エピローグ
ハイジは、決して嘘は言っていない。
しかし、すべてを明らかにもしていなかった。
「──何か報告することは?」
公爵家が嫡男、クリストフ・レンゲフェルトが仕事をしつつ淡々とした口調で問うのに、ハイジは「へへへ」と照れ笑いをする。
さらに彼はクリストフの放つ威圧的な雰囲気など意にも介さず、両手をバッと上へと開いて全身で喜びを表した。
「仲直りでっきましたー!」
公爵邸広しといえど、クリストフにここまでの傍若無人な態度をとることができる使用人はそういない。
普通の護衛なら即、解雇。
なんなら懲罰も科されてもおかしくない。
「うるさい。知ってる」
クリストフの血のように赤い瞳が不愉快そうに細められ、ハイジの大声から逃げるように細い首がわずかに傾いた。
しかし、ただそれだけ。
ハイジは『うるさい』の一言で許された。
しかもハイジはそれに「えーだって、クリス様が報告しろって言ったじゃないですかぁ……」などと文句をこぼした。
それにもクリストフは怒るどころか、手元の書類にサラサラとペンを走らせるのを止めることもない。この気安いやりとりは、彼らにとって日常茶飯事なのだ。
ある程度まで書き終わったクリストフが、ペンを止めた。その切先をハイジに向け睥睨するように瞼をゆるめる。見下すようなその視線は、未だ十を超えたばかりだというのに、貫禄と威圧感たっぷりである。
「それで、婚約は? 結婚の時期を決めたらすぐに報告しろ」
まあしかし、ハイジにはたいして響かないのだが。
ちなみにハイジはレオナとのアレコレを全て、“厳しい上司”であるクリストフに報告していた。
今回の騒動中、レオナに会いにゆけぬハイジが『レオと早く結婚したいぃ』と、視察先でメソメソと泣き言を漏らすのだって、鬱陶しそうな顔をしつつもクリストフは聞いてやっていたのだ。
それゆえの『仲直りをしたというからには、婚約のひとつでも結んだんだろうな』とい圧なのであるが、ハイジは「えへへ」と再び少々気色の悪い笑みをこぼすのみ。
「いやぁ、まだ結婚まではねぇ。……だってほら、いろいろバレて引かれたら困るじゃないですか~?」
「ああ。フェードル伯爵邸は見事な建造物らしいな」
「維持するだけでもすっげぇ金食うって母親はボヤいてますよぉ」
「あれだけ貿易で儲けていれば問題ないだろう?」
「あぁー、まあ、今年も黒字みたいっすねぇ」
そう。実はハイジはおぼっちゃまなのである。
ハイジの実家は、それはもう巨大な屋敷を構える由緒正しき伯爵家だ。三階までの天井ブチ抜きの玄関ホールに、天井画は国宝指定もされている煌びやかな歴史的建造物。
『ボヤいてた』という母親が東国の姫君だったのも本当で、そもそもフェードル伯爵家は昔から、そんなお姫様を娶ることができるほどに財力や歴史のある家柄なのだ。
そのためハイジが貴族の子であると知っただけで逃げそうな気配を出していたレオナをいきなり実家に連れて行けば、フられる可能性があるとハイジは警戒しているのである。
「レオはとっても謙虚でチャーミングな子なんでぇ、貴族ゴリゴリな感じ見せたくないんですよねぇ」
「いつか爵位を継ぐのに?」
「あーそこはぁ、ちょっとごまかしちゃったんですよねぇ……」
ハイジの家には爵位が余っていた。しかも子爵位。
そしてこれはレンゲフェルト公爵家の意向もあり、ほぼ確定でハイジが相続することに決まっていた。嫡男であるクリストフの傍仕え兼護衛であるハイジに、爵位があった方が都合が良いためだ。
手元で遊ばせていた書類を机の端に寄せたクリストフが、ごくわずかに首をかしげる。
「同じ職場内で、いつまでも隠せるとは思えないけど」
「いやぁ、いつかは言いますよ?」
しかし、それは今ではない。
ハイジは彼女を囲い込むために、なりふりかまわないことに決めたのだ。
必要とあらば少しばかりの隠し事だって、そりゃ良心は痛むけれども……致し方ないことであるとハイジは思っていた。
「でもほら、とりあえず順調にお付き合いをしなければ、先もクソもないじゃないですか~?」
「そうやって“今”ばかりにかまけていた結果、彼女が『付き合ってない』なんて言ったんじゃないの?」
「ぐっ……そう言われると耳が痛いんですけどぉ」
「ハイジは誠実さが足りないと思う」
