1話 非現実よ、こんにちは
「螟ァ荳亥、ォ縺具シ�」
「え?!」
目を開いた先。
そこは、どこかの森の中で、蛍の周囲を数人の屈強な男たちが取り囲んでいた。
空は真っ暗で、星が瞬いていて、どうやら今は夜らしい。
「えーー?!」
「縺薙%縺ァ菴輔r縺励※縺�k��」
「え、えっと、なに? なんて?」
「蜷榊燕縺ッ險縺医k縺具シ�」
「縺ゥ縺�@縺�」
「蜿」縺後″縺代↑縺��縺�繧阪≧縺�」
「なに?! なに?! 全っ然分かんないよーーー!!」
異世界に飛ばされてすぐ聞こえた言葉は、濁点と半濁点ばかりの、英語でも中国語でもない。
何て言っているのか、全然分からない。
こんなところで賢者になれだなんて絶対に無理だと、小鳥遊蛍は絶望に顔を染めた。
************
時は少し遡る。
夏休みを越えた先の空はどこまでも青く、白く、透き通っていた。
都立高校の、とある教室の一室から、小鳥遊蛍はぼんやりと空を眺めていた。
年老いた英語教師の口から放たれる、朗々と紡がれる言葉たちは、蛍の耳を素通りしていく。未来形だの、助動詞がどうだの、きっと受験生の自分たちにとってとても大切な話をしているのだろうが、全然頭に入ってこない。
次の授業はなんだったか。たしか体育だった気がしなくもない。嫌だな。運動は嫌いだ。
ワイシャツとスカートだけならともかく、このセーラー服というのは酷く脱ぎにくい。この黒くて長い髪も結ばないといけないし、面倒なことこの上ない。
「小鳥遊。小鳥遊蛍」
「っ! は、はい!」
「テキスト三行目の和訳をしなさい」
「は、はい! え、えーっと……」
突然の指名に、蛍は慌てて席を立った。
正直、英語は得意だ。とはいえ、言語マニアというレベルではなく、学年五位以内をキープする程度の頭だが。
教科書に目を落とすと、とある聖書の一節が載っていた。
「苦難は忍耐を生み出し、忍耐は文字を生み出し、文字は希望を生み出す」
この英語教師は、やたらと聖書が好きだ。こうして教科書内に見つける度に引用し、解説し、教科書の流れなんか一切無視して読ませるのだ。ミッション系でもないのに、なぜこんなことをさせるのか。まったく理解ができない。
「その答えは間違いだ、小鳥遊。いい線は行っているんだがな。正解は『艱難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す』だ。艱難とは、悩みや苦しみ。錬達は物事を熟知し達人の域にあることを言う。単語帳をしっかり読み込むように」
「……はぁい」
なぁにが、単語帳をしっかり読み込むように、だ。そんな単語は高校生向けではない。
周囲に座る同級生たちに憐みの視線を向けられ、教師が背を向けた瞬間に蛍は舌を出した。
はぁ。なんだってこんないい天気の日に、こんないじめを受けなければいけないのか。これはいじめだ。パワハラだ。
席に座って、蛍はまた窓の外に目を向けた。
空はこんなに青くて、白くて、透き通っているのに。
雲の隙間をたゆたう真っ白なドラゴンが、とても心地よさそうで、
ん?
「え?」
今、脳内になんという単語が浮かんだ?
ドラゴンと、言ったか?
