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後輩たちの皿洗いを手伝って帰らせ、レオナは最後まで残り備品の整理をして時間を潰していた。
たったひとりの厨房で、レオナは深いため息をついた。
「あー疲れた。……ほんまにアイツ鬱陶しい」
思い浮かべるのはダントンの顔だ。
しかし、今のところレオナにできるのは耐えることだけ。厨房は男性が多く、また年功序列の縦社会なのである。レオナが文句を言ったところで『気にしすぎ』『あいつも悪気があるわけじゃない』などと言われるのは目に見えていた。……いっそダントンが告白でもしてくれれば、ズタズタに断れるのだが。
「あーもう! やめやめ! せっかくハイジも来るしな、楽しいことだけ考えよ!」
ふんふんと鼻歌を歌って気分を切り替える。
準備した夕飯は、賄いの残り物のパスタがメインだ。時間が経って固くなってしまっている麺を卵とチーズで閉じてオムレツにリメイクしてみたが、なかなか上手く仕上がった。
自分が食べる用と、ハイジが食べる用に一応皿を分けて準備していれば、そう待たずにゴンゴンと外階段に続く扉が音をたてる。急いで駆けあがってレオナは飛び出した。
「お疲れ様!」
「待たせてごめんねぇ、これお土産~」
「えー! 気を遣わんでよかったのに!」
彼の手には陶器の瓶が握られており、たぷんと揺れた中身は深い葡萄色。思わずレオナは飛び上がって喜ぶ。
「も、もしかして、葡萄汁? 私も飲んでいいん⁈」
「もちろん~! 休憩に抜けますーって言ったら、優しい方の上司がくれたぁ」
「わぁ、太っ腹やなぁ」
葡萄汁はリンゴ酒や麦酒といった嗜好品よりも高価である。
それならば、と「ちょっと待ってて」とレオナは厨房へと再度消える。パン用に砕かれたナッツの余りを拝借して蜂蜜をまぶし、ちょっと焦げたパンにチーズのきれっぱしを乗せて素早く炙る。
元々用意していた夕飯の賄いと共に外へと持って出れば、瓶ケースを椅子と机代わりに、ハイジが食卓を整えてくれていた。しかもレオナが座る方には、ハイジの上着をたたんで座面に置いてくれている気遣いっぷり。
「え、すご。ハイジ紳士やん」
「でしょでしょ~? わあ、美味しそうなおつまみもあるぅ。レオ作ってくれたの⁈ 早く食べよ~!」
ちなみに材料である蜂蜜の出どころは、公爵令嬢のティータイムに提供されたものの余り。手がつけられていないものが返却されたので賄い用に流用しているのだが、ハイジは抵抗感があるかもしれないと、一応レオナはその旨を伝えておくことにした。
「あー、コレお嬢様のなんだぁ、じゃあ美味しいやつだねぇ。全然気にしないよ〜。そんなことより早く早くぅ」
ハイジはあっさりと答えて、レオナを手招きする。
自分よりも遥かに大きな男性であるにもかかわらず、着席を催促する様子が可愛らしく見えてしまった。レオナは『これは餌付け』と、内心でつぶやく。
「──さあどうぞ、召し上がれ」
「わあい」
号令を待っていた犬のように、ハイジは瞬く間にすべてを吸い込んでいった。素晴らしい食べっぷりだった。そしてあっという間に夕飯は食べ終わると、おつまみにと用意したナッツとパンにも手を伸ばし始めた。
あっけにとられて見ていたレオナも、慌てて自分の皿へと向き合った。
「お酒もいいけど~、葡萄のジュースも美味しいねぇ」
ぽりぽりとおつまみを食みながら、のんびりとハイジはコップを傾けている。レオナも食べる手を止めコップに口をつけた。ハイジ曰く上司からのもらい物とのことだが……これが、目を剥くくらい美味しい。
「な、なんやこれ⁈ 雑味が全くない上に、氷の葡萄酒並みに濃くて甘い……⁈ こんなジュース初めて……!」
最高級果実酒である、葡萄の実が凍結した状態で収穫して作られる甘口のワインは、レオナの人生史上の飲み物の中で最高峰の美味しさであったが、ハイジの持ってきたジュースはそれに並ぶ。
感動に打ち震えるレオナを見て、てれてれとハイジが笑った。
「え、ホント~? また貰ってくるね~」
「アホ! というか、こんなん高級品やろ。上司さん間違って渡したんちゃうん……⁈ 飲んだ分払えって言われたりせん?」
「アハハ~、そしたら俺が払っとくよ~」
