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 ハイジの腹を満たした後はドタバタと早朝の仕事をこなし、仕事が終わるころにはレオナはすっかり疲れ切っていた。


「ひぃ……足パンパンや」


 大量の野菜の皮をむき、切って切って片付けて、下茹でまでしたところで出勤してきた先輩たちに「早くこっちもやれ!」「オイ、レオナ!! 混ぜとけ!」「なんで準備してないんだ⁈ すぐハーブ摘んでこい!」「邪魔!」と指示だか怒号だか分からぬものを浴びせられながら朝食作りの補助をして、そして調理器具を片付け、すぐに昼食の下ごしらえ、片付け、夕食の準備、片付け、皿洗いをたまに手伝い……と、休む間もなく働き続けたのである。これが日常だ。



 キッチンメイドは重労働。

 毎日立ち仕事、しかも重いものを持ったり混ぜたりするので前腕なんて筋肉ムキムキになってしまっている。


「レオナさんでも疲れた顔するんですね」

「そりゃするわ。みんなも疲れたやろ、あとちょっと頑張ろうな」


 皿洗いをする後輩の横に並んで、調理器具の拭き上げをサクサクと進める。これで本日のレオナの業務も終了……の、はずであった。




「あ〜? おいレオナ、お前ちょっとは化粧しろって言ったろ?」



 うげ、という顔はできない。

 しかし内心では盛大に、ため息を通り越して『こっち来んな!』と叫び声を上げるレオナ。


「……ダントン先輩、お疲れ様です」


 絡んでくる先輩のだらしなく出っ張った腹には、とれかけのボタンがぶら下がっていた。もしも落ちて料理に入ることになったら大変である。レオナは注意されているのに気もそぞろで、そのボタンをじっと見つめていた。


「まったく、身だしなみくらいちゃんとしろよ?」

「……あー、すみません。今日早番やったんでぇ」

「早番? お前まだそんな下っ端の仕事してんのか。ったく、俺が料理長に言ってやってもいいぜ? もうちょっとお前に可愛げが出たらな~、他のヤツも助けてくれるだろうけど? お前のことこんなに気にかけてやってんのは俺くらいだろ?」


 愛想笑いをするしかできない。

 最近、レオナの気が滅入っている原因は主にこのダントンという名の男である。うざったいのだ。

 彼は愛想笑いを見て何を思ったのか、ひどく親しげな調子でレオナの頭をこづいてきた。


 レオナの脳内ではダントンの頭を十倍の力で殴り返している。が、現実でそれをすることはできない。


「それから、しゃべり方! 『やったんで』じゃなくて『だったので』だろぉ?」

「……以後気を付けます」

「西の訛りもまあ可愛いけど、ここ仕事場だからな? 社会人としてちゃんとしろよ?」


 ダントンがしてくる注意は、ダントンしか注意してこない。


 化粧をしろとか、訛りを直せとか、痩せろとか。厨房にまったく関係ないことばかり。

 仕方がないから言わせておいているのだが、当然ストレスは溜まっていく。

 レオナはストレスで過食に走るタイプなので、最近はいつも干し肉やらパンやらを持ち歩いてかじってしまい、体重も増加気味だった。そう考えるとますます腹立たしいのだが、縦社会の厨房では文句も言えないのである。


 ふぁさっ、とダントンが髪をかきあげた。


「それとも俺にかまってほしくて、わざとやってんのか? ……って、いや、俺が思ってんじゃなくて、周りがさァ」


 ちなみに、彼は己の金髪が自慢であるが、額方向からやや若ハゲ気味である。


「まあそうだとしたら? そんなことしなくても指導してやるからよ、って一応な、一応言っとくな?」


 しかもダントンは何故だか、レオナが自分を好きだと思っているフシがある。心底謎だ。


「あー、いやぁ……そんな誤解を生んで申し訳ありません。ご指導ありがとうございました、以後気をつけますので……」

「オイオイ~! そこまで固くならなくていいって! 早番のことは、俺がさりげなく料理長に言っておいてやるからさァ」

「いえ、本当に大丈夫です」


 早番は朝いちばんにやってきてカギを開け、空気を入れ替えたり軽く掃除をしたりといった雑用の係だ。最近せっかく入った後輩たちがポツポツと辞めてしまい、残った後輩だけに早番遅番の雑用すべてを任せていたら彼ら彼女らの休む暇がなくなってしまう。