まさか。
ここは現代日本。
魔法なんて、ドラゴンなんて存在しない現実世界だ。
それだというのに、今自分は何を雲の間に見たのか。
目をこすってみても、雲の間には何もいない。
いったい何だったのだろう、あのドラゴンは。
「(き、きっと飛行機か何かだよね)」
飛行機雲を伴った飛行機を、ドラゴンに見間違えたのだろう。きっとそうだ。
小さく咳払いをして、黒板を見る。
黒板の文字はかなり進んでいて、蛍は慌ててシャーペンを握った。
******
無事に授業を全て終えて、蛍は教室で部活動に勤しもうとしている友人たちに声をかけてから校舎を出た。
「あ、蛍ー! 部活行くー?」
「ミカー! ごめん、行かなーい!」
「わかったー! でもあんた、卒業公演の練習あるんだからちゃんと顔出しなよ! 今度カフェ行こうね!」
「うん! 行く行くー!」
高校入学式の頃から仲の良いミカの誘いに、蛍はその場でぴょんぴょん跳ねて喜んでみせた。それにミカは満足そうにサムズアップして、彼女の担当楽器を取り出した。ミカの音色を背に受けながら、蛍は廊下を歩いていく。
蛍はこれでも吹奏楽部に所属していた身だ。
夏休みに行われた全国大会で銅賞を得て、晴れて部活を卒業した。
他の友人たちはなんだかんだと理由をつけて音楽室に入り浸っているが、蛍は行かなかった。受験勉強に励むため、というのは表向きの理由で、本当は「指導する」なんて大層なことをしたくなかったからだ。
「あのドラゴン、なんだったんだろう……」
自分の見間違いであることは百も承知だが、現実逃避をしたい年頃の蛍は想いを馳せた。
真っ白で、蛇のように細長い体躯をしていて、髭も長かった。
ここまではっきりと見えたのだから、あれはきっと飛行機なんかではない。
と、そこまで考えて、蛍は頭を振った。
ここは、現代日本である。ドラゴンなんていない。
駅の改札が見えてきたので、鞄からスマートフォンを取り出す。
あと一歩で改札を抜けるという時に、なんだか視界がおかしくなった。
「あ、あれ?」
時間がゆっくりと流れるような感覚が、全身を流れる。
何が起きたのか、と瞬きするが、世界は変わらずゆっくりだった。
と、ともかく、改札を抜けなければ。
そうしたらベンチで休もう。
蛍は懸命に足を動かして、どうにか改札のタッチパネルにスマートフォンをかざした。
ピッと、機械音を遠くに聞いた。
数歩歩けば、改札の向こう側だ。
周囲の時間はまだゆっくりと動いている。
足を動かせ、蛍。そして休まなきゃ。
「あと、ちょっと……!」
懸命に歩を進めて、改札の向こう側に出た。
はずだった。
「きゃっ!」
突然、蛍の視界が真っ白に光輝いた。
何事かと両腕で目を隠してみるものの、真っ白な視界は変わらない。
「な、なに?!なんなの?!」
眼前にあった光が大きくなっていく。周囲の音が消えていく。
「わぁああ!!」
叫ぶ声すら、遠くに聞こえる始末だった。
ジッと、その場に立ち尽くしてしまって、数分。
きっと数秒だったのかもしれないが、蛍にとっては数時間とも感じた。
「う、うぅ……いったい、なんだったの……」
ゆっくりと、おそるおそる目を開けると、光はなくなっていた。
「っ!」
腕もゆっくりと下ろそうとして、蛍はそこで息を飲んだ。
周囲が、星空の中のような、妙な空間になっていた。
「な、なに、これ?!」
自分は駅にいたはずで、改札を抜けたはずで、それだというのに、今自分が立っているのは変な空間の中心だった。
立っている、というのも妙な具合で、足元には床がない。瞬く星が無数に点在する空間の中に、浮いていると言った方が正しいかもしれない。
それだというのに、足の裏には地面を感じる。
「こ、ここは……? なに、どこ? 何が起きてるの?」
その場でグルグルと回ってみても、星空の中に立っている状況は変わらない。
それに、どうして自分がこんなところに立っているのだろうか。
これは現実? 頬をつねってみると痛みを感じたから夢ではないが、現実とも思えなかった。
歩いてみようかと、一歩足を踏み出した時、突然一陣の風が吹いた。
「わっ! もう! 今度はなに?」
「すまない、わたしのせいだ」
苛立って声を荒げると、すまなそうな声が耳を掠めた。
高いような、低いような、中性的のような、不思議な声がした方を見る。
「え? ど、ドラゴン?!」
「なんだ、お主にはそう見えるのか」
蛍が見た先にいたのは、真っ白な蛇のようなドラゴンが一体、とぐろを巻いて鎮座していた。
あの時に見たドラゴンだ。
何が起きているのか。
これは果たして現実なのだろうか。
「ふふ、そのような顔をするな。現実だぞ、これは」
「ほ、本当に?」
「あぁ。残念ながら、とでも言ってほしそうだな」
「いやー、あはは、まぁ、そう、ですね……」
ドラゴンはやたらと上品に笑うと、突然光の玉に包まれた。
