第86話 森と旅館の探索
夕暮れ時の森。
真夏とはいえ、夕暮れの森となると空気はひんやりしている。あれほどけたたましく鳴いていたミンミンゼミの鳴き声がヒグラシのそれに変わっていた。
鬱蒼とした森は夜が近づくにつれて暗くなる。そのためか人影も一切見られなかった。
俺と椿は旅館の周囲の森に不審者がいないか、盗聴器やカメラがしかけられていないか、確認に回っていた。まずは旅館の周辺を見て回っている。
この森は戦国時代に織田信長が越前の国の武将と戦った古戦場であった。そのためか、心霊スポットになっている。
「……何か隠れていそうで……不気味よね」
椿は声を震わせていた。彼女は俺のすぐ後ろを歩いている。
時折俺の肩をつかんだり、手をつなごうとしたり……。
「うん。でも、誰の気配もしないから、隠れてないと思うけど。もし近くにいるなら、草とか茂みが揺れる音で分かるからね」
「……わからないわよ? 白装束なら、気配を消すことくらい……」
「そうかもしれないけど、森の中だと音がほとんどしないんだ。少なくとも、この近くにはいないよ」
俺は冷静に周りを見ていたが、特に何者かがいる様子はなかった。
「で、でも……出ないわよね。そ……その……熊とか」
「熊?」
俺は呆れてため息をついた。
「熊ならフンとか体毛とかが落ちてると思うけど? そんなのは全然ないから、ここにはいないと思うぞ」
「そ……そうