第一章 二話 仇敵
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「本当に落ちたのか!?」
頭上で声がする。張弦は、そばに近づく少年の気配を感じ、来るなとばかりに手で制した。
実際には、ふたりは崖から落ちたのではなかった。張弦は崖そばの木から太い蔓が垂れているのに気づき、こっそりとそれにつかまり、わざと大声を上げて崖から落ちてみせたのである。そして、そのまま、崖下のくぼみとなっているところに、少年ともども飛び込んだのだ。
このあたりの崖には、地下水が流れているせいか斜面にこのようなくぼみがいくつも空いていることを、張弦は知っていた。ただ、ふたりの体重をささえるだけの蔓があり、最初に見つけたくぼみが、くぼみというよりほら穴で少年とふたり十分に隠れることができたのは幸運としかいいようがない。
頭上の林では飛び降りたふたりを探す音がしばらく聞こえたが、ついにひとりが声をあげる。
「もういいだろう。お前は目の前でふたりが落ちるところを見たのだろう?」
「しかし……」
ひとりはまだ不満そうな声をあげる。最後まで追ってきた男の声だ。それを説得しようとしてか、またひとりが大きな声をあげた。
「あのものは勝手に崖から落ちた!そこまで追いつめた証拠だ!宰相様に申し訳は立つ!」
あのもの……?宰相……?
張弦はなんとかこの状況を理解しようとする。
この輿入れを阻止しようとしたのは宰相なのか?そもそも皇女をあのものと呼ぶか……
その間にも男たちが崖を離れていく足音が聞こる。それがもう聞こえなくなった時、張弦は思わず振り返って叫んだ。
「お前は一体何者だ?」
少年はその長いまつげを伏せると、静かに告げた。
「わたくしは、苑国第三皇子淑だ」
「なっ……」
その名に、張弦は体中がこわばるのを感じた。それは、張弦のあまりに悲しい思い出に刻み込まれた名であった。
*
それは東方の乱の戦火がおさまったばかりの頃であった。まだ十代の張弦は上役にしがみついた。
「なぜ、なぜ、兄さんが……!」
目の前を、後ろ手に縄で縛られた兄が連れて行かれていく。上役の将軍が面倒そうに張弦に答える。
「平原王の謀反に加担したのだ、仕方がないだろう」
「そんなはずはないっ!」
兄は高潔だった。なにより、その主である平原王も東方の乱で苑国を守るため一番の戦果を上げた方のはずだ。その上、平原王は現皇帝の第一皇子ではないか。なぜ、謀反など……。その時、白装束を着せられた兄が振り向いた。その目がしっかりと弟を見据える。
「母上を頼むぞ」
「兄さんっ……!」
そのまま、兄は帰って来なかった。
*
何も言えぬ張弦に、皇子が少年らしからぬ美しいが低く威厳のある声で聞く。
「そなたは平原王と一緒に戦ったものであるな?」
そう言うと、皇子はまっすぐに張弦を見つめる。
「わたくしの母がすまなかった」
皇子はそう言うと頭を下げた。張弦にはその姿に見覚えがあった。平原王に謀反の兆しがあると皇帝に進言した林皇后だ。
同じように肌は雪のように白く、唇は紅をさしてもいないのに薄桃色で、それでいてその目は猫のように鋭かった。平原王が謀反の罪で死を賜ってから三年後、それが林皇后と時の宰相陽志明のはかりごととわかった時、林皇后もまた死を賜った。その前に、亡き平原王の配下の前で、頭を下げたのである。途端に、張弦には目の前の少年が今まで見えていた美しい少年ではなくまがまがしいあの女に見える。思わず刀に手がかかる。皇子は長いまつげを伏せたまま動かない。まるで殺されて当然だと思っているかのように。
くっ……
張弦は天を仰いだ。そしてつぶやいた。
「それより、なぜお前が皇女の代わりに乗っていたのだ」
皇子は驚いたように張弦にを見つめた。張弦はその林皇后のものよりずっと澄んでいることに気づく。張弦は思わず目を反らすと叫んだ。
「何より、なぜお前は今でも生きているのだ!?」
皇子は長いまつげをもう一度伏せた。
「お前のことはいつでも殺せる、すぐ答えよ!」
皇子の薄茶色の鋭い瞳に一瞬影がさす。しかし、その声に恐れはない。
「まず、妹、皇女だが、別の道を通って西方へ向かっている」
皇子はたんたんと話し続ける。
「この婚礼を邪魔立てする者たちが妹に何をしでかすかわからぬからだ」
「それで、偽の行列を?」
張弦の問いに、皇子がうなずく。
「……父上に頼まれた」
張弦は愕然とした。この茶番は、偽の行列にこの皇子が乗っていると知っているものが仕掛けたのだろう。となれば、皇帝が自分の息子を殺すために仕掛けた可能性がある。
「しかし、お前は本来……」
張弦はつい目の前にいるのが皇子だというのに、ぞんざいな口の聞き方をしてしまう。しかし、皇子は気にするどころか静かに答える。
「そうだ、わたくしはもともと母上が死を賜った時、一緒に死を賜るはずだった」
苑国では、重罪の場合、犯罪を犯したものだけでなく、その家族、父、妻子、時には孫や臣下も死罪となる。族誅と呼ばれるこの習慣は、何も苑国に限ったことではない。古代から続く法だ。
「しかし、それでは皇子がひとりになってしまうとの懸念があったようだ。そこで、わたくしは山人と呼ばれる道教につかえる方の弟子として生き直すことになった」
張弦は声も出なかった。冤罪で兄は死罪となったのに、それを仕掛けた林皇后の子が生きているとは。
「平原王の身の回りのものから見れば、私が生きていることは不当だと思うだろう」
「当たり前だ!」
張弦は思わず叫んだ。しかし、まだわからないことがある。なぜ、あの男たちは皇女と呼ばず、あのものと呼んだのか?宰相はなぜこの行列を狙ったのか。張弦はなんとか気持ちを落ち着かせると、さらに聞いた。
「お前が身代わりだと知っているのは他に誰がいる」
「父上に山を降りよと言われた、山人と父上以外のものは知らぬはずだ」
しかし、少なくとももうひとりいる。張弦の頭の中に、自分に命を下したあの方の顔が思い浮かぶ。
俺に護衛を頼んだということは、これ以上皇帝に子を殺させたくなかった……?
現皇帝は平原王、つまり第一皇子に死を賜っている。しかし、皇子は三人しかいない上、現皇帝は体が弱く、これ以上の子は望めないという話もある。そんな状態で林皇后の皇子まで死罪にすれば、現皇帝の血をひく皇子はたったひとり、第二皇子しか残らない。冤罪で兄を殺された張弦に、その冤罪を仕掛けた者の子の護衛を頼むとは、あまりにも酷な話だ。
張弦はふらりと立ち上がった。そして、洞穴の前に、ぶらりと下がった蔓をつかむ。
「どこへ?」
皇子の声に、張弦はぎろりと皇子を睨む。
「どこでもいいだろう、もし俺が帰って来なければお前はここで餓死するのみ」
皇子がまた長いまつげを伏せる。
雪のように白い肌、揃えられた美しい長い指、萌黄色の美しい着物に包まれた女のように細く小柄な体……
それはあまりにもはかなげで、今にも消えそうだ。
張弦はその姿を振り払うように頭を振ると蔓をもう一度握り直した。