「えぇ~、でも嘘とか言わないですよぉ?」
「──じゃあ、ハイジが従僕、従者まがいのことをしているって、ちゃんと説明したの? ただの護衛って押し通して、仕事の話、ごまかしてるんじゃないの?」
グサグサと突き刺さる正論に、ハイジは耳をふさいでイヤイヤと首を振った。まるで子どもである。
「や、やめてぇ」
「話をやめても問題は解決しないと思うけど」
淡々と詰めるクリストフは、ハイジのことをじっと見つめている。
そう。ハイジの立場はただの護衛ではない。
好きな人ができてお付き合いするのにだって許可が必要な、特別な護衛なのだ。
実際、『好きな人ができちゃいました〜!』と浮かれ狂ったハイジの報告を受けてすぐ、レンゲフェルト家はレオナと彼女の実家の身辺調査を行っている。
ハイジはクリストフの従僕を兼ねており、レンゲフェルト公爵家の機密情報にも触れる権限を持っていた。そのうちにクリストフが家督を継げば、公爵家の実務的ナンバーワンである家令の後を継ぐ可能性すらあるのだ。ハイジに近づく人間は、当然精査されるべきなのである。
もちろんレオナは、何も知らされていないが。
「だってぇ、下っ端の護衛と思って俺のこと好きになってくれたんですよ~……」
「高位、高給取りであるというのは、一般的に歓迎されるものでは?」
「そーゆーのに引いちゃう女の子もいるんですってぇ。レオはそーゆータイプなんですよ~」
ハイジはそのまま流れるようにクリストフを拝むような姿勢をとると、顔を上げぬままで「あのぅ、どんくらいまで囲い込めば、相手も諦めてくれると思いますぅ?」と、年下相手に恋愛相談し始めた。
情けない護衛の頭頂部に、クリストフは呆れたようにため息をひとつ。
「どうとでもなるだろう?」
平民なんだから。
使用人なんだから。
そんな副音声が聞こえそうだ。
しかしこれは『ハイジが願うのであれば協力してやろう』という暗示、つまりクリストフなりの優しさの発露でもある。公爵家の使用人なのだから、当然ある程度の権限がクリストフにはある。
たとえば……突然クビになり路頭に迷っているレオナにハイジがプロポーズをする。または、問題を起こしたとして責め立てられるレオナをかばい、ハイジが婚姻をすることでその潔白を担保する、などの卑怯で姑息な手法も、使えないことはないのだ。
長年一緒に過ごしているハイジはそれもしっかりと汲み取って、ちらりと主を見た。
「いや~、ありがとうございますなんですけどぉ、でも個人的にレオには自分から腕の中に入って欲しいっていうか~」
「ちっ」
「クリス様にはわからないかもしれませんけどぉ、レオは繊細な普通の女の子なんですよ〜」
「やっぱり大人の恋愛って難しいんですよ~」「でもそこがいいっていうかぁ」などと、聞いてきたくせにうじうじ言うので、クリストフは大変面倒くさそうな渋面になる。
そしてクリストフはハァと特大のため息をついて体を気だるげに傾かせると、ひとつ、ふたつ、みっつ、と指を立ててみせた。
「逢引きに使用する東屋周辺の人払い。職務中の度重なる私的目的の休憩取得。料理長への圧力」
「うっ」
「メイドにバレたら厄介事になるとか言っておいて、男の影を察知したら屋敷の周辺でわざと逢引きをして姿を見せつけて? 無理やり交際を暴露して周囲をけん制? ふぅん。それが大人のやり方なわけ?」
「ううっ」
「あげくの果てには羽虫を追い払うために副料理長にまで協力させて『最悪あんなのいなくてもいいっすよねぇ?』なんてことを言いだす部下の横暴に、僕はずいぶん寛容な雇用主だと思うけど。何か文句が……?」
「いやほんと、たっくさんご協力いただいて感謝しかないっすねー!」
手のひらをくるっと返して「理解ある上司に恵まれて幸せでッス!」と歯を見せて笑うハイジに溜飲を下げたのだろう。クリストフは無表情に戻った。
「贅沢を言わず、やれることを早くやったら」
「いやぁ、でも、だってぇ。嫌われたら元も子もないじゃないですか~?」
「誰かに盗られたらもっと意味ないと思うけど?」
「そんな時は物理的にどうにかしちゃうんでぇ」
ひょろりとした体でゆるいパンチをしてみせるハイジだが、その物理にどれだけの威力があるのかを、クリストフはよく知っていた。
「……ハイジって、めんどくさいよね」
