一話 龍武 その一
他サイトに掲載したものを改稿して連載しております。毎日8:00、21:00の二回更新!
ザッザッザッザッ……
馬の蹄が砂を喰む音が響く。
交易商人のものとしてはずいぶんと豪華な馬車が国境の町龍武にまさに着こうとしていた。淑は物見窓を開け、外を見た。そこには所々に草地があるだけの荒涼とした広い土地があるばかりだ。淑は九年の歳月をかけ、ここに戻ってきたのだ。
十一年前、苑国は東方で発起した反乱軍に都洛都を奪われ、皇帝であった父李逵がこの西方の地に仮の都を建てた。淑も妹の蘭、そして母であり林皇后とともにこの地に住まい、父李逵、異母兄の涼、景らが反乱軍と戦い、洛都を奪還するまでの三年間、ここで暮らしたのである。
そして、今向かいに座る男は、父の幼い頃からの友人であり道士である山人と共に、父に仕え兄ふたりを影ながら支えた楊であった。楊の猫のように丸く、だが抜け目ない目が淑をみているのがわかる。
「なつかしいか」
「いえ」
淑は短く答えた。しかし、それ以上話すことはできない。
むしろなぜわたしはここで死ななかったのか不思議です……
そう答えたくなるからだ。
東方の乱で活躍した長兄涼は、淑の母林皇后の進言で謀反の罪により洛都の地を踏むことなく、この地で処刑された。後に謀られたとわかり、林皇后とその一族、さらには林皇后と共謀した時の宰相陽志明らが、兄と同じこの地で処刑された。
しかし本来なら処刑されるはずの淑は、山人の努力により、道士の弟子として生き直すことになった。淑は車内を見回す。そこには楊と自分しかいない。ついに我慢できず淑は楊に聞いた。
「なぜ張殿は一緒に来られなかったのですか?」
楊は微笑んだが、相変わらずあの猫のような丸い目は笑っていない。
「今朝も話したが、護衛の仕事で急に旅立たなくてはならなかったのだ」
「しかし……」
淑は涙があふれそうになりまた物見窓から外を見た。
何かがあったはず……
最後に会った時、淑は張弦と楊の間に何か緊張感のようなものを感じた。何があったかは聞けない。普段楊は交易商を名乗ってはいるが、以前は特殊な任務についていたらしい。張弦を消すのも造作ない。そこまで考え淑はぶるりと体を震わせた。
つい昨日まで楊を信用していた。処刑から淑を救い出したのは楊である。しがみつく淑を荷物のようになれと叱り飛ばし、まさに張弦と同じように自分を抱えて藪を走りぬけ、山人の待つ山まで連れていってくれた。だから今回も張弦に同じことをされた時、どうすればよいかわかったのである。その後も楊は山人とふたり、淑の面倒を見てくれた。それなのにそのようなことを考えるとは。楊が静かに聞く。
「俺が信じられないか?」
「いえ、ただ、ちゃんとお別れをしたかったのです」
淑はつぶやいた。張弦が旅立った頃、淑は峠超えと天涼での襲撃で疲れ果て寝てしまっていたらしい。そして今朝、そのことを告げられたのが悔しくてならない。めずらしく楊の目が優しく淑を見つめる。
「あいつは宮廷衛兵だ、お前が皇族に戻ればすぐに会える」
「え?」
「今回の旅でお前が生きているとなれば皇族に戻る話しは出るだろう。少なくとも、景はお前の名誉を回復してそばに置き、その知恵を借りたいと思っている。気がついていたろう?だからまた必ず会える」
淑は唇をぎゅっと噛み締めた。
「ごめんなさい……」
楊を一瞬でも疑った自分を恥じる。
でも、もうその機会はないかもしれない……
淑がそう考えた時、馬車が止まった。途端に御簾が引き上げられる。
「兄様!」
そこに立っていたのは亜麻色の髪を持つ少女であった。髪の色と同じ明るい笑顔で、両手を広げている。
「蘭!」
淑も思わず馬車を飛び降り、その手に飛び込んだ。
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