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一般向けのエッセイ

小説にメッセージを込めるべきか (しいなここみさんのエッセイを読んで)

 しいなここみさんの「小説にはメッセージ性がなければいけないのか」というエッセイを読みました。最近硬めの文章ばかり書いていて疲れたので、しいなここみさんの文章をきっかけに軽めの文章を書いてみたいと思います。


 しいなここみさん自身の言っている事をまとめると、「小説にはメッセージ性が必要だとよく言われるけど、私はそういうものがない」です。強いてあげるなら「こういうのが面白いでしょ?」というのが、しいなさんが自分で思うメッセージ性に当たるようです。


 しいなここみさんに対して「おかしいじゃないか!」と批判する気は私にはありません。自分自身の問題として、引き取って考えてみましょう。


 私自身は「メッセージ(性)」という言葉だと狭すぎると思っています。「思想」と言い換えたいと思っています。


 最近、「平家物語」を吉村昭の現代語訳で読んでいるので、これを参考に考えてみます。とりあえず、平家物語は文学的に優れた作品と言い切って良いと思います。


 それでは、平家物語には「メッセージ性」あるいは「思想」はあるのでしょうか。これは明瞭にあります。有名な作品の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に既に現れています。要するに無常観です。


 作品のメッセージ性は「無常観」で「驕れる者久しからず」という事です。簡単に言えばこれがメッセージ性にあたっています。


 しかし、作品はメッセージだけの単線でできているわけではありません。もしそうなら、それは作者の演説となってしまいます。文学作品になるには、違う要素が必要です。


 歴史学者の石母田正は、平家物語において、作者の言い分をよく現しているのは平重盛だと言っています。平重盛は、平清盛の横暴を抑え、なだめる役です。平重盛は良識のある人です。平重盛が途中で亡くなり、そこから平清盛の横暴が爆発します。清盛並びに平家の衰亡が始まります。


 小説というのは、作者のメッセージ性だけでは成り立ちません。つまり重盛だけでは成り立たない。正しい人間だけでは成り立たないのであって、小説が小説である為には清盛のような、欲望に囚われ瓦解していく人間が必要です。「カラマーゾフの兄弟」でアリョーシャだけがいても小説にならないのと一緒です。


 作者の立場からすれば、清盛は作者の思想に反する人間です。しかし、石母田も言うように、作者には、人間に対する一種熾烈な興味があって、それ故清盛を一人の人間像として自立させる事に成功しています。またそれだからこそ、平家物語は名作なのだろうと思います。


 ここで、言いたい事を要約すると、次のようになります。


① 作者はメッセージ性(思想)を持っていなければならない 

② 作者は同時に、メッセージ性を越えるものとしてキャラクターを造形しなければならない 


 ①と②は矛盾しているように見えますが、優れた作品においては①と②は良く統合されています。


 トルストイの「アンナ・カレーニナ」という名作があります。主人公はアンナですが、このキャラクターは非常に良く描かれていて、魅力的です。アンナは不倫をするキャラクターです。アンナは不倫恋愛の果てに、自殺してしまいます。不倫相手のヴロンスキーの自分への愛情を疑った為でした。


 「アンナ・カレーニナ」にはもう一組のカップルが現れます。リョーヴィンとキティです。こちらは、アンナとヴロンスキーとは違って、結婚し、田舎で幸福な生活を送ります。リョーヴィンには、作者トルストイ自身の姿が映し出されています。リョーヴィンは信仰を掴み、救済を手にして作品は終わります。


 このストーリーにおいて、作者トルストイの思想に合致するのは、リョーヴィンとキティです。しかし、作品を魅力的に成り立たせているのは明らかにアンナの方です。


 ここで起こっている事は、大局的に見れば、平家物語と同じです。トルストイは、自分の思想に反する人間を極めて魅力的に描いているのです。つまりは、それが「作家」という事です。