「え〜? ゆっくり待つ気ではいるんですけどねぇ。レオ可愛いんでぇ、心配はもちろんありますけどね〜」
なんだかんだ言いつつ、ハイジはレオナを逃がす気はない。
そして自主的に自分のところに転がり込んでくるまで粘り強く待つ気でいるらしいが、それまでずっとこの調子で騒がれてはクリストフの方が叶わない。恋に浮かれた男はうるさいのだ。
クリストフは話を断ち切るように立ち上がった。
「──そういえば。料理長は『欠員補充があれば構わない』と。どうする?」
これはハイジがお願いしていた、害虫駆除についての話題だった。あくまで穏便にということで、数人の厨房使用人たちはレンゲフェルト公爵家と縁戚の貴族家へと修行に出されることに決まった。修行といっても、戻る目処は立たない修行となるのだが。
「おー! じゃあお願いしていいですか? いやあ、ありがたいっすねぇ。補充はうちの実家から融通できそうなんで~」
「ハイジの実家の料理人なら、東国の料理も作れるんだろう?」
「ええ、まあ。たぶん」
「おねえさまが喜ぶな」
本日、クリストフの初微笑みである。
その甘やかな表情が向けられるのは屋敷の中でただ一人、彼の溺愛する義姉にだけ。
そして噂をすれば影、である。
「クリス! あら、ハイジもいるのね。お話し中? お邪魔だったかしら?」
ハイジは来客のタイミングの良さに拍手しそうになった。
やってきたのは公爵家の養女であり、クリストフの溺愛する義姉のシャルロッテだ。
純粋な好奇心をその瞳に滲ませて「何を話していたの?」と問うてくる彼女に、ハイジは思わず笑みをひきつらせた。シャルロッテは何も知らない。恋愛関係で彼女を刺激すると、多方面で面倒臭そうなのでハイジは避けたいなと思っているのだが……。
「いやぁ、その──」
「ハイジの家から、料理人を引き抜こうかと思いまして。おねえさま、東国の料理がお好きでしょう?」
「えっ、クリス、それ本当⁈ うれしい!」
「おねえさまが嬉しいなら、僕も嬉しいです」
「色々食べたいものがあるのよ〜!」
喜ぶ彼女の声、興味、関心がクリストフに向いたことを察知したハイジは、気配を消して後ろに下がった。話題を掘り返されてはたまらないと、うっすらと笑みを張り付けてじりじりと壁際へと避難を完了する。
二人は東国の料理について盛り上がっており、シャルロッテがクリストフに「茶碗蒸しっていってね、卵のね」と自分が食べたい料理を一生懸命説明していた。どうやら大丈夫そうだと、少しだけ気を緩めてそんな二人を見守る体制をとる。
そうしてちょっぴり暇になったハイジの脳裏に浮かぶのは、昨夜のレオナとの逢瀬。
ああ、そういえば人払い忘れてたな、なんてことも思い出しながら、ハイジは愛しい恋人との時間を思い出すのだった──。
*
「指輪を贈りたいって言ったら、困る?」
「……困る」
ハイジの手の中にある小さな顔。
困ると言いながら、嬉しさの隠しきれていない彼女の素直さが愛おしかった。
そして少しだけ沈黙して「だって、付けられないから」と続く、彼女のか細い声にハイジは天にも昇る気持ちになる。
プロポーズは、まだだ。
婚約も、まだ早すぎるだろう。
それでも見つめ合う二人の間には『いつかは』という気持ちがつながっていた。
「そっか、俺も指はダメだ~。一緒にお店で探そっかぁ」
「うん」
結婚の約束を示す指輪の代わりに、何を贈ろうか。
考えながら、無意識にハイジは再びレオナの顔に唇を寄せていた。
そうして影は重なり、日が暮れるまでくっついたり離れたりを繰り返し、あっという間に屋敷中の人間の知るところとなるのだが……幸せに酔いしれるハイジもレオナも、まだそれは知らないのであった。
そして後々の話。
ハイジは年上としてたっぷりと溜め込んだ貯金をぶん回して「レオ、お店持ちたい〜? やっちゃう〜?」と軽い調子で公爵領の一等地を買い上げ、レオナはチョコレート専門店を営むことになる。
同時期に爵位を継いだハイジのせいで子爵夫人の肩書きもついてきてしまい、かつての勤め先であるレンゲフェルト公爵夫人の数少ないお友達になったり、その関係で王妃様から大層気に入られたりしたこともあって、レオナはショコラティエとしても地位を確立してゆくのだが──それはまた、別のお話。