第19話 社会現象
――藤堂のテロは、あらゆる所に影響を及ぼした。
少し、その後の「私の周辺」、つまり社会面について触れようと思う。
社会が変わるためには「ショック療法」が一番だ、と主張する、やや過激な人達がいる。
そんなタイプの人間も、今回ばかりは「ショック」の強烈さに、声を潜めるしかないようだった。
藤堂が起こした驚天動地のテロ事件は、『令和X年新宿サリン事件』として、日本の犯罪史上に深く刻まれることになった。
また「特定の組織や宗教に依らず、一個人が起こした最も大きなテロ事件」として、ギネスブックにも載った。
日本の総理大臣が事件直後に哀悼の意を述べたのはもちろんのこと、アメリカを初めとした、主だった先進国の首脳達が相次いで、果てはバチカンのローマ法王も、犠牲者を哀悼する談話を表明した。
そんな中、お隣の半島の「北のあの国」だけが、事件を嘲笑するような声明を発表し、政府が正式に抗議したのはもちろん、世間的にも「やはりあの国は滅ぼすしかない!」という空気に、一時期はなった。
話を国内に戻そう。
公共交通機関内への動物の持ち込みにも、厳重なチェックがされることになった。
善良な愛犬家、愛猫家などの一部からは「やりすぎだ」という声も上がったが、事件の重大さを鑑みると、それは仕方のないことだった。
教育現場では「いのちの大切さ」や「他人を思いやる心」がいかに大切かを、これまで以上に、とことん教えることになった。
また、これはまったく予想だにしなかった波及効果として、一時的ではあるものの、国内の犯罪発生率が、若干下がった。
個人的な怨恨が原因が動機のものはさておき、自己顕示や承認欲求を得るための犯罪ならば、藤堂拳には到底及ばないと理解したからだろう、という専門家の見解だった。
いつしか「藤堂拳」という言葉は、「人でなし」とか「極悪人」を表すスラングとして定着した。
ただし、あまりに軽々しく使うと、事件の犠牲者や関係者を傷つけるだろうという意味で、次第に「禁句」あるいは「超えてはならない一線を犯す罵倒の言葉」という位置づけに変わっていった。
とばっちりとして聞いた話では、世の他の「藤堂」姓の人々が、「奴と血縁関係にないか?」と、他人から痛くもない腹を探られて、大変迷惑したらしい。
それと同じく「拳」という名前も忌避された。
同名はもちろんのこと、「拳一郎」、「拳太」、「拳助」など、とにかく名前に「拳」の字が入っているだけで、子どもはイジメの対象になり、大人でも周囲から白眼視された。
よって、該当する人々(あるいは子どもの親)はこぞって家庭裁判所へ行って、改名の手続きを踏んだ。
藤堂を断罪する関連書籍も、多数出版された。
奴の心の闇に迫ろうとする、精神科医の著作もあった。
いくつか読んでみたのだが、単に藤堂を「稀代の極悪人」としてこき下ろしているだけだった。
いや、この言い方は、奴に擁護すべき点がある、という意味では決してないのだが。
精神分析を試みた著作にしても似たり寄ったりで、要するに、
「藤堂はとことん病んでいた。そして本人には、病識が皆無だった」
という、お決まりの結論に持って行っているのがほとんどだった。
これは仮にも奴と少し交流した、私の個人的な意見だが、藤堂は「病んでいた、いなかった」とか「病識の有無」という尺度では測れないと思う。
奴は、「生まれる世界線を間違えた」のだ。
より分かりやすく言うなら……少々オカルトめいた表現になるが、価値観から何から、もしかしたら細胞や遺伝子レベルで根本的に違う、宇宙人のような存在だったと言える「かも」知れない。
言わば、「既知の認識の外側」にいた者。
そんな奴が、仮に精神科にかかって、いかなる薬を投与されたところで、改善の見込みはないだろう。
事件を題材にした映画なども、複数制作された。
中には、
「こんな人間を生み出した、現代の日本社会の歪みが悪い」
と言いたいらしいものもあった。
その映画に関しては、監督のインタビューを見ただけで、本編の詳細は知らない。
ただ、私にしか分からない感慨だし、別にその作品を観もせずにケチをつけるつもりなどないが、「ちょっと違うな」とは思った。
なぜなら、その映画を作った監督の言いたいことは分かるにせよ、先述の通り、奴は「歪んだ社会が生んだ悪」ではない。
「生まれる世界線を間違えた人間」だからだ。あくまで、私に言わせれば、だが。
ただし、念を押しておくが、この解釈は、奴が裁かれるべきではなかったという意味では決してない。
そこだけは勘違いをしないで欲しいと、切に願う。
それにしても、「奴が普通に存在しうる世界線」とは、どんなところなのだろう?
考えかけて、すぐにやめた。
想像ができるか否か以前に、そんなまさしく「異次元」の事に思考のリソースを割くだけ無駄だろう、と、さすがに分かったからだ。
……もう少し、奴の周辺についての話は続く。




