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翌日に憂鬱な気持ちで出勤したレオナを待っていたのは、拍子抜けするほどにいつも通りの日常だった。
特に誰からも何も言われず、昨日怒鳴り散らしていた副料理長もツーンとした顔で何も言わない。本当に、いつもの通り。
──私は夢でも見ていたのだろうか。
そんなことを思ってしまうほど。
絡んできた先輩たちは謝ってもこないが、特に何もなかったかのように接してくる。そしてダントン本人も何も聞いていないらしく、相変わらず「おい、化粧してこいって言ってるだろ」などと意味不明な絡みをしてきたが……ただ、それだけだ。
レオナはついに耐え切れず、ユナと横並びになるように狙ってこっそり声をかけた。
「ねえ、昨日のゴタゴタって……」
「あー、私が余計なことを言ったせいで、嫌な思いさせてごめんね」
「べつに謝らなくたっていいけどさ。あの後どうなったん?」
「私たち、副料理長にしこたま怒られたわ。『遊びだろうが真剣交際だろうが、お貴族様のやることにくちばし突っ込むな!』ですって! ていうか、やっぱりハイジ様だと思うわよ。キッチンメイドと最近仲が良いから『自分のせいで嫌な思いをさせないでくれ』ってお願いにきたんだって! 誰とは言われなかったけど〜とは言ってたけどさぁ、そんなんアンタしかいないわよね!」
レオナは驚きに固まった。
──いつ? どうして? 何も言わなかったのに!
「昔は公爵邸は超貴族主義で、平民は本当にヘマをしたら命も危ないくらいだったんだって。副料理長はその時代のこともあって『もしも嫡男様の反感を買うようなことがあれば、お前らはゴミから生ゴミに格下げだ。厨房に生ゴミがいらないのは分かるよな?!』って! 超怖かった!!」
ハイジ様は嫡男のクリストフ様付き、と以前ユナが言っていたのは聞いた。しかしハイジの反感が嫡男様の怒りを呼ぶのだろうか。そんなに重要な立場にハイジがいるとは、やはりレオナは信じられなかった。
「ていうか、ちゃんと愛されてるわね! よかったわ!」
大混乱で止まっているレオナを置き去りに、言いたいことを言い切ったユナは忙しそうに離れて行ってしまった。実際厨房は戦場のように忙しいので、正気を取り戻したレオナもすぐに動き始める。
しかしユナの最後の言葉に熱くなった頬だけは、なかなか冷めてくれないのだった。
*
「レオ~、おやつちょーだい!」
「ハイジ。なんでいっつも腹ペコなん。ちゃんとご飯食べとる?」
「食べてるよぉ。キッチンのみなさんには、いつもお世話になってますぅ」
そしてハイジは相も変わらず、腹をすかせてはレオナの下へやってきた。
二人で腹を満たして、たまにキスをして、わけもわからずポーっとなったレオナは気づけば寮の部屋に戻っていることが多い。これはどんな関係なのだろうと思うが、彼がどうやら『ハイジ様』らしいと分かった今、余計にそれを聞くことは躊躇われた。
貴族だからハイジのことを好きと、そんな風に思われたくないのもあった。
雲の上の人がどうしてレオナになんてかまっているのかは謎であるが、今現在、ハイジはとても優しい。とても心地よい関係だ。余計なことを口にすればこの関係は終わってしまうのかもしれないと思うと……レオナは何も言えなかった。
──聞かなければ、もう少しこのままでいられる
もしかしたら遊びなのかもしれない。
でもレオナははっきりと自覚してしまったのだ。
ハイジのことを好きだ、と。
ハイジは貴族なのに、それをレオナに教えてくれなかった。というかよく考えれば、レオナはハイジのことをまったく知らない。仕事内容も、故郷も、幼少期の話も、そういえば、上司の名前すら……何も教えてはくれない。やはり遊ばれているだけかもしれないと考えて、レオナは肩を落とした。
──でもそれなら。友達みたいになれば、ずっと一緒にいられるかも!
