二話 峠越え その三
他サイトに掲載したものを改稿して連載しております。毎日8:00、21:00の二回更新!
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淑が泣いたり怒ったりしたせいか、少し遅く山の中腹についた。とはいえもうこのあたりは西方の気候らしく、雨風を凌ぐような森はもうない。ただ背の低い木々と岩場があるだけだ。
これは夜、寒くなりそうだ……
張弦は風よけになりそうな岩場のくぼみをみつけると、そこを今夜の寝床と決めた。淑はといえば、さっき泣いたからか、黙ってせっせと火を起こしている。張弦がとなりに座ると、まだ赤い顔をして恥ずかしそうに言う。
「さきほどは失礼しました」
「いいんだ、疲れたんだろう」
そういって張弦は淑が起こしてくれた火を使って湯を沸かす。まだ義姉上が作った胡餅が残っている。小麦粉を練っただけのものだが義姉のものは塩加減がちょうど良い。これと淑の薬草茶で間に合うだろう。
淑が手慣れた様子で自ら調合したらしい薬草茶を入れてくれる。朝と夜とは味が違う。朝は薄荷が入っていてすっきりとした味わいで、夜は優しい花の匂いがし、眠りを誘う。
それが終わると、淑は日栄が野営用に使っていたという西方の軽いが温かい布を使って寝床を作る。それもふたりぶんきっちりとだ。泣くほど疲れていたはずなのに、いつもどおり完璧にこなす様子にむしろ感心する。
「お前はもっと自信を持っていいぞ」
つい張弦は言った。
「いつもがんばりすぎだ、少し肩の力を抜け」
淑が目を丸くする。
「しかし、兄上たちは……」
「俺達が龍武にいた頃、おまえはせいぜい七歳だったはず、同じようにする必要はないんだ」
淑は小さく身を縮める。ふと、張弦は思う。
こいつには、たとえ俺が許しても自分に自信を持てない何かがあるのでは……
「疲れただろう、今日はもう寝ろ」
そう言いながら、張弦は淑を寝床に促す。そして自分も隣に横になり、淑に聞く。
「お前は本当に俺以外の前で泣いたことがないんだな」
淑がこくりとうなずく。
「山人の前では?」
「山人は師です」
「陛下、いや父親は、母親は?」
火に照らされた淑の顔が途端に暗くなる。
淑がしぼり出すように言った。
「父上はわたくしが嫌いでした……私の顔が母上に似ているから。このような顔が国を傾けると言われました」
とたんに淑の顔に、林皇后の顔が重なった。雪のように白く、唇は紅をさしてもいないのに薄い桃色で、綺麗な弧を描いている。そして、まるで猫のように誰にも媚びぬとばかりの薄茶色の瞳がこちらを見ている。張弦は慌ててその幻想を振り払う。
そうか……
張弦はやっと気づいた。目の前にはただ怯えた少年しかいない。それなのに皆この少年の向こうにあの后の顔を思い出す。そして、この少年もまた自分の顔を見るたびに母の罪をそして自分の罪を思い出す。しかし、淑はまだ何か言いたげな顔をしている。張弦は手を伸ばすとそのほおをなでた。
「俺はお前の兄だ、全部話してしまえ」
また淑の雪のように白い頬につーっと涙がつたわった。
「それだけは言えません。あまりに重い罪です」
そう言うと淑は下を向く。しかし、張弦はあきらめることができなかった。
「無理にとは言わぬ、だがもうすぐ旅が終わる、兄として、友としてもう少しだけ知っておきたい」
淑の肩がふるえた。そして、ついに顔を上げると、あの薄桃色の唇を開いた。
「あの頃、父は戦で、ほとんど私達のいるところには来ることはありませんでした」
「そして……母はそばに常にほめそやすひとがいないとだめなひとだったのでございます」
ああ……
張弦はやっと意味がわかった。今思えば、龍武はまともな宮廷がなかった。後宮の出入りも管理されていなかっただろう。となれば淑がみたものは子供にとってあまりにもおぞましい母の罪だ。思わず張弦は淑を掻き抱いた。
「全部忘れろ、それはお前の罪ではない」
張弦は自分の布を淑にかける。そしてもう一度抱きしめる淑も張弦にしがみつく。張弦はその小柄さとは裏腹に温かい淑の背を撫でながらつぶやく。
「お前は温かい、優しく人を見る目を持っている、そんなお前は母とは違う、ひとの罪を背負うな」
しかし淑は答えなかった。ただただ泣いているようだった。
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