第一章 三話 孤独な皇子
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「……ここまで連れて来てくれたことに感謝する」
蔓を使って器用に崖を登っていく男の姿を見送りながら、淑はひとりつぶやいた。
洞穴のふちに立つと、まさにそこは断崖絶壁であった。向こうの山もうっすらとしか見えないほどに霞がかかっており、雲は自らの下にある。道士となった自分が死を待つ場所として、ぴったりの場所に思える。
しかし、淑は少しだけ未練があった。
もし自分が、苑国の第三皇子でなければ、あの男は一緒に逃げてくれただろうか?
細身に見えて鍛えられた体つき、淑が見あげなければならないほど背が高く、墨で描いたような真っ直ぐな眉と大きな瞳が印象的な男であった。それに驚くほど俊敏で、藪の中を自分を抱えたまま、あれだけ速く駆けられるというのは、苑国の兵の中でも特に訓練されたものだとわかる。何より蔓があったとはいえ、この崖を人ひとり抱えたまま、洞穴に飛び込むだけの勇気を持つ男はそういないだろう。
「あれとなら一緒に西方へ行けたろうに」
淑はまたひとりつぶやくと、ふところから自らの手ほどの袋を取り出した。
濃紺の使い込まれた袋である。そこここに刺繍が施してあるが、贅のためではない。簡単に破れないようにするためだ。淑が袋から取り出したのは火打ち石であった。
今から死ぬというのに、火を起こす必要があるのか……
しかし、それは淑にとって、あるひととの思い出の品でもある。この火打ち石をくれたのは山人と名乗る、その後、淑の師となる男であった。淑が彼と初めて会ったのは東方の乱が始まった頃だ。その頃、苑国は長年の平和にまどろんでいた。そのせいで、東方で発起した武士団に簡単に都である洛都を奪われた。まだ五歳の淑は、皇帝であった父はもちろん、兄、まだ幼い妹、そして母の林皇后らともに西方の町、龍武へ逃れなければならなかった。
父である皇帝は龍武で挙兵。その間、贅を尽くした都の生活になれた母林皇后は見知らぬ土地の不自由な暮らしに慣れず、淑や幼い妹を気にかけることさえなかった。そんな淑の面倒を見てくれたのは、龍武に駆けつけた父の幼い頃からの友人、山人だったのである。
彼は軍師としてまた友人として皇帝に様々な助言をしながら、まだ幼い淑をそばに起き、書を教えてくれた。もちろん本などない戦地、しかし書の全ては彼の頭の中にあった。淑はそれを一緒に諳んじ、時には地面に文字を書いて覚えた。彼はまさに淑の最初の師であり、父親代わりであった。だが淑の長兄第一皇子が謀反を疑われた時、彼もまた宮廷を追われた。その別れ際に手渡してくれたのがこの火打ち石である。
山人はその大きな穏やかな瞳で淑を見つめると言った。
『これは小さな石だが大きな炎を起こす力がある』
『そなたもそのような男になりなさい』
そのような男になれず、申し訳ない……
山人に謝りながら、淑は、洞穴に散らばった枯れ葉を集め、火を起こす。すると奥で何かが動くのがわかった。
ぐるる……
淑は思わず飛びのいた。獣のうなり声だ。
火を早く……!
淑は慌てて枯れ葉に息を吹きかけ、火を大きくしようとする。しかし、それより早く獣の目が光った。その時だった。
シュッ……!