そんなことを考えて、キスを拒もうと手を差し込んでみたりもした。しかしその手にさえ、ちゅっちゅと音を立てて口づけをくれるのだ。くすぐったくて恥ずかしくて、でも嬉しくて、手をどければ口にそれが降ってくる。レオナは幸せに酔いしれた。
人生で初めての恋。
ずるずると溺れてしまうのも仕方あるまい。
気になることは聞けずとも『今のままで幸せなのだから』と、レオナは心の薄暗いものに蓋をするのだった。
*
想像してほしい。
仕事でクタクタで、空腹で、疲れていて甘いものが食べたい時。
こんな話を聞いたらどうなるか。
「ナイフを温めてからカットする、なめらかなクリーム色の断面は赤子の肌のようだ。口にすれば脳天まで広がるチーズの濃厚なコクと、ふわっと香るレモンの果汁が後口をさっぱりとさせる。まさに至高の逸品……俺は、あれを食べながら死にたい」
ごくん、と誰かの喉が鳴った。
味見をさせてもらえた先輩の食レポに、レオナをはじめとする厨房の一同は唸った。
やっぱり今日も味見係にはなれなかったのだが、幸運に恵まれた先輩からの食レポという自慢話を聞いていたところだ。そのずば抜けた美味しさから公爵令嬢が頻繁にリクエストをするらしく、厨房でも目にする機会は多い。見えているのに指一本触れられない幻の一品。
「チーズケーキィ。あああ……! 食べたい!」
どうしても、どうしても料理長のケーキが食べたい。
レオナはまるで幽鬼のような不気味な笑みを浮かべ、厨房出口に山のように積まれた野菜袋を整頓する。ゴワゴワとした麻袋、籠、瓶ケースなど、整理の傍らで在庫を確認して発注書にメモを挟んでいく簡単な作業だ。めずらしく真昼間からこんなことをしているのは、今日の昼食がパン屋の売り込みで外注のパンになったからである。これが終われば昼休憩をとってもいいと言われていた。
こんな楽な日も、ごくまれにあるものだ。
こんな時には先輩たちの機嫌もよくて一日が過ごしやすい。
「──よし、終わったぁ。たまには昼は庭で食べてみよか」
高く上った陽の光に、レオナは思わず手で顔に影を作る。
ダントンも昼休憩に入りそうだった。何となく厄介ごとの気配を察知したレオナは、早足でその場を後にすることでトラブルを回避した。
──公爵邸の庭でランチなんて、なんと優雅な!
別に悪いことをしているわけではないのだが、レオナはこっそりと人気のない方向へと自由気ままに進んでいった。胸には乾いたパンがしのばせてある。結局、いつもハイジに連れ込まれる東屋のあたりに行きついた。
無意識にその方向へと来ていた自分を恥ずかしいと思う同時に愛しく感じて、レオナは苦笑いをこぼす。
「重症やな」
庭の舗装された道ではなく、庭師が通るような影を縫って歩いた。
東屋のベンチ側から少し離れたところにスポンと抜け出たレオナは、遠目に見えたそのテーブルの上を二度見する。
チーズケーキだ。
スリーピースほど食べられたらしく、丸い円形はぽっかりと大きく欠けている。しかしその欠損によって露になった地肌は、まさに先輩の言う通り赤子の肌のごとく滑らかで。クリーム色に吸い寄せられるようにふらふらと近づくレオナは、ついに幻覚まで見るようになったのかと、歩きながら目をこすった。
じりじりと、チーズケーキへと引き寄せられていく。
そうして近づくと、どうやら片付けをしている人間がいるらしく、レオナの耳に人の話し声が届いた。
「──じゃ、飽きるでしょ~?」
「知りませんわ」
「冷たいなぁ、俺たちの仲じゃーん! もっと教えてよ~!」
おちゃらけた男の声と、淡々とあしらう女の声。
そしてレオナはすぐに気が付いた。男の方は、ハイジだ。
あれほど焦がれていたチーズケーキのことなど頭から吹っ飛んで、レオナは嫌な冷や汗が噴出してくるのを感じていた。『飽きる』『俺たちの仲』『もっと教えて』という単語が跳ねてレオナの脳内で暴れまわり、その場で動けなくなる。
いやに親しげな話し方も、レオナの胸中に不安を突き刺した。
「はぁ。ごまかすこっちの身にもなってくださいませ」
「だってぇ、さすがにまだ結婚とか早いじゃん~? だからもうちょいしてからかなーって~」
「知りません。もういい加減バラしますわよ」
彼はひょろりとした背中を丸めて、赤髪のメイドと片付けをしているようであった。
彼女には見覚えがあった。先日迂回をすすめてくれた、美人で親切な上級メイドだ。
そして聞こえてきた『結婚』という文言に、レオナは頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
──『結婚とかまだ早い』から、ハイジは平民のレオナで遊んでいる?
