第96話 立ちはだかる壁
翌日。
俺と椿は市バスを乗り継いで、大炊山ホテルを訪れていた。一昨日発生した第一の事件、姉川警部の殺害現場を確認するためだ。
今日は一連の事件の現場をもう一度訪れ、状況の整理と証拠品を探すことになっていた。
ただし、すでに現場の証拠品は警察が押さえているだろう。俺たちは事前に堂宮刑事に連絡を取って、必要な情報を提供する代わりに、証拠品の閲覧と確認、そして現場保存で立ち入り禁止になっている姉川警部が泊まっていたホテル、そして血原野公園の旅館の状況を見せてほしいことを伝えた。
一方、朝から椿はため息をついていた。
「どうした、椿」
「うん……。父さんに叱られたわ。私の責任だから、怒られて当然なんだけど」
昨日椿と別れた直後、椿の父である柳さんから連絡があったらしい。
春先の事件から柳さんは自分から連絡をすることはなかった。父親は娘の椿との約束を守っているらしい。
しかし、今回はそうもいかなかったようで、警察から紅葉ちゃんが入院したと聞いて、びっくりして連絡をしてきたのだという。
「直後に私と紅葉が住んでいるアパートに飛び込んできてね……。紅葉は大丈夫かって言われて……」
事情を話すと、柳さんは安堵したものの、半ばあきれた様子で椿を叱った。
――椿、お前も死の恐怖を味わって怖かったと思う。だが、紅葉はもっとつらかろう。お前以上に紅葉は無力なんだ。あまり、紅葉を怖がらせてはならんぞ
以前よりは大人しい口調だったが、椿には心に突き刺さる言葉だった。
「その後父さんは帰ったけど……なんだか悪いことしてしまった気がする……」
以前の椿なら、父親に対して絶対に出てこなかった発言だった。椿自身もあれから父親への態度は穏やかになっていた。
「……終わったことなんだから、気を病んでも仕方ないさ」
「……そうね。でも、紅葉は怖くて感情が死んでいた気がするの。相手は紅葉の人生をめちゃくちゃにした白装束なんだから、何としてでも私たちの手で解決しなくちゃ」
「ああ」
***
大炊山ホテル。
すでに警察の捜査は終わったらしく、ホテル内はいつもの活気あふれる場所へと戻っていた。俺と椿はホテルの受付でホテルのオーナーに警察の協力している探偵であること、捜査のために客室を見せてほしいことを説明すると、すんなりと受け入れてくれた。
「ここが警官の人が宿泊していた部屋です。中を荒らすなと言われておりまして、状況は事件当時のままになっています」
ホテルスタッフに案内され、俺たちは姉川警部が宿泊していた客室へ移動した。客室は一通りの現場の捜査が終わったようで、立ち入り禁止にはなっているものの、部屋の中は誰もいなかった。
部屋は六畳間でベッドはシングル。そして窓際には小さなテーブルとソファ。ベッドに面してテレビも置かれていた。
ふと窓際のテーブルに目を向ける。黒い液体が付着したような染みがある。夏の日差しで蒸発し、残りが固まっているようだ。
「リツ、何か見つけたの?」
「いや、この黒い染みだけど……なんなんだろう」
椿は染みに触れないように顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
「……コーヒーかしらね。ブラックの香りだわ」
「そういえばこのコーヒーを飲んで、姉川警部は亡くなったって話だよな」
「越川刑事が言ってたわね。好みのブラックコーヒーに毒を仕込まれたのに気づかず、飲んでしまった」
俺はこくりと頷いた。
犯行を行ったのは姉川警部の嗜好を把握していた人物だろう。
そして俺は窓に顔を向けた。
「その後、この階から転落。転落時に悲鳴はなかったから、殺害された後で落とされたんだ」
「それはわかったけど、あなた、姉川警部が落下した時に殺人事件かもしれないって言ったじゃない。それはなんで?」
「人為的に落とされた可能性があったからだよ」
俺は窓を開けてサッシを確認した。まだ赤い染みが残っている。
