01. 初夏
高校2年の季節が夏に向かい始めた頃。
その日は、今のクラスで初めての席替えとあって教室はざわついていた。
訳ありで転校してきたばかりの玲衣はまだクラスに馴染めていない……というよりもあえて壁を作っていた。
髪を金髪にし、だらしなくシャツの襟元を開けて、自分から愛想よく話しかけるのはやめた。
だから、誰が隣になろうとどうでもいい――そんな冷めた目でただ窓の外の木陰が揺れるのを眺めていた。
それなのに何気なく隣の席に目をやると思わず息を飲んだ。
ひと目でタイプだって思った。
陽の光に浮かぶ整った横顔。伏せ目がちで長い睫毛に前髪が掛かり揺れている。肌は白く儚げでどこか影を感じる。
――相馬……だっけ。
ほとんど声を聞いたことないくらい地味な奴。そんな印象しかなかったのに。
視線に気付いた横顔がこちらを見た。
「あ、よろしく」
玲衣の声が少し上擦る。
相馬は言葉を発する代わりに、はにかみながら玲衣に小さく微笑んで見せた。
……可愛い、ついそう思ってしまった。
その日は授業が始まってからも相馬の姿を横目で追っていた。
細い体、姿勢を崩さずノートを取る横顔。
教師のくだらない冗談に教室がざわめいたときも、相馬の周りだけ空気を切り取ったみたいに静かだった。
相馬 紬、
その日から、何をしていても相馬のことが頭をよぎる。
相馬だったらどう考えるんだろう、自分はその目の端にでもいいから存在しているのだろうか、とか。
視線はいつもその姿を探していた。
紬はいつも一人だった。昼休みは複数個入りのパンをひとつかふたつ口に運ぶと、周囲を隔てるように机に突っ伏して腕の中に顔を沈めている。
体育では見学ばかりだし、体格もとにかく華奢だった。
「相馬って、体弱いの?」
体育の授業中、気になってに隣の奴らにさりげなく聞いてみたことがあったが、違和感は膨れ上がるばかりだった。
「さあな。暗いよな、ちょっと気味悪いっていうか」
「でも家はデカいんだろ。親父が社長で金持ちらしい」
最初は――横顔が綺麗だと思っただけだった。
けれど今は、食べないことも俯いたときの影も、自分の胸の中を支配して離れない。
その日の移動教室のとき、廊下にひとり歩く相馬の背を見つけた玲衣は咄嗟に横に並ぶ。
頭より足が勝手に動いて、話題なんて用意してない。
何か気の利いたこと言わなければと、焦って出た言葉が最悪だった。
「相馬って、いつもひとりだよな」
相馬は視線を下に逸らし、唇をかすかに動かした。
言葉は出てこない。
――何言ってんだよ、俺…!
