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出勤中、倒れている人間を見つけてしまった。
「ひっ! ……ひ、人が倒れてる?」
レオナの仕事はキッチンメイドである。
まだ二十歳になったばかりの若い女が出歩くには心許ない、薄暗いほどの早朝。鍵開け当番の役目を果たすべく早起きして寮を出たレオナを待っていたのは、野菜袋の隙間に横たわる黒い影だった。
「でもここ、公爵邸の敷地内よな。……なんで?」
地下厨房の外階段前に積まれた野菜袋の前で、見間違いかと思ってレオナは何度も目をこすってみるが、男の姿は消えない。
倒れている男はかなり背が高く、横幅は細いようだった。レオナが本日皮をむいて下茹でをする予定の、ジャガイモやニンジンといった野菜袋の隙間にすっぽりと収まっている。しかし長く細い足首がひょろりとはみ出し、柔らかそうな黒い革靴が妙な存在感を示していた。
恐る恐る、その人物の顔を確かめようとレオナは近寄った。
すると、その気配に気が付いたのだろう、男はガバリと飛び起きる。
「よっと!」
「ぎぃぃぁあああ!!!」
叫び声を上げたレオナが腰を抜かした。
そして目をまん丸に見開いて見上げる先には、真っ黒な服、真っ黒な髪、そしてどこを見ているのかまったくわからない糸目の、ひょろりと背の高い男が立っている。
「わ~、びっくりさせた? ごめんねぇ」
のんびりとした口調の男だ。
彼はレオナに向かって手を差し出してきた。夜明け前のじっとりと冷たい地面の温度を尻に感じて、慌ててその手をつかんで立ち上がろうとしたレオナの体は、己の意思ではなくふわりと浮いた。
ひょろりとした外見に反しその男は力が強いらしい。腕の力だけでレオナの体を持ち上げて、そっと地面へと立たせてくれたのだった。
「ありがとう」
「いやいや、俺のせいだよねぇ、ごめんね~。お腹が空いちゃってさぁ、ちょっと何かもらえないかな~って思って厨房まで来たけど誰もいなくてさ。気づいたら寝ちゃってた~アハハ」
「そ、そうですか」
ちょっと引き気味のレオナは、並んだ男の顔を見上げた。
背が高く、顔は小さく、手足が長い。
レオナは彼を頭のてっぺんからつま先までじろじろと観察した。真っ黒かと思った服には、公爵家の護衛隊である証がちらりと光る。彼はレオナの勤める公爵家の同僚らしい。
不審者ではないことにホッと息をついて、もう一度その顔へと視線をすべらせた。
エキゾチックな顔立ちは、おそらく外国の血が混ざっているのだろう。彫りが浅く、目が細い。どこを見ているのか分かりづらいが「ん?」と微笑まれれば、エレナは思わずドキリとした。
「えっと、その、食べるもの……何もなかったんですか?」
「そうそう、何もなくてさ~。困っちゃってぇ」
護衛隊であれば夜勤の者には夜食も用意されているはずだが、それを食べることができないということは、下っ端なのかもしれない。少し幼さの残る顔立ちで、レオナとそう年も変わらなさそうだった。
すっかり男へ親近感を抱いたレオナは「しゃーないな」と、砕けた口調で呆れ笑いを漏らす。
「昨日の残りのパンでええかな? ちょっぴり硬くなってるやろうけど」
「もちろんだよ~、お腹ぺこぺこ~!」
「よし! 大サービス、具も挟んであげるわ。……お兄さん、見つかったのが私でよかったな。先輩たちやったら追い返されてるで」
ニッと笑ってみせたレオナに、なぜか男はその細い目をうっすらと開けて固まった。
護衛隊のくせに肝が小さいのかもしれないと、レオナは慌てて「一人でも時間外にご飯をあげるとな、ホラ、たくさん人が来ると困るやん? お兄さんがどうこうってわけじゃないで。規則規則」と、付け足す。
その男の顔は、東国系というやつなのだろう、彫りが浅い。レオナはあまり見るのも失礼かと思ったが、男がじっと見つめてくるものだから視線を外せず、二人はしばし見つめ合った。
「あのぅ、お兄さん……?」
「あっ、俺、ハイディ! ハイディ・フェードル! 気軽にハイジって呼んで!!」
「ハイジな。私はレオナ」
「レオナってかわいいねぇ……レオって呼んでい~?」
軽い、軽すぎる。
ハイジの軽口に乾いた笑いを漏らして『そんなんやから先輩に夜食貰えないんちゃう』と言いたくなるが、ぐっと堪える。差し出された彼の手を再び掴んで握手を交わした。
レオナが愛想笑いを浮かべれば、ハイジは心底嬉しそうに糸目をさらに細めて笑うのだった。
ぐるるる、と鳴り響くハイジの腹の音。
「あはは! ちょっと待っとき!」
「も~、ごめんねぇ」
ハイジと話していると、レオナはなんだか肩から力がぬけてゆくようだった。
最近は職場でちょっと嫌なこともあって気が滅入っていたのだが、自然と笑顔がこぼれる。
「あははは! すぐ持ってくるわ。中は入られんから、ここ居てな!」
厨房に入ると自分の分と合わせて手早くパンにチーズをのせて温め、トマトの端っこのきれっぱしに塩を振ってそれに挟む。ついでに残り物のスープを温めると、マグカップに注いでやった。
いそいそと外階段を上り、ハイジへとマグカップとサンドイッチを差し出す。
「はい、どうぞ」
「わーっ、ありがと~! レオは命の恩人だよ~」
「大げさやなぁ」
がばり、と大口を開けたハイジはあっという間にサンドイッチを平らげる。そのあまりの早さにレオナは呆気に取られた。
「は、早……⁈」
「ごちそーさまでしたぁ」
「美味しいからバクバク食べちゃった〜」と、マグカップのスープも一息に飲み切ったハイジが笑う。
「えっと……干し肉たべる……?」
「いいの〜? ありがと〜」
あいにくと差し出せる食料がもう、エプロンに入れっぱなしの干し肉くらいしかなかったのだ。薄紙で包まれたそれをハイジは心底嬉しそうに受け取った。
これはまるで餌付けだな、とレオナは頭のどこかでぼんやりと考える。
「レオ、いいひとだね〜」
ゆるゆるとしたハイジの笑顔に、レオナは気が抜けてまた笑った。この男はきっと食べ物をくれるならば誰にでも懐くのだろう。
「はいはい。じゃあ仕事やから、またね」
「ほんとありがとね〜。お仕事がんばってねぇ」
しかし懐かれれば悪い気はしない。
見送られるレオナは、無意識に吊り上がる口角を口を尖らせて誤魔化した。
こうして公爵邸で、本来交わるはずのなかった仕事の二人は出会ったのだった。