後ろ髪を引かれて
橘本家へと帰還した伏見瑛士と橘千沙希は橘氏長者たる橘右京へと報告していた。
「詳しい報告は書類が届き次第させて頂きますが、やはりこの足元には妖魔が蠢いているようです」
妖魔、それは海外では魔法生物や幻想種とも呼ばれる存在だ。だが遺伝子を持たず系譜を継ぐことのない魔物とは違う。遺伝子を持ちながらその進化の系譜が定かではない存在。人はかつて猿であったという。鯨はかつて陸を歩いていたという。鳥はかつては地上の覇者であったという。だが妖魔はかつて何者でもなかったのだ。
故に妖魔は強大な力を持つ。他の生物が持つ歴史という積み上げる力を持たないから代わりに単体の力を高めなくてはいけなかったのだ。
神通力を持つ御影哉人のような人間も妖魔と評される存在だが彼はまだ秩序の内にいる。
悪しき心は全ての文化に生まれ出ずるものなのだ。
「妖魔の対処は伏見殿、貴公に一任する。元々彼岸の管轄だ。そもそも妖魔の干渉が疑われたから派遣されてきたのだろう?」
「ご慧眼の通りです。しかし真偽不明かつ出所不明の噂話でして、確信がありませんでしたがこの度平家のお墨付きを頂いたので、これで我が手勢を正規に呼び出すことが出来ます」
「お前も目的はそれか。いや手順か。まあいい、御影哉人はどうした。護衛の仕事を全うしたんだろう?」
「哉人は途中で車を降りました。もう橘の領域についたから安全だと」
「そうか」
橘右京はいつも通り何も理解できぬ顔でその責に座っていた。実に満足そうに。
時は少し巻き戻り、御影哉人はとある病室の前に立っていた。
「母さん、入るよ」
「どうぞ」
病室にいるのは御影静流。哉人の実母であり、全ての起点となった当人である。
「あら、元気そうね。こないだ晋士が『兄さん家出した!』って泣きながら来たのに。なぁにぃ?喧嘩でもした?」
「まあ、色々あったんだよ。色々、晋士には申し訳なく思うよ、今度謝りに行くよ」
「それがいいわ。それよりも、ちゃんと暮らしてるの?」
哉人はベッドのそばの折り畳みの椅子を広げて座る。
「今は伏見さんと一緒だから大丈夫、心配はいらないよ」
「そう?ならいいけれど。夏休みの宿題はちゃんとやってる?」
「…身一つで逃げ出したから何も終わってない。今日このあと教科書とかといっしょに回収するつもり」
「ダメじゃない」
「しょうがなかったんだよ」
病床にあるというのに実に朗らかに笑う。
久しぶりの親子の談話。話が弾み、日が傾いていく。
「じゃあ、そろそろ帰るね。そうだ、いい桃があるから、今度届けるよ」
「在原の黄金桃ね。楽しみにしてるわ。風邪ひかないようにね。それとみんなに迷惑かけてはだめよ」
「わかってる。じゃあ」
哉人は病院を出て裏路地に入り、ついこないだまで親子3人で暮らしていた家へと向かう。鍵はいつも持ち歩いており、家出当日にいた監視者たちはもういなくなっていることを確認してから玄関から鍵を開けて入る。家の中にめぼしいものは残っていない。家具は一般的な埋め込み式なので強引に侵入する理由にはならない。金子の類は晋士が持って行ったのか残っていなかった。
家具はほとんどそのまま残っていた。母が帰る場所を残すためだろうか。それとも家族の団欒の時間をそのまま保存しているつもりか。
「まあいいや」
自室は晋士と二人で一つ。隣り合った高級品と安物の二つの勉強机は元々持ち主が逆だった。かつて父が俺に与えた高級品の勉強机、しかし晋士には与えなかった。母さんが貯金を切り崩して買ってくれた安物の勉強机では弟がかわいそうだと思い交換したのだ。
俺は何もかも持ち去られた高級な机を通り過ぎて安物の机の上の教科書やノート類、大切な写真や今まで使っていた端末や周辺機器なども全て大袋やリュックに詰め込んで立ち去る。総重量は俺自身と変わらないだろうが神通力を使えばなんてことはない。
「行ってきます」
鍵を閉めて、一度ドアノブを引いて鍵がかかっていることを確認してから歩いていく。
一度だけ名残惜しさに振り返ったけれど、いろんな後悔や絶望を置いていくつもりで覚悟を決めて前を向いて歩く。
ちょこっと登場人物解説
御影静流 「着物の血が落ちなくなったわ」
主人公の母親という美味しい役どころ。元々は彼岸で人斬り紛いのことをしていたが神通力でごまかしていた危険人物。
洋服が気になり此岸を着物姿で見物してたところ哉人の父親を逆ナンしてひっかけた強者。
そりゃ息子はああなるわ。