07.いまのプリシラが出来ること
カリカリカリと書類にペンを走らせる音が部屋に響いている。
いつもならばこんな昼過ぎはウトウトしてしまうものだが、ガウルの体には力がみなぎっていて、プリシラは眠気の気配すら感じる事はない。
この体でいるのは後二日だ。
やり残す事がないよう、色んな事に挑戦しなくては。
「ねえハンナ。ちょっとりんごを持ってきてちょうだい。丸ごとのやつをお願いするわ」
プリシラのお願いに、ハンナが部屋に置いていたフルーツの入ったバスケットからりんごを取り出して運んでくれた。
「お嬢様どうぞ」と差し出されたりんごを受け取り、プリシラは「ハンナ、見ててね」と声をかけて、両手でパキッと半分に割って見せた。
「割れたわ!」
何気に思いついた事だったが、まさか本当にりんごを手で割ってしまうなんて。
さらにもっとすごいところを見せつけたくなる。
プリシラはガシュッとりんごに齧り付いてみせた。
ガシュガシュガシュとりんごを食べ終えて、ふふと笑う。
「ハンナ、ちゃんと見ててくれた?どう?私、男らしかったかしら?」
「ええとても」
「さっき昼食を食べたばかりなのに、私ったら、またりんごを一個丸ごと食べちゃったわ。ふふ。後で甘い物も食べ放題ね。私が太ることがないから安心だわ」
「そうですね。プリシラ様が虫歯にならなくて安心です」と微笑んでくれるハンナが、プリシラはとても大好きだ。
プリシラは上機嫌でハンナに笑顔を見せた。
りんごを嬉しそうに割って、プリシラが輝く笑顔を見せている。
その姿がガウルの姿さえしていなければ、とても愛らしいものなんだろう。
「惜しいな……」とレナードが呟く。
「何?」
プリシラに聞き返されて、レナードは話題を変えて誤魔化した。
「侍女のハンナさんはプリシラ嬢がガウルの姿をしていても、ガウルの姿にプリシラ嬢を見ているのですね」
「ハンナはいつでも私の事を分かってくれますから。レナード様だって、ガウル様が私の姿をしていても、ガウル様だとお分かりになるでしょう?」
プリシラの言葉に、レナードがガウルを見る。
「黙って立ってたら分からないかもしれないですね。今みたいに大きく足を広げて座っていると、『ああ、中の人は違うな』という気はしますが」
――足を広げて?
バッとガウルを見ると、プリシラの姿のガウルが、足を広げて座っていた。ドレスを着ているからといっても、その行儀の悪さは一目でわかる。
プリシラは鋭い目でガウルを睨みつけた。
「テメェ!足開いてんなよ!俺が本気出したら、テメェなんて一捻りなんだよ!そこんとこ忘れんなよ!」
ドスの効いた声でガウルを怒鳴りつけてやる。
「お前、心優しい淑女じゃねえのかよ……」
呆れるガウルに、プリシラが「しょうがないわね」と諭すように言葉をかけた。
「私は今、ガウル様を演じてるのよ。ガウル様も私の姿をしてるんだから、いくら溺愛中で部屋から出ないといっても、少しは努力しなさいよ。
このごっつい腕で痛めつけられたくなかったら……あら?」
袖を捲り上げて腕を見せたプリシラは、さすさすと腕をさする。
「ねえハンナ、この腕なら私、腕立て伏せだって出来ると思うの。ちょっと見ててね」
そう話すとプリシラは深く腕を曲げた腕立て伏せをハンナに披露する。
こんなに大きな体なのに、腕に全く負担を感じない。
ひょいひょいひょいひょいと、いくらでも腕立て伏せが出来てしまう。
「お嬢様、見事な腕立て伏せですね」とハンナは褒めてくれるが、もっと多くの人に見てもらいたくなる。
「ねえハンナ。外の木で懸垂をしてみせたら、みんな驚いてくれるかしら?」
「ええ、それはもう」
ハンナが頷くと、ガウルが急いで声をかけた。
「止めろ!外の木で懸垂なんてするなよ!みんなに見られて驚かれるだけだろう?!」
「あら。みんなにガウル様の力を見せつけて驚かせてくるだけよ?」
「違う意味で驚かれんだよ。頼むから部屋にいてくれ。俺だって大人しく軟禁されてるだろう?」
庭の木で懸垂なんてされたら、『気がふれたのか』とそれこそ驚かれてしまう。
妖精姫と呼ばれるプリシラに、ガウルはずっと振り回されている。
『本当に掴みどころのない妖精のような奴だな……』と、はああとガウルは深いため息をついた。
「レナード、早くこの書類を片付けるぞ。早くしないと、また「俺のプリシラ嬢にいつまでも近づいてんじゃねえぞ」って言いがかりをつけてきやがる奴がいるだろう?
……チッ。なんだよこの書類。ベルコラーデ国の文字じゃねえか。帰って母上に通訳を頼まないと進まんな。本当に国の境界の村は面倒だな……」
「あら?ベルコラーデ語なら私も読めるわよ。訳しましょうか?」
不機嫌そうにブツブツと呟くガウルの言葉を聞いて、プリシラが声をかけると、ガウルが書類から目を上げた。
「さすがだな。多国語を習得してるのは噂だけじゃないんだな」
「引きこもりの時間潰しに読書は必須なの。ベルコラーデ国は流行りの恋愛小説が本当に素晴らしくって」
「母上と同じ事を言うんだな……。作家イボワールの新作小説がどうとかっていつも騒いでるぞ」
「まあ!ガウル様のお母様もイボワールのファンなの?この国ではまだ訳されてないから、イボワールの作品を読んでる人は珍しいの。ぜひお話しさせていただきたいわ!
……今から会いに行って、ガウル様のお母様とイボワールを語り尽くしてこようかしら。この姿なら、怪しまれる事もないでしょうし」
「止めてくれ!頼むから外に出ないでくれ!人と会わないでくれ!」
思わずガウルが立ち上がると、プリシラがふふふと楽しそうに笑う。
「まあ!ガウル様ったら。そのセリフは、溺愛の監禁ものよ。それは私が言うセリフよ」
そう話すとプリシラはスッと立ち上がり、壁まで歩くと、黙ってガウルを手招きした。
『何をするつもりだ』と訝しく思いながらも、素直にプリシラの近くまで歩くと、ダン!と壁に両手を付かれて、プリシラの腕の中にガウルは閉じ込められた。
「お前なにする―」
「この部屋からは出してやれねえな。頼むから誰にも会うな。俺だけを見ろ」
プリシラは低い声でガウルに囁いてみせる。
そしてハンナに振り返った。
「どう?ハンナ、見ててくれた?今の私、『カゴの中のキャロリーヌ』のヒーローの、スペンサー様に似てなかった?」
「ええ。とてもそっくりでしたよ。あとガウル様がヒロインのキャロリーヌのように、「スペンサー様……」と震えながら返してくれたら完璧でしたね」
「本当にね。ガウル様もイボワールの小説は読んだ方がいいわよ」
ほほほと楽しそうにプリシラが笑っていた。
自分の顔でプリシラに迫られたガウルは、微妙な顔で席に戻る。
『プリシラ嬢は俺の母上ととても気が合うだろうな。合ったその日から「親友だ!」とか言って盛り上がりそうだ』と、あり得ない想像をしてから、『バカバカしい』と首を振る。
「プリシラ嬢、とりあえずこの書類を頼む」
ガウルが手渡した書類を受け取るプリシラの顔は、仕事をする者の顔になっていた。