 トルストイの思想で言うなら、神を信じず、自分の感情を大切にする、平気で不倫をするような都会の人間は悲惨な目にあってもやむを得ない、一方で、田舎で誠実に暮らし、道徳を破らない人間は幸福になる権利を持つ。トルストイの思想はこのようなものです。


 これだけ見ると、説教臭いジジイという感じですが、実際の「アンナ・カレーニナ」は素晴らしく魅力的にできています。というのは、作者の思想を裏切って、作者の筆(描写)が一人歩きしているからです。


 以上を踏まえて、「作者はメッセージ性を持つべきか?」という問いについて私はこんな風に考えます。


 まず、作者は優れたメッセージ性(思想)を持たなければならない。それがなければ作品全体の構成を作る事ができないからだ。バラバラの部分同士はそもそも作品にならない。(ナンセンスというのも一つの思想である) 一つの作品とするには、思想という名の設計図が必要であり、それに従って現実を順序付けなければらない。思想が駄目ならば、作品も駄目なものになるだろう。作者は優れた思想を持って、作品を取り掛かろうと努力しなければならない。


 しかしそれと同時に、作者はそのメッセージ性を裏切って、人間そのものの面白さを描いていかなければならない。人間そのものが、作者の思想をはねのけ、自立している様を描かなければならない。最終的に、作品の構成は作者の思想によって形が整えられるにしても、作品内のキャラクターは思想に縛られず、自らの自由を謳歌していなければならない。


 こういう風に書くと、この二つの事柄を統合するのは非常に難しいというのがよくわかると思います。だから、文豪は歴史的に数が少ない、という事になるのだと思います。「小説にメッセージ性を込めるべきか?」という問いには、私はとりあえず、こんな風に考えます。




 ※1 この文章を読み返して「①作者はメッセージ性(思想)を持っていなければならない」についての論が非常に弱い事がわかりました。


 もっとも、これについては簡潔に語れる事ではないので、小文で明快に答えるのは不可能です。私自身は作者のメッセージ性とかテーマ性というものは、作者個人の力でどうにでもなるものではないと思っています。また、どうにもならない、歴史的に作られた価値観に則って、作者はそのメッセージ性を手に入れるのだと思っています。


 例を上げると、ドストエフスキーとトルストイという、気質も生まれも違う作家が、いずれも「キリスト教的救済」をメッセージ性として持っているというのがわかりやすいでしょう。メッセージ性、テーマ性を作家が自由に作れるとは私は信じていません。またこの問題を語ると、歴史的な価値観と、それに対する個人の自意識、思想の流れも論述しなければならず、非常に長大な話になるので短いエッセイでは難しいと考えています。


 また、メッセージ性を持たなければならない、というのは、歴史的に生み出された価値観に対して、個人がぶつかりながらもそれに沿うていかなければならない、というような事です。一人の作者は、時代の中で限定された存在であると共に、自由性を抱いた一人の個人です。その二つの違う事柄が「メッセージ性」「思想」という形で作品全体に意味を投げかけなければならない。「メッセージ性」「思想」を、作者の天才によってすべてを作り上げる事は不可能であり、彼が所属する集団に内在するものを作家は利用するのだと思います。


(例えば、ニーチェのアンチ・クリストも、無神論が普通になり始めた19世紀という時期を外しては考えられない。16世紀にニーチェが生まれたとしても、彼はあそこまでの無神論を抱けなかっただろう)


 ※2 しいなここみさんの新しいエッセイでは、「メッセージ性=テーマだと勘違いされた方もいらっしゃいました。」と書かれているので、私はどうやら勘違いしていたようです。ただ、ここで語っているのは私独自の意見であるので、勘違いを認めつつも、論自体は独立したものなので、このエッセイについてはいじらなくてもいいと判断しました。


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― 新着の感想 ―
[良い点] こんばんは(おはよう)? 読ませていただきました。論にはとてもよく納得できました。 『アンナ・カレーニナ』は私も学生時代に読んで、ハマった作品です。 『平家物語』は、中学生向けにやさし…
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