 そのためレオナはもう五年目になるのだが、自ら進んでそれらの役割を引き受けていた。


「俺が言ってやるって言ってんだ。素直に甘えるのも女の愛嬌だぞ?」

「……本当にキツくなったら頼らせていただきますねぇ」


 残っている貴重な後輩たちが皿をひたすらに洗う横で、レオナはそちらに火の粉が飛ばないようにと言葉を選ぶ。


 そこへ救いの手が伸ばされた。


 賄いの夕飯を食べ終わった先輩たちがぞろぞろとやってきたのだ。彼らは洗う必要がある皿を追加し、ついでとばかりにレオナに指令を飛ばしてくれたのだ。


「おいレオナ、帰る前に小麦の補充しておけよ」

「はいっ! すぐ行きます!」


 助かった、と息をつく。

 ダントンよりもずっと年嵩の先輩の指令だったので、彼はムッとしつつも何も言わない。レオナは雑にお辞儀だけして、すぐにその指令に取り掛かるべく外へと続く階段へと向かった。背中に「ついでにレモンとってこい。料理長がケーキ作るって言ってたから」と追加注文が重なる。


「はーいっ! 先輩方、お疲れ様でしたー!」

「おう、お疲れ」


 戻るころには遅番の後輩たちしか残っていないだろう。

 果物を保管する倉庫と、粉を保管する倉庫はかなり離れているのだ。レオナの足取りは軽くなった。



「……あいつ、ほんまいつか覚えてろよ」



 しかし調理の下ごしらえ、野菜の下茹でを任せてもらえる立場になれば、本来であれば洗い物や使いっ走りなどしなくてよいのも事実。が、ここレンゲフェルト公爵邸では数年前にハウスメイドを中心に使用人の粛清が行われ、ちょっぴり人手が足りていないという裏事情が存在した。


「ま、人手が足りないのは悪いことばっかりじゃないんよね」


 だって人が少ないということは、美味しい物の分配の確立が上がるのだから。ダントンのことなど忘れるべく、レオナは楽しいことを思い浮かべた。



「んふふ、料理長のケーキ! 味見できたら最高やなぁ」



 じゅるり、レオナの口腔内に唾液があふれる。

 ケーキの味見は争奪戦だ。



 甘味類は料理長と、数人の先輩しか作ることが許されぬ至高の領域。

 配膳をする上級メイドたちもつまんでいるのだろう、食べ残しが厨房に戻ってくることも少ない貴重品。味見をさせてもらえない限り、キッチンメイドごときでは食べることができないのだ。


「レモンてことは、チーズケーキだったりするんかな」

 

 少しでも貢献していれば、料理長が切れ端……いや、包丁についた分でもいい。気まぐれに「レオナも食え」と言ってくれるかもしれない。

 チーズケーキは料理長の力作で、公爵家のお嬢様もこよなく愛する逸品だ。レオナはどうしても、一口でいいからチーズケーキを食べてみたいと常々思っていた。

 淡い期待を抱き、仕事終わりということも相まって、弾む足取りのレオナは地下通路を抜ける階段を駆け上る。


「あれ、なんかいつもより明るい気ィするな」


 つぶやいて、思わず立ち止まった。

 地上通路は夜であるにも関わらず、灯された光がまぶしいほど。目を細めるレオナの前から、しずしずと上級メイドが音もなく滑り寄っていた。気づいた瞬間、レオナは弾む息を押し殺して脇へ飛び退いて深々と頭を下げる。


 上級メイドは全員貴族家出身、レオナは平民。

 しかも上級メイドとなれば、邸内での役職序列も遥か上だ。



「貴方、どこへ行くんですか」



 通路の砕かれならされた石の陰影を眺めてじっとしているレオナの前で、何故だかメイドが声をかけてきた。

 先輩たちのようにキッチンの主戦力となれば、平民といえども上級メイドたちとも対等に話すことができるようになる。料理長ともなれば公爵様本人とも会話をするというが、現時点で下っ端のレオナは縮み上がった。


