第2話 抜け殻の日々
――武尊とのなれそめは、大学での、とあるサークルの新歓コンパだった。
入学当初は浮かれていたから、どこかのクラブかサークルに入ろうと思っていた。
どういう趣旨のサークルだったかなんかは、既にすっかり忘れたのだが、勧誘の声に気楽についていったことは覚えている。
それは、入会の意志の有無を問わない、ほぼ無目的の宴会。
「宴会のための宴会」であって、よく言えば分け隔てなく、悪く言えば誰彼構わず新入生を誘って、騒ぐ。それだけだった。
私は、お酒にはあまり強くなくて、ビールの大瓶を一本空けただけで、もう夢見心地だった。
しかし、先輩達はとても強引で、無理矢理私に追加で飲ませた。
結果、私は気分を悪くしてトイレに駆け込んで、全部をアンインストール、つまり嘔吐してしまった。
青い顔で席に戻ったら、先輩達がなおも酒を勧めてきて、困ってしまった。
そんな時、唯一優しくしてくれたのが、武尊だった。
彼は毅然とした態度で立ち上がり、バカ騒ぎに明け暮れる一同に言った。
「あなたがたには、もう付き合いきれません。いたわりの心がない人達とは、俺と絶対に相容れません。失礼します」
本当に惚れ惚れする、というのは、あのことだった。
そして武尊は、ぐったりした私を背負って宴席を中座し、下宿まで送ってくれた。
その時、彼の連絡先を知りたいと思ったのも、自然な流れだったはずだ。
分かりやすく言えば、一目惚れに近かった。
次の日の夜、彼にお礼の電話をした。
電話口でも、なによりもまず、彼は気遣ってくれた。
嬉しかった。ますます彼に惹かれた。
私は文学部。彼は先進理工学部だ。
無理矢理でも違いを挙げろと言うなら、彼は一浪しているから、学年は同じでも、歳が一つ上であることぐらいだ。
一年生の頃の一般教養の授業以外は、キャンパスの場所自体が別なので、普段の接点はほとんどなかったが、そんな事は関係ない。
それよりも、彼に運命を感じたのは、お礼の電話をした翌日、夕食のお弁当を買いにコンビニへ行った時だった。
正確には、最初に向かった店ではなかった。
その日はなぜだか無性にチキン南蛮が食べたかったのだが、運の悪いことに売り切れていた。
諦めるのはしゃくだったから、すぐ近くにある別の競合店へ向かった、
幸いにも目的のものはあり、安堵と共にそれを手にレジに。
「温めますか?」
「あ、はい」
そこまではありふれたやりとりだった。
だが、明確に聞き覚えのある声だ、と思った。
店員の顔を見た。向こうも、こちらを見た。
「「あっ!?」」
見事にハモった。そう、そのバイト店員は彼だったのだ。
ただ、後ろに他の客が並んでいる都合もあって、悠長にお見合いはしていられない。
彼に、声を潜めて一言だけ聞いた。
「シフトはいつまで?」
「九時までだよ」
それで十分だった。温めてもらったお弁当を受け取り、何食わぬ顔で店を出た。
でも、心がはしゃいでいた。
その日、夜の九時が過ぎるのを待って、彼に電話した。
明日の予定を聞いた。
幸運なことに、休みだと言った。
会いたいと思った。少し強引だったけれど、カフェに誘った。
そしてそこで、彼に告白した。
「こんな俺でいいの?」
「だからいいんじゃない!」
あの時のやりとり。そして、戸惑ったような彼のはにかんだ笑顔が、今でも鮮明に思い出せる。
それから四年。順調に愛が育まれているはずだった。
何度もデートをした。身体の関係も持った。何の不満もなかった。
結婚してもいいと思った。と言うか、その気満々だった。
なのに。
この幕切れは何?
私が重たい? なんなの?
笑顔の裏で、そんなことを考えてたの? ひどくない?
せめて事前に言ってくれれば、こっちだって検討の余地があったかも知れないのに?
しかも、別れ話を切り出したのが、告白したのと同じカフェでなんて、イヤミなの?
それからしばらくは、まったくの抜け殻状態だった。
専攻している日本文学史のゼミに出ても、全てが右から左だった。
時期的に、卒論の題材を決めるぐらいはしないといけないのに、まるっきり手に付かなかった。
未練。確かにそれはあった。
だが。あまりにも強引な幕切れに、次第に、ふつふつと怒りがこみ上げてくるのが分かった。
所詮、宮本武尊も、あの程度のつまらない男だったのね。
どうやら、私がバカだったみたい。
人によっては「それって、逆恨みじゃない?」と言うかも知れない。
しかし、自分のどこに非があるのか分からない以上、その怒りには一定の正当性があるはず。
その日も、少なからぬわだかまりを抱えたまま、下宿に帰ってきた。
「なーお」
「ただいま、ゴリアテ」
もはや、大切なものは、このペットであるオスのキジトラ猫だけだ。
この子は、今の心境を分かってくれているのだろうか?
いや、猫にそれを求めるのは、少し酷かも知れない。猫は、可愛いのが仕事なのだし。
その夜。武尊にまつわる品物の一切合切を捨てた。
もらったプレゼント、スマホに入っている写真データ、
プリントアウトしてフォトフレームに入れていたツーショット、全部処分した。
LINEはブロックして、トーク履歴も全て削除した。
当然、電話帳からも彼の番号を消した。
そして、努めて冷静に、いつもの夜勤の清掃のバイトに出かけた。
機械になろう。そう思った。
もう、デートに関して思い悩む必要はない。
日程を調整するために、シフトを都合してもらうこともしなくていい。
このバイトは、単純に日々の生活費を稼ぐためだけにやればいいんだ。
ちなみに、卒業後の進路は、三年生の秋の時点で、もう決まっている。
とある商社から、事務職の内定をもらってはいた。
ただ、人並みに就活をする中、つくづく思った。
履歴書や面接などで、なぜ、会社のご機嫌を取るために、心にもない、それこそ歯の浮くようなお世辞を言わなければならばならないのか?
社会で働くというのは「そういうことだ」と頭で分かってはいても、納得はできなかった。
もういっそ、内定を辞退して、缶詰工場で「いち歯車」として、パートタイム労働者にでもなろうかとも思った。
ただ、そうなると、実家の両親に迷惑がかかる。それは避けたい。
もはや辛抱できないレベルなのだが、無理矢理にでも自己欺瞞をするしかない。
とにかく、明るかったはずの前途が、まったく理不尽に暗転してしまった。
しかし、恨みが骨髄に徹した果ては、冬の湖面のような、かえって清らかな心境だった。
その「機械になろう」という心がけが奏功したのか、忘れることは決してないにせよ、また、心の傷が癒えることは当分ないだろうにせよ、武尊のことについては「とりあえず棚上げ」させることはできるようになった。
突然の別れ話から、二週間が経っていた。
この時点では、まだ「ありふれた女」だった。
……それが徐々に、しかも激しく変わっていくなんて、思ってもいなかった。