玲衣が凍った空気を変えようと言葉を探している内に教室はすぐ目の前で、そのまま相馬はひとり後ろの方で空いている席に着席した。
やばい。
もしかして嫌な奴認定されたかもしれない。
昼休み、玲衣は先程の失敗を挽回しなければここで終わる、そんな焦りの中でなりふり構わず紬に声をかけた。
「あ、あのさ…。昼飯、一緒に食わない?」
相馬は黙って玲衣の胸あたりを見ていて、一瞬の間が異常に長く感じる。
「いや、さっきもだけど、たまたま相馬が目に入ったっていうか。
俺、いつも飯はひとりだけどさっきの小テストが最悪でさ、何となく誰かと話したい気分……だなぁとか」
相馬は口に手を当て小さく笑った。
それから少し困ったように頷いてみせた。
玲衣はいつもの屋上に続く階段に腰を下ろし弁当箱を取り出した。
相馬も少し間を空けて玲衣の隣に座る。
「相馬は俺のこと知ってるよな?」
クラスメイトなのにこんなことを尋ねるのはおかしいけど。
「近衛君……」
相馬がぽつりとつぶやく。
「玲衣でいいよ。」
「俺も紬って呼んでいい?」
紬の瞳が揺れて、それからこくりと頷いた。
玲衣は弁当箱を開ける。
「俺が作ってんだぜ、意外だろ?」
紬にチラッと中を見せながら得意げな笑顔を向ける。白いごはんに卵焼きとウインナー、ブロッコリーにミニトマト。
「うちは片親で母さん忙しくてさ。姉ちゃんの分も作ってるんだ」
「食べる?」
玲衣は爪楊枝に刺した卵焼きを差し出す。
紬は差し出されるまま、爪楊枝を指でつまむと落とさないように口に入れる。
「美味しい……」
その反応が胸をくすぐり、もっと紬を知りたくなる。
「紬は、それだけで足りるの?」
紬の手の中のいつものパンを指して玲衣が尋ねる。
「今日は、気分悪くて。」
今日だけじゃない。紬がいつもたったそれだけで済ませているのを知っている。
「なぁ、明日も一緒に食わない?」
紬は驚いたように玲衣を見る。
「教室は騒がしいじゃん?気疲れするっていうか。
…何というか、自分の場所じゃないみたいな。」
紬はパンを持つ手元を見つめながら静かに聞いている。
「だから紬もここで好きなことしてさ、一緒に羽伸ばさないか?」
紬なら分かってくれそうな気がして笑顔を向ける。
「……俺なんかで」
紬は言葉を切って、それからそっと玲衣の胸の辺りへ視線を逃した。
次の日。
「紬、行こう」
昼休みを告げるチャイムが鳴った瞬間、玲衣は隣の席の紬に声を掛けた。
まさか本当にまた声を掛けられるとは思わなかったのか、紬は慌てた様子で筆記具をペンケースにしまうと、鞄を抱えて玲衣の後を追った。
階段の踊り場に腰を下ろすと、玲衣が弁当箱を広げているところだった。おにぎりをいくつも取り出し、おかずの入った二段式の大きな弁当箱が、まるで子どもの頃の運動会みたいだ。
「いただきます!」
胡座を組み、手を合わせてぱっと笑う。
紬はただ唖然と見ていた。
「ほら、食えよ。俺たち育ち盛りなんだぞ」
玲衣はそう言って、紬の背中を軽く叩いた。
「昨日、晩飯に唐揚げ大量に作ってさ」
ふわりと漂う油の香ばしい匂いに、紬の胃が小さく鳴るり思わず腹に手を当てた。
「ごめん……俺、今日何も持ってきてない」
顔を赤らめ小声で言う紬。
玲衣は箸を二膳取り出し、当たり前みたいに差し出した。
「いいよ。一緒に食おう」
促されるまま箸を手に取る。
戸惑いの残る表情で視線はまだ玲衣を捉えている。
それから玲衣が食べ始めるのを確認すると、紬は一口、二口。やがて黙々と唐揚げに手を伸ばしていた。
その様子を玲衣は黙って見つめながら尋ねる。
「美味い?」
紬は手を止めて口の中のものを飲み込むと、小さく頷いた。
髪に隠れてその表情はよく見えない。
けれど、紬が淡々と食べ物を頬張り、飲み込むたびに、胸の奥の渇きが静かに満たされていく――そんな錯覚に酔った。
小さな窓から差す屋上の熱が、じっとりと肌に馴染む。
「今日は俺も結構食ったから、午後の授業絶対寝るわ」
「そしたら、俺が起こすよ」
紬がちらりと目を傾けて微笑んだ。
はじめての紬との何気ないやりとりに玲衣の胸は高鳴る。
紬のことを、もっと知りたい。もっと一緒にいたい。
「そういえばさ。あとで数字の宿題教えてくんない?」
「弁当の代わりにさ」
冗談ぽく笑ってみせる。
紬が隣で玲衣の顔を見上げる。
それから照れながら、でも少し嬉しそうに紬は小さく頷いた。