耳の横を何かが通り過ぎた。
ドゥッ……!グルルルゥ……ウゥ……
何かが突き刺さる音と同時に獣の断末魔が聞こえた。耳横を通り過ぎたのは矢のようであった。淑は驚いて振り返る。あの男が洞穴の外から小型の弓矢を射ったのだ。宙に浮いたままで。いや、正しくは自らの体に縄を巻き、崖の上からぶら下がった状態で、弓を引いたのだ。
淑の驚きをよそに男が洞穴に飛び込んできた。縄をほどき、そのまま一気に奥へと走る。しばらくすると奥から男の声が聞こえた。
「大丈夫だ、ずいぶん大きな山猫だったが、もう死んでいる」
その途端、淑の目から何かがあふれた。涙だ。それも、ぼたぼたと途切れることなく洞穴の床を濡らす。淑は驚いてそれを見つめた。今まで一度も泣いたことなどないのに。
「どうした」
男が驚いた様子で、駆け寄ってくる。淑は思わず男にしがみつく。淑は泣きながら、つぶやいた。
「死など恐れぬと思っていた。ひとは必ず死ぬのだから」
涙がさらに溢れ、男の靴を濡らす。
「なのに怖かった、怖くて泣くなどとも……思わなかった……」
驚いたことに、男が淑の頭を掻き抱いた。そして、まるで兄のように優しくつぶやく。
「怖いのは当たり前だ。俺もお前ぐらいの時、戦場に出た。死ぬなど怖くないと思っていた」
男が上を見上げるのがわかる。
「しかし、死ぬかと思った時、気がつけば泣いていたよ」
淑は泣いた。はじめて。子供のように。
*
良い匂いがする。
ふと顔をあげると、男が自分の起こした火の上に、脚付きの鍋を置き何やら作っている。
「やっと目が覚めたか」
男が、あの大きな目を細める。みれば淑は横になっていた。逃げた時に使った布が体にかけられている。どうやら泣きつかれて眠ってしまったらしい。淑は恥ずかしさで、ほおが赤らむのを感じた。
「まるで子供のようだ」
淑の言葉に男が答える。
「いいんだ、お前はまだ十六かそこらだろう?皇子だろうが道士だろうが、怖いものは怖い」
そのとおりだが……
淑はこれ以上この話をしたくなかった。そこで男に聞く。
「なぜ戻ってきた」
男が無表情で答える。
「言っただろう、俺はお前をいつでも殺せる」
淑は男が自らを仇の子と思っていることを思い出した。単に助けに来てくれたわけではないのだ。そう思うと、胸がきゅんと痛む。すると男が思いがけないことを言った。
「だが、お前を殺したら喜ぶ奴がいて、反対にお前を生かして西丹に送り届けたいものもいる事がわかった。それぞれ誰で、なぜこんな事になっているかを知るまで、俺はお前を殺したくない」
鍋をかきまぜながら、男が話し続ける。
「さっき上に戻った時には、まだ道に馬車や荷台が残っていた」
「中を見れば香料やら髪飾りやら明らかに西丹への嫁入り道具と思われるものが入っていた。皇帝がお前を殺すために用意した行列ならそんなものは必要ない、石でも積んでおけばいい」
淑はその言葉に安堵した。少なくとも父が自分を狙ったのではないようだ。
「どのような手はずになっていた?」
男の問いに、淑は戸惑った。これは父と山人とだけが知ることだ。しかし、仇の子というのに二度も助けてくれ、さらに命を狙われる理由がわからねば殺さないという男に何も話さないわけにはいかない。
「私が龍武まであの馬車で輿入れの品々を運び、妹とそこで入れ替わる予定だった。それを知っているのは父と山人のみのはず」
男はうなずくと、さらに聞いた。
「で、輿入れの行列を用意したのは?」
「現宰相の李陵国と聞いている」
男はその墨で書いたような眉を潜める。その時だった。淑のおなかがぐーとなる。淑は思わず真っ赤になった。男が、鍋の中のものをすくいながら笑う。
「まあ、とりあえず粥でも食べて、それからだ」
そう言って、男は椀を渡す。薬草が入っているのか良い匂いだ。淑はそれを受け取りながら、遠慮がちに聞く。
「その……わたくしはそなたの名も聞いていない」
「いつかお前を殺す男の名を聞くのか?」
「少なくとも謎が解けるまで殺さないであろう?」
淑の切り返しに男はにやりと笑った。
「俺は張弦、あざなは思源、お前は?」
「私のあざなは子恩、皇子だったが一度死んで今や道士の弟子、皆わたくしを子恩と呼ぶ」
淑の言葉に、男が大きな瞳を細めて微笑んだ。その笑顔が嬉しくて、淑は男が作った粥を口にする。塩加減もちょうど良く何より温かい。いや、それ以上に、何か温かいものが心を満たすのを淑は感じた。