──『もうちょいしてから』は、遊んでからということ?
──『バラしますわよ』とは?
遊んでいることを咎められているようにも見受けられる会話は、嫌な想像ばかりをレオナの脳内で膨らませた。
すると気配を感じたのだろうか。
メイドはくるりと振り返り、レオナをその視界にとらえた。
「あら、貴方。この間の?」
声につられてくるりとこちらを振り返ったハイジが、大きく破顔する。レオナは他人行儀に慌ててお辞儀をしたのだが、ハイジは「レオ~!」といつもと変わらぬ調子で話しかけてきた。
「え! 偶然~! レオも休憩中~?」
「……う、うん。ハイジもお疲れ、さま、です」
「アハハ、どうしたの~? あ、ねえねえ、俺もちょっと早いけど休憩してっていい~?」
上級メイドは「いいですよ」と言うと、レオナとハイジの顔を往復して二度見して、何かを納得するようにウンウンと頷いた。そしていつぞやのように美しい笑みを浮かべて、チーズケーキを指さした。
「あの。もしよかったらですけれど、これ召し上がります?」
「え、いいの~? やった! レオ、これめっちゃ美味しいんだよ~!」
知っている。
焦がれるほどに、想っていたから。
ハイジが食べたことがある、ということにレオナはまた衝撃を受けた。
そしてメイドにとっても『もしよかったどうぞ』と、差し出すことができる程度のものらしい。もしこれが厨房ならば殴り合い寸前の取り合い合戦が起きている。
胸に忍ばせた乾いたパンが無性に恥ずかしく、レオナはぎゅっと手を重ねた。
貴族の階級などは分からぬレオナにとって、これは真に迫って感じる格差であった。
「……ありがとう、ございます」
深く深く頭を下げる。他の作法など知らないレオナにできる精一杯だ。
ひざまずこうかとも思ったが、さすがにハイジの前でそれをするのは憚られた。見栄だけは一丁前の自分に嫌気がさして、さらに深く頭を落とす。
そんなレオナにメイドは「まあ、丁寧なお嬢さん」と、優しく声をかけてくれる。
「余り物ですから、気兼ねなく食べてくださいませ。二番煎じですけれど、紅茶もどうぞ」
「え、俺だけの時と違くない~? ローズちゃん優しくない~?」
「……ハイジ様は水でもお召し上がりくださいませ、どうぞ」
「俺もお紅茶がいい~!」
軽口を叩き合う二人は、まぶしいほどに対等であった。
ハイジの立場の高さが分かろうというもの。レオナは胸が苦しくなる。
メイドはすぐに二人分のケーキを取り分けてくれた。あまりにも美しい皿に盛られたそれをどうしていいかわからず、「どうぞ」とベンチを示されるも、見るからにお貴族様なメイドを前にひとりで座ることなどできるわけもない。結果、レオナは奇妙に体を揺らすことになった。
「レオ、感謝のダンス上手だねぇ」
「ハイジは黙ってて……ください」
「うふふ。仲がよろしいのね」
メイドは笑いつつもテキパキと紅茶まで淹れてくれた。レオナはもうどうしていいかわからず、そのカップにも深くお辞儀をする挙動不審ぶり。
「あらあら! さあ、どうぞ座ってくださいませ。温かいうちに飲んでください」
そして勧められるがまま、席について紅茶を一口。
紅茶は上級メイドの領分であり、キッチンメイドとは管轄が違う。つまりレオナにとって、上等な紅茶を飲むというのは初体験であった。
「私、こんなの初めてです……!」
「まあ。そんなことを言っていただけると、こちらも嬉しくなりますわね」
「本当です!」
香り高すぎて、飲み込んでもずっと紅茶の香が鼻の奥に居る。体験したことがない感動を、レオナは一生懸命メイドへと伝えた。横で「わー、俺が言わせたかったヤツぅ」とのたまうハイジを、メイドが冷えすぎて凍りつかせそうな目で見据えていた。しかしレオナは気が付くことはなく、夢中で紅茶をちびちびと飲む。
「……本当に、人生で一番美味しい紅茶です」
「そんなに褒めていただけると、メイド冥利につきますわぁ! では邪魔者は退散いたします……ああ、当然ですけれど、片付けはハイジ様がしてくださいませ」
「もちろん~! ありがとねぇ」
「いいえ。お嬢様に良い話題を提供できそうで、こちらとしても有難い限りですわ」
美しく笑うメイドに、ハイジは「えぇ~! んー、まいっかぁ~」と、少し困り顔をしていた。
──私の存在が、ハイジを困らせている?