「この赤い染みは出血して、血をこすった跡だ。警部の遺体を外に出すときに、皮膚の一部がサッシに接触してはがれたんだ」
「遺体を持ち上げて、押し出すときね」
「ああ。自ら命を絶つつもりなら、こんな痕はつかない。明らかに他の誰かが遺体を動かした証拠さ」
そして俺はこぼれたコーヒーに目をやった。
「多分、犯行を行ったのは姉川警部に近い人……恐らく警部の家族か知り合い……もしくは警察関係者」
「アリバイの確認は警察がやっているわよね。あとで確認してみましょうか」
「そうだな」
そして俺たちは部屋に案内してくれた従業員からも話を聞くことにした。事件が起きたとき、何か変わったことはなかったか。不審な人物を見かけなかったか。
従業員はあごに手を当てると、天井を眺めた。
「そうですねえ……。
職業訓練で使った制服が一着足りなかったんですよ。もちろん、小学生用のものですから小さいんですが、ここで受け入れる児童分を用意していました。
足りなかった分に関しては、こちらの落ち度ですから、従業員用の制服でなく、学校の制服でも問題のない業務についていただきましたが……」
事件があった日は職業訓練をしていたが、子供用のホテル従業員用の制服が足りなかったという。
犯人は事前にこのホテルの行事を把握したうえで警部らをここに誘導したのだろうか。
そこで俺たちが偶然事件に出くわした。
「もう一度確認しますが、消えていたのは子供用の制服、ですよね」
「はい」
確認のために俺は従業員に問いかけた。
徐々に、事件の全貌が明らかになり始めていた。
***
その日の昼頃。昼食を最寄りの喫茶店で取った後、俺たちは血原野公園近くの旅館に向かった。
事件から一日が経ち、現場保存のため事件の痕跡が残されている裏庭は立ち入り禁止となっており、昨日より人員は減ったとはいえ警察の捜査が続いていた。一方、それ以外の場所については一通りの捜査と証拠品の押収が終わったようで、通常通りの営業となっていた。
俺は事件が起きる直前、夜中に起きていたことを思い返していた。
紅葉ちゃんの証言。夕方、車の中でひどい眠気に襲われ、早めに床に就いたのだ。それで夜中に目が覚めてしまい、飲み物を買いに行こうとした時、何者かに襲われた。
そして、翌日、紅葉ちゃんは泰子ちゃんとともに首を吊った木田警部補の近くで目を覚ました――なぜこんなことが起きたのか……。
薬を使って紅葉ちゃんを眠らせたのは一体……。
俺の推測が正しければ、なぜあの人はあの行動をとる必要があったんだろう。
「ねえ、リツ」
隣で椿の声がする。
「もしもの話だけど……警察関係者が犯人なら、証拠をもみ消されるんじゃないの? 堂宮刑事たちが保管してるなら問題ないかもだけど、あの人たちの警察での立ち位置って微妙だって聞くよ?」
「あ」
推理に脳のリソースを割いていたためか、俺の悪い癖が出てしまった。
この事件には白装束が関わっている。警察は白装束がらみの事件に消極的なのだ。そのため、警察上層部から距離を置いている足立班が、事実上 “人生をやり直せる薬“ 専属の捜査班となっていた。
ただ、足立班も常盤署所属の警察組織である以上、いつ上層部から捜査にストップがかかるかわからない。
「そうだよなあ。早いとこ犯人あぶりださないとダメだけど、突き止めたところでどうするか……」
「一番の難題だよね。私たちも事件を追ってるわけだから、集めた証拠を採用してもらえるよう、直談判する?」
「うーん……」
現職の警部に面と向かってお願いするのか……。現実的ではない気がする。
正直、堂宮刑事たちに頑張ってもらうしかないだろう。権力が深くかかわっているとなると、一般人の俺たちにできることは限られてくる。
旅館に入ったとき、俺たちの目にある光景が飛び込んできた。
「気持ちは理解するが、これ以上市民や君らの命を危険にさらすわけにはいかんのだ」
それは、まさに “立ちはだかる壁” であった。




