第三章~恐怖の「お手本」 第11話 悪魔
――「悪魔」以上の非道さを目の当たりにした時、どうする?
そう。私は「そういう奴」と対峙していた。
藤堂の奴が、「お手本」を見せる、と言ってから、ちょうど二週間後。
ラッシュアワーのJR新宿駅に、サリンが撒き散らかされ、地獄が発生した。
全てのテレビが緊急特番に切り替わり、世間は、大パニックに陥ったのだ。
――ここで、話が冒頭に戻る。
まさか、まさか、まさか!?
息を切らせながら、藤堂のマンションに着いた。
手が、いや、全身が震えていた。
奴は、オートロックを開ける時の、インターホン越しにも声が弾んでいた。
招かれて、部屋に入った。
奴は、満面の笑みだった。
「いやー、痛快なことが起きたねえ!」
私にコーラを勧め、自らは以前同様アールグレイティーのボトル。
それを、ぐびり、と、さも美味そうにあおって、奴は言った。
その口ぶりは、例えば、総合格闘技の試合において、挑戦者がチャンピオンを華麗なハイキックでKOしたことに、健全なカタルシスを覚えたようなものだった。
藤堂が、やはり「ニチャア」と口角を吊り上げた。
「ふふふ、『お手本』は、参考になったかな?」
「な――」
正しく、凍り付いた。
いや、「そうかもしれない」と、嫌な予感はしていて、だから今、ここにいるのだが!
「あれは……あのテロは、あなたがやったの!?」
「ああ、そうだよ」
明らかに誇らしく、澄み切った目と清々しいまでの笑顔で、藤堂は言った。
……違う。
違う、違う、違う!!
今、こいつに聞いたのは!
「今朝、歯はしっかり磨いたの?」
とか、
「相変わらず、ランチは唐揚げ定食?」
などといった、そんな日常の些末なことではない!!
しかし、奴の答え方は、それぐらい軽かった!!
「あ――」
自分が何を言おうとしていたのかさえ、分からなかった。
ただ、「二の句が継げない」というのはこのことか、と、奇妙に己を俯瞰していた。
悪魔だ。この男を悪魔と言わずして、何と言おうか。
今。今この場で通報すべきだ。
そう思って、スマホを取り出した時だった。それを見とがめた藤堂が、いやに芝居がかった調子で言った。
「おおっとぉ? 君に、通報する資格はあるのかぁい?」
おどけていながら、余裕に満ちた物言いだった。諭すように続ける。
「言っただろ? これは『お手本』だって。木戸さんが『世界を征服したい』と言ったからこそ、サンプルを見せるために、僕はやったんだ。つまり、全ての発端は君なんだよ? そこを忘れてもらっちゃ困るなあ?」
「そ――」
息を呑んだ。
そうだ。その通りだ。私が「世界を征服したい」と言ったから……!
……私が、全ての、発端なのだ。
その事実を突きつけられ、全身が砂になって崩れそうな気持ちの中、藤堂は、聞きもしないことをべらべらと話し始めた。
「分かったかい? 上を狙うより下だよ。いやあ、やっぱり下々の愚民を従わせるには、暴力と恐怖が一番効くなあ! 議論なんか、バカどものすることさ! しかし、こうも狙い通りに成功すると、まさしく胸のすく思いがするね!」
ふと、去年だったか一昨年だったかの夏休みに帰省した折、実家で父親が塩ゆでの枝豆をツマミにビールを飲みながら、
「ビールには、塩ゆでの枝豆が一番合うなあ!」
と笑っていたのを思い出した。
またあるいは、
「ホットケーキには、ハチミツよりもやっぱりメイプルシロップだよね!」
といったような、ありふれた趣味嗜好を嬉々として語る調子そのままだった。
「自殺願望のあるホームレスのジジイぐらい、簡単に見つかるもんだし、いやあ、駒にも恵まれたよ! 防犯カメラのハックなんて、朝飯前だしね!」
さらに聞きもしないことを話す藤堂。確認のために、震える声で聞いてみた。
「猫を駅に放した男も、あなたがそそのかしたのね?」
「そそのかしたとは、ひどい言い方だなあ? 僕はただ、死にたがってるジジイに、青酸カリを報酬に、一仕事依頼しただけだよ?」
心外そうに口を尖らせる藤堂だった。
まさしく、
「友だちに、コンビニでおやつを買ってきてもらったから、お釣りをお駄賃に上げたよ」
みたいな言いようだった。
「あ、あなたは……人の命をなんだと思ってるの!?」
「うん? じゃあ逆に聞いてもいいかい? 君は、部屋の片隅に溜まった綿ぼこりを、後生大事に宝箱に入れておいたり、部屋に湧いたゴキブリに、名前を付けてペットにするのかい?」
「ど、どういう意味よ?」
「つまり、僕以外の存在なんか、全部ゴミ虫ってことだよ」
道端で猫を見て、「あれは犬かな?」と問う者などいないように。
「太陽って西から昇るんだっけ?」と聞く者などいないように。
どこまでも澄み切った目で、藤堂は断言した。
自分勝手とか、自己中心的とかいうレベルではなかった。
また同時に、比喩として言っているのではないと確信できた。
この男は、何らの疑いもなく、自分以外の他人全てを「ゴミ虫」だと思っているのだ。
率直に「人でなし」だと思った。
慄然としている私に、まるで子どものいたずらをとがめるがごとく、奴は言った。
「けど、木戸さん? くどいようだけど、忘れちゃダメだよ? 言い出しっぺは君だ。言わば僕は、君に従ってやっただけだからね?」
その時、やっと分かった。全ては遅すぎたが。
要するに、この男は共犯者……いや、罪をなすりつける相手が欲しかっただけなのだと。
そんな内心を読んだかのように、藤堂が言う。
「別に、通報したかったらやっていいよ? その代わり、僕は警察に、遠慮なく『木戸征美って女の指示でやった』って言うから」
「……ひっ……」
「でもまあ、そこまで悲観したもんでもないよ? なんせ、ゴミ虫をちょっとばかり殺しただけだから、罪に問われたとしても、軽い軽い。あははっ」
……この男は、どこの世界線の話をしているのだろう?
あんな未曾有のテロを起こして、それが「軽い罪」なのだと、本気で思っているらしい。
いや、それよりも。
私が、全ての発端なのだ。
……目の前の景色が、誇張抜きで、ぐにゃりと歪んだ。