今度は何事か、と思ってみていると、光の玉の中から一人の男性が現れた。
いや、女性かもしれない。
蛍より少し背が高い。
顔は中性的でとても美しく、濃紺の髪を長く後ろに流している。
着ている真っ白で豪華な服は現実では見たことがないような、ローブのようにも見えるが複雑な形をしていて、刺繍も非常に凝ったものが全体に入っていた。
透き通るような肌に、大きなルビー色の目。
声も出せずに固まっている蛍を見て、その人はクスクス笑った。
「この姿の方が話しやすいかと思ってな。変えてみた」
「そ、そうですか……」
話しやすいとか、そういう次元ではないのだが。
ともかく、このドラゴンだった人はやたらと蛍を気遣ってくれて、蛍が黙っていると「寒くないか」だの「立ちっぱなしで疲れていないか」などとも言い出した。
「だ、大丈夫です! それよりも、ここはいったい……? 私は何のためにここにいるんですか?」
一応高貴な身分そうな空気を出してくるので、蛍は敬語で話した。ドラゴンもまんざらでは無さそうなので、良しとする。
「ここは、そうだなぁ、わたしの精神世界とも言うべき場所だろうか。外界から閉ざされた世界。わたしの脳内。わたしの全て。お主には、ちょっとしたお願いをしようと思ってな。呼んだんだ」
「精神世界ぃ?」
なんだか、よく分からない単語が並び始めた。
「お主……あぁ、いや、蛍と言ったか。蛍よ。お主は、昼間わたしを見たな」
あの時見たドラゴンは、間違いではなかったらしい。
なぜ名乗ってもいない自分の名前を知っているのかは横に置いておいて、おそるおそる首を縦に振ると、その人は「良い良い」と言った。
「わたしの名前はアディオペラ。頼みたいことと言うのはな、実はわたしの住まう世界に行ってほしいのだ」
「え?」
それは、いったいどういうことだろうか。
その人……もとい、アディオペラは満足そうに頷いていた。
「あなたの住まう世界って……私の住んでいる世界じゃないんですか?」
「あぁ。違う。蛍の生きる世界とは、まったく似て非なる世界だ。魔法が日常の世界。……本の中の世界、と言えば分かりやすいだろうか。そんな世界だ」
「そんな世界が、あるんですか?」
「あぁ。そこで、お主は『賢者』としての修行を積むのだ」
「え?!」
いったい全体、どういうことだ。
話がまったく見えてこない。
だが、アディオペラの中でそれはもう決定事項のようで、ニコニコと、人好きのする笑顔を浮かべている。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私、そんなこと突然言われても、なれっこないし……!」
「空を駆けるわたしを見たのだろう? それだけで十分素質がある。それにお主の魔力は凄まじい量だ! 百年に……いや、千年に一度の逸材だ! あれ? 五百年だったかな?」
「いやいやいやいや」
ついていけない。
突然そんなことを言われて、はいそうですかと納得する人間がどこにいるというのだ。
「と、ともかく! 私の世界に帰してください! 私には、私の生活があって!」
「帰って、どうする?」
「どうするって、そりゃ、前の生活に戻るだけで……」
「それではわたしの願いが叶えられないではないか」
「そんなこと……!」
そんなこと、知ったことか。
そう言えたらどんなによかっただろう。
口を開いた蛍が睨んだ先のアディオペラがしゅんと肩を落としたのを見て、なぜか蛍の舌は言葉を紡がなかった。
まるで捨てられた子犬のような、そんな表情のアディオペラ相手に、蛍は何も言えなくなってしまったのだ。
ここで自分が断ってしまったら。
いや、断ってよいのだが、それでもなぜかぐっと躊躇ってしまう。
「も、もし、その修行が終わったら、元の世界に帰してくれますか?」
あまつさえ、そんなようなことを言ってしまう始末だった。
蛍の弱弱しい言葉に、アディオペラは途端にパアッと表情を明るくしたもんだから、ますます断りづらかった。
「あぁ、もちろん! 当たり前だろう? わたしが呼んだ賢者たちは、みなそうして帰っていった」
「私以外にもいるんですか?」
「いた、が正解だ。今はいない」
そうなのか。
そういうものなのだろうか。
よく分からない。
「さて、行こうか。蛍。わたしたちの世界へ」
話は終わったとばかりに、アディオペラが手を差し伸べてくる。
あぁ、この手を取ったら終わりだ。
それだけはハッキリと分かった。
それでも、蛍はアディオペラの手を握るしかないのだった。
そっとアディオペラの手を握ると、その手はとても冷ややかだった。
「いい子だ」
そう言った途端、アディオペラの身体が発光し、その光に蛍は包まれて行く。
眩しすぎて、蛍はギュッと目を閉じた。
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