同じく下っ端だろうに、ずいぶんと余裕そうな物言いである。護衛隊は高給取りらしい。
レオナだってずいぶんと貰っているつもりだが、しかしこんな高級品をポンと買えるほどではない。
きっと護衛隊の上司もたくさん貰っているのだろう。ならばこんな高級なものをポンポンっと部下に下げ渡すのも普通なのかもしれないとレオナは自身を納得させ、もう一口葡萄酒を含んで、うっとり幸せに浸った。
「ハイジって上司に気に入られてるんやなぁ」
「うん! あー、でも、キビシいイ方の上司はよく呆れた顔してる~」
「あはは、想像つくわ」
「なんでよ~!」
「ハイジやもん」
レオナの飲み干したコップに追加の葡萄汁が注がれるのを、有難く両手で受け取る。ハイジは気遣いができるタイプのようで、おつまみ皿のレオナ側の陣地のものには手をつける気配もない。そのへんは厨房の同僚たちよりもよっぽど紳士的である。
安心したレオナは、自身の夕飯の皿をゆっくりと味わって空にした。
その間ちびちびと葡萄酒をなめるハイジは、ひとつにくくられた長い黒髪を時折揺らしながら、思いつくままにおしゃべりに興じる。
「まあでもなんだかんだ信頼されてるしぃ。優しい方の上司はね~、俺がお腹空かせてたらお菓子くれたりするし~」
「ハイジって、行く先々で餌付けされてるんやなぁ」
「餌付けって、俺、犬じゃないんだけどなぁ。でもよく言われるんだよねぇ」
ほんわかと笑うハイジの背後に、大型犬のしっぽが見えた気がした。
ゆるいこの感じが憎めないのだろう。素晴らしく美味しい差し入れをくださった上司の方に感謝しつつ、レオナは「犬みたいなもんやろ」と、からかって相槌を入れる。
「私にも会うたび『おなかすいた~』って言ってるやん」
「まだ二回でしょ~? あー、でもレオナは猫みたいだよねぇ」
レオナはやや吊り目である。そしてぱっちりとした二重のため、たしかに猫目と評されることもあった。
ゆっくりと瞬きをするように目力を込めてハイジを見上げて、ニヤリと笑ってみせる。気分は化け猫だ。
「……俺、猫好きなんだよねぇ」
「なんや、それで私に懐いたん?」
「それもあるかもなぁ。レオみたいな子好きなんだよね〜」
軽々しく発せられる『好き』を、レオナは鼻で笑って食事を続ける。
出会ったばかりだというのに、ハイジという男は距離を縮めるのが上手かった。まるで旧友と食事を共にしているかのようで、二人は軽口を叩き合い、楽しい時間を過ごすことができた。
そしてパスタもおつまみも食べ終わり葡萄汁も飲み終われば、どちらからともなく「そろそろ帰るかぁ」という声が上がった。
「美味しかったぁ、レオナありがとう~」
「こちらこそ! 上司の方によろしく言っといて」
「うん~! じゃあ俺、仕事に戻るねぇ」
てきぱきと片付けをして場を元通りにしたハイジは、またもや颯爽と闇へと消えて行く。
その背中を見送りながら、満たされた腹をさすってレオナはつぶやいた。
「そっか、護衛隊は夜警もあるんか。大変やなぁ」
しかしハイジは、いつ頃休んでいるのだろうか。
朝もレオナより早く行き倒れて、夜もこれから仕事が続くなんて。
「……次会ったら、もう少し優しくしてあげよかなぁ」
レオナも厨房へと引っ込み、使った皿を洗って片付けを済ませた。そうして外へと再び出れば、いつもの日常通りの地下厨房の出口、雑然と積まれた瓶ケースや、野菜がたっぷりと詰まった袋やらが鎮座している。ついさっきまでここで楽しく夜食をとっていたのが信じられなかった。
寮への帰り道、レオナはハイジとの会話を思い出してはクスリと笑いをこぼす。
「ポッケに干し肉、また入れとこ。どこで餌やるかわからんもんな」
そしてその用意は、思ったよりも早く活躍した。
その翌々日、またしても早番を引き受けたレオナの前にふらりとハイジは現れたのだ。
「あ、レオみっけ~! おなかすいちゃった~」
「ハイジ! もー、またぁ?」
口では言いつつ、干し肉を用意していたレオナはまんざらでもなかった。
ポケットから取り出したそれを渡せば、ぶんぶんとしっぽが見えそうなほどにハイジが喜んでくれるので、レオナまでにんまりと笑顔になってしまう。
「まったく。ちゃんと自分でも用意しときよ。私だっていつでもおるわけじゃないんやから」
