口に含んだ。
それ以上は拒むように顔を横にして、また目を閉じる。
玲衣は安堵と疲労に包まれながら、畳の上に散乱する物を足で退けると身体を横たえた。
視線の端に紬の輪郭が映る。敢えて背を向けるように体を反転させ、ひざ掛けをかぶって目を閉じた。
ベッドの上の紬は、暗闇の中で玲衣の背を見つめていた。
その背中はすぐ手の届く距離にあるのに。
視界がかすみ、やがて重い瞼がゆっくりと閉じていく。
冷たい夜に、二人の呼吸だけが静かに重なっていた。




