三話 少年医師 その三
他サイトに掲載したものを改稿して連載しております。毎日8:00、21:00の二回更新!
土壁の家にさし込む朝の光の中、日栄は寝息を立てている。
「お前のおかげでこいつは助かったな」
「いえ、ごく普通のことをしただけです」
これがごく普通か……
あれから一晩、淑はほぼ寝ずに看病を続けた。まずは湯を沸かし、部屋を温め、目が覚めればあの濃紺の袋の中にあったのだろう薬湯を飲ませ、鶏汁を少しずつでも食べさせる。汗が出るようになれば、今度は着替えをさせ、体中綺麗に拭いてやる。それをひと晩繰り返す。それを根気よく看病を続ける少年が皇子とは思えない。おかげで日栄の顔色は良くなり、咳も落ち着き、熱も下がったようだった。突然淑が張弦の方を向くと頭を下げた。
「それより先ほどは申し訳なかった」
「いや、こっちこそ悪かった、俺が気づくべきだった」
昼間から布団を敷いて寝ているのだ。どこか悪いと想像するのが当たり前だろう。
「それにしても、まさか、お前、医術にも長けていたとは」
すると、淑がふっと笑った。
「道士とて霞を食べて生きるわけにはいかない」
「私達道士は修行中山にこもるため薬草などに詳しくなります。そこで、山人はその知恵を使って麓のものたちの医師代わりとなっておりました。その代わり、野菜や雑穀などを分けていただくのです」
「なるほど……」
すると、淑が遠慮がちに聞く。
「それにしても……張殿はなぜこの方を」
その途端、張弦の中に忘れていた怒りが思い出される。義姉との関係とは別にどうしても許せないことがあった。張弦はしぼり出すように言った。
「……こいつは反乱軍側の間者だった」
「こいつは地図を作る部署にいたのだが、持ち出し禁止の苑国の地図を盗んだんだ。高明王、つまり第二皇子がそれを見つけて未遂に終わった、その上今までの貢献とかで罪は不問してくれたのに。乱が終わったらすぐに消えたくせに、結局は義姉を頼ってきやがった」
苦々しげにつぶやく張弦に対し淑はさらに聞く。
「諱を呼ぶところを見ると、日殿は張殿より年下、身分も下ですよね」
「ああひとつ年下だ、たまたま俺が少年兵のまとめをしていたからこいつも俺の部下になっただけのことだが」
東方の乱では兵が足りず、まだ十分に訓練されてもいない少年たちも駆りだされた。あの頃の苦々しい経験が思い出される。張弦の思いを知ってか知らずか、淑がしばらく考えむ。そしてやっと口を開いた。
「日殿は非常に記憶力が良いのでは?」
「確かに……一度通った道は忘れないとかで、すぐ地図を書くところにまわされた」
「地図を盗んだというのはいつ頃?」
「ちょうど乱が終わるか終わらないかの頃だ」
それを聞いて、淑が小さく息を吐いた。
「……もしかすれば、日殿は反乱軍のために地図を盗んだのではないのかもしれません」
「どういうことだ」
張弦は思わず声を荒げた。それをかわすかのように淑は話題を変える。
「私の師、山人は一度諳んじれば本の内容を覚えてしまいます、まるで読めば頭にその本がおさまるかのように」
そして、淑の薄茶色の瞳が張弦を静かに見つめる。
「日殿も、きっと山人と同じように、一度歩けば頭の中に地図ができるのです。ならば地図など盗む必要はないはず、間者であれば反乱軍側で地図を描けば良い。日殿がもし地図を盗んだとしたなら、苑国公式の地図である印が重要だったのでは」
「あっ……」
張弦は思わず声をあげた。しかしまだ信じられない。
淑がおだやかな声で話し始める。
「東の海に浮かぶ東国と呼ばれる小さな国があります。苑はそこから何人もの留学生を受け入れていましたが、苑国名をつけざるを得ないときもあったとか。その時、彼らは好んで日という苗字を使ったそうです。自分たちはここよりもさらに東、つまり日出ずる国から来たと」
淑がさらに続ける。
「また、留学生の中には、こちらで妻を娶り子を成したものもいたそうです。ただ東方の乱で国に逃げる際、妻子は連れ帰れなかったと聞きます……よほどの手土産がない限り」
ああ……
日栄の顔を見つめた。
筆ですっと書いたような眉や目、細い鼻、薄い唇、白い肌、細面の顔立ち……
確かに苑国のものとは違うところがある。淑も日栄の顔を見つめながら小さくつぶやいた。
「兄上はそれに気づいて罰しなかったのでしょう、または、これだけの才能、手元に置かなければ危険な存在となります」
張弦は思わず顔を覆う。
「俺は……愚かだ」
淑が静かにつぶやく。
「いえ、そんなことはありません……ただ、今回だけは、何かがそうさせたのでしょう」
そのとおりだ。しかし、これまでどれだけ呪っていたかと思うと日栄に申し訳無さすぎる。その時だった。かりかりと戸をひっかく音がする。
「小毛?」
淑が戸を開けるとするりとあのむくむくの犬が中に入ってきた。犬はまだ主人が寝ている様子を見て淑に身を寄せるようにして座る。
「温かいね、お前は」
そう言う淑に張弦はつぶやいた。
「お前こそ温かい」
「お前の人をあたたかく見る力があればこそ、この答えにたどり着いたのでは?」
しかし、答えは帰って来なかった。その代わり、肩に重みがくわわる。見れば自分の肩に淑が頭を乗せ、すうすうと寝息を立てている。
「さすがに疲れたか」
そう言うと、張弦はその頭をそっとなでた。今はその重みが心地よく、そして少し辛かった。
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