レオナは再び心を冷えさせた。
どうしよう、どうしよう、と身動きがとれない内に、ローズと呼ばれた上級メイドはきれいなお辞儀をして去って行ってしまった。ハイジはそれを見送ってからフォークを握って、レオナへと弾けるような笑顔を向けてくる。
「さーっ、食べよ食べよ~」
あんなにも焦がれていたはずのチーズケーキが、まるで重い鉛のように喉を通らない。口に含めばしっとりと美味しいのに、どうしてか飲み込むことができず、レオナは冒涜だと思いながらも紅茶でそれを流し込んだ。
思い出のたくさん詰まった東屋、夢にまで見たチーズケーキ、大好きな人……それらすべてが揃う幸せであるはずの空間で、レオナはただひたすらに泣くのを堪えていた。
「……あのさ、ハイジ」
レオナは、自分が不器用な自覚がある。何もありませんでした、という態度でこの場を済ませることはできない。きっと泣き出してしまうだろう。
だとすれば、何かを言わなければならない。
「ん~?」
「わ、私のこと、その……同僚さんにバレちゃったけど、よかったん?」
「あ~。そのうちバレるかなとは思ってたからね」
いつものゆるりとした声とは違って、ハイジはちょっとなげやりな様子で「まあ、なるようになるでショ」と言った。
どうとでもとれる返答に、レオナは詰まる。
どう問いかければ、ハイジの本心が知れるのだろうか。自分たちの関係が分かるのだろうか。『え、お互い遊びでショ~?』などと言われたら、レオナはどうすればいいのだろうか。
想像しただけで再び泣きそうになったレオナは『やっぱりそれなら、ずっと今のまま、都合のいい関係でいたい』と強く願った。
しかし、これは甘えでもあった。
もしも本当にレオナのことを好きでいてくれるなら。副料理長に言ってくれたみたいにフォローしてくれるはずだ。
『違う』と否定して、『好きだ』と言ってくれるだろう、なんて。
「そっか。……あのさ、私の同僚にも聞かれたことがあるんやけどな、ちゃんと否定してるから」
「……え?」
いつも笑って細められている目が少し見開いて、黒い瞳がレオナを写した。それを愛しく見つめながら、言葉を重ねる。
「『付き合ってない』って、ちゃんと言ってるから。安心して!」
言ってからレオナは少しだけ後悔した。
──これ、本当に面倒な女そのものやな
しかし言ってしまったことを撤回はできない。答えを求めて身を寄せたレオナだったが、ハイジが立ち上がったことで体勢を崩した。
「は、ハイジ……?」
彼の目は据わっていた。
少し見開いた瞳が、まばたきせずレオナを見下ろす。
「レオ、何言ってんの」
いつものんびりとした調子のハイジがすさまじく怒っているのが分かり、レオナは身をすくめた。何も答えることができず、沈黙が降りる。
どれだけ経っただろう。
沈黙を破ったのはハイジのため息だった。
「……俺、何するかわかんない。今日は帰って」
呆然とするレオナの腕をとると、まるで軽い人形でも動かすように、彼はひょいと東屋の外まで運び出す。立ち尽くすレオナに向かって、もう一度「行って」と促してくる。
その冷えた声の温度に、レオナはわけもわからず歩き出す。
──ハイジに、嫌われてしまった……?
東屋であれほど苦しんだ『遊ばれているかもしれない』などという心配は、見事に吹き飛んだ。あれはしょせん、幸せ者の苦しみだったのだ。
代わりに純然たる事実、嫌われた、というその一点がレオナの胸を押しつぶす。
厨房に戻ってきたレオナの顔色がよっぽど悪かったのだろう。ユナをはじめとする同僚たちは口をそろえて心配を口にして『帰って休め』と言ってくれたが、意地を貫いてその後も働いた。
今はなにも考えないで済むことが、一番楽だと思ったから。
レオナはひたすらに雑用を引き受けて、つぶれるように眠った。
もう何も考えたくなかった。