「そうだよねぇ。でも昨日は違う子だったからちゃんと帰ったよ~」
「昨日も来たん⁈」
連日早番の時間にうろついているなど、労働時間の長さが心配である。まだ薄暗い中を、腹をすかせてウロウロとしているハイジを想像してレオナは胸を痛めた。よほど先輩たちから嫌われているのだろうか。上司に訴えるべきではないだろうか。相談できる人はいるのだろうか。
しかし、まだ出会って数日のレオナにそんなことを言われるのを、ハイジは嫌がるかもしれない。
はっきりとした物言いのレオナは、それで人間関係を失敗することも多い。『余計なお世話だろ』という、職場の先輩の冷めた笑いが脳裏をよぎる。
喉の奥までせりあがる文句や心配を押し込めて「毎日早くから仕事、大変やな」と、それだけ付け足すにとどめた。
「ん~? レオに会えるかも~って下心もあったからねぇ、ウキウキで早起きできたよ~」
「……私の次の早番は、三日後やで。そんで五日後に遅番」
自分の勤務表を思い出して教えてやると、数秒固まったハイジがぱぁっと顔を輝かせた。
「じゃあまたすぐ会えるね!」
──やっぱ犬みたいで可愛いな、なんて。
自分よりもはるかに背の高い男に抱く感想ではないだろう。しかしその言葉でレオナの気持ちも上向いた。
「……そうやな。それまで私も頑張るわ」
「俺も~! なんかおいしそうなものあったら、また持ってくるねぇ」
「私もなんか作っとく」
「えーめっちゃうれしい! この間のパスタ入りのオムレツもちょ~おいしかった! 味付けがね、めっちゃ好みだった~」
「ほ、ほんと⁈」
最近はダントンに何かと『レオナの味覚は田舎っぽいんだよなァ』とけなされることが多く、自信を喪失気味だったレオナは喜びに飛び上がった。
ハイジは不思議そうに繰り返す。
「うん、また食べたいくらい! レオが味付けしたんでしょ~? センスがいいんだねぇ」
ほわほわと笑う彼は、そっと、壊れ物を扱うようにレオナの頭を撫でた。それは反射的なものだったようで、その手はすぐにひっこめられると「ごめん、頭とか勝手に触られたらやだよねぇ」と、本当に申し訳なさそうな顔で謝ってくれる。
──お父さんも『レオナはセンスがいい』ってよく言ってたな。
ハイジの横顔を見つめながら、レオナは故郷の両親の顔を思い出していた。
両親もよく頭を撫でてくれていた。レオナの頭。レオナの味覚、レオナの心は……かつては、とてもとても大切にされていたのだ。
そんなことを思い出すと、ズンとレオナの体が重くなる。
──ああ、疲れたな。
「えっ、れ、レオ? 泣いてる⁈ ごめんっ、俺のせいだよね⁈」
レオナの頬には、気づけば涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
己の頬をぬぐって、慌てるハイジの袖口をきゅっとつかむと「ちょっと待って」と、小さな声を絞り出す。
「……これは、ハイジの、せいじゃない。から。突然泣いてごめん」
会話の流れで頭を叩かれたり、貶されたりなんて。そんなことは職場では日常茶飯事だ。
だから心が麻痺していたのだろう。止まらぬ涙をせき止めるようにグイグイと目を揉むレオナの手を、そっとハイジがつかんでおろした。
「俺のことはいいから」
いつもの間延びしたハイジの声ではなく、ただ心配してくれるその声色。レオナはさらに涙を溢れさせた。
泣き続けるレオナの体を引き寄せて、ハイジはその手で雫をぬぐいつづけてくれた。彼の手は涙でべちょべちょだ。
「……って、ちょっ、近い。もう、アハハ」
ハイジ顔はじりじりとレオナの頬に近づいては、その細い目をいっぱいに見開いて様子を覗き込んできたのだ。そのあまりの近さにレオナは思わず笑って泣き止んで、ハイジの腕から身をよじって抜け出した。
レオナが落ち着くまで、二人の距離は近いまま。沈黙がしばらく続いたのちに、ハイジがぽつりとこぼした。
「──まあ、言葉にできないときもあるよねぇ」
ハイジはそのあと「どうしたの?」と一度だけ聞いたものの、答えぬレオナに無理強いすることはなかった。
そしてレオナを寮の近くまで送り届けると、いつもと変わらぬ調子で「またね」と去っていく。
「……ちょっとだけ、かっこいいとこあるやん」
そんなレオナのつぶやきは、ハイジには届かず宵闇に溶けるのだった。