「は、ハイッ⁈ 食品倉庫です!」

「そうですか。急ぎであれば先に行って、迂回して戻ってください。これからお嬢様がここをお通りになりますので」

「っあ、はい! ありがとうございます!」

「いえ。遅くまでご苦労様です」


 にこり、微笑まれてレオナは思わず頬を染めた。

 燃えるような赤い髪を美しく結い上げた上級メイドだ。油や汗でぐちゃぐちゃの自分が恥ずかしくなり、レオナはサッと頭を下げて顔を隠す。



「し、失礼しますっ」



 顔を上げたその瞬間。

 ほんの数秒の間だったが、レオナは見てしまった。

 上級メイドの背後、ずっと奥の回廊に、まるで陶器人形のような少女が佇んでいた。闇の中に白く浮かび上がるような肌の色に目を奪われるが、必死に足を動かして倉庫へと向かう。

 

「……なんかすごかったな。あれがお嬢様ってやつかぁ」


 ぽいぽいと必要な物を置いてあった籠に詰めながらつぶやいた。

 帰りは中庭をこっそり突っ切ろうと庭の樹木が落とす暗い影に身をすべりこませて「同じ人間とは思えん」と、目の奥に焼き付いた公爵令嬢の姿をぼーっと思い出していたレオナの背後に、人影が近寄ってくる。



「……あっ、やっぱり~、見ィつけた~!」

「ぎゃあああっ!!!」

 


 悲鳴を上げたレオナは、思わず籠を取り落とした。

 それをキャッチした人物は「俺ってばナイス~、はいどーぞ」と、のんびりした声でレオナに籠を差し出してくる。

 その声は、今朝方聞いたもので。

 

「は、ハイジ?」

「正解~! あはは、レオナっぽいなと思って、思わず追いかけてきちゃった~! 朝はありがとうねぇ、美味しかったよ~!」


 テンションの高いハイジがまくしたてるのを聞いて、硬直した全身から力が抜けていった。朝も思ったが、ハイジはとても背が高い。レオナは自身の遥か上、植栽の木くらいの高さにある顔を睨みつける。


「もう、びっっくりした! 幽霊かと思ったわ!!」


 ハイジはどうしてか微笑ましそうな顔をして「え、ごめん~。俺、レオ見つけて嬉しくなっちゃってさぁ」と弁解をした。

 彼は朝とは違って真っ黒なマント姿ではなく、白を中心とした仕立ての良い護衛隊の衣装である。まじまじとそれを見つめて、レオナは内心で『結構似合うやん』と彼を見直していた。


「あーっと、ハイジは仕事終わったん? 私、まだ途中なんやけど」

「俺もまだ仕事中なんだ~。抜けてきちゃったけどぉ」

「え。すぐ戻ったほうがええんちゃう?」

「うん。上司にバレたら怒られちゃう~」


 てへ、と舌を出すハイジは軽い口調だが、護衛隊の上司など、きっと筋肉ゴリゴリのゴリラのような大男だろう。怒られたら、こんなにひょろひょろしたハイジは倒れてしまうのでは? などとレオナは想像して、こう言い聞かせた。



「はよ戻り。ちゃんとごめんなさいするんやで?」



 まるで子ども扱いである。

 しかしハイジはふにゃりと笑って「わかったぁ」と言い……しかし、その場を動かない。


「……あー、俺、お腹すいちゃったなぁ」

「ごめんけど、今なんも持ってないわ」

「レオナももうすぐ仕事終わるんだよねぇ? 俺さ~、終わったらご飯貰いに行ってもいい~?」


 護衛隊には夕飯の支給もあったはずだが、ハイジは食いっぱぐれてしまったのだろうか。

 今日は遅番の予定ではなかったが、代わると言えば後輩たちも喜ぶだろう。ダントンに絡まれた気分転換をしたかったのもある。

 レオナはとりあえず頷いた。


「やったぁ! じゃあ後でもらいに行くね~」


 言うや否や、ハイジは素早い身のこなしで闇へと消えて行く。のんびりとした言葉と裏腹の動きに、やっぱり下っ端でも護衛隊はすごいと感心したレオナだったが、ふとした疑問が口をついて出た。



「……ハイジ、こんなところで何の仕事してたんやろ」



 レオナが迂回路として選んだのは、屋敷から眺めることができる鑑賞用の花樹木が整えられた庭だ。護衛隊の鍛錬所からは遠い。

 しかし厨房以外の仕事はまったく分かっていないレオナは「私と同じでお使いかな」と、すぐに考えるのをやめ、己の持ち場へと戻るべく歩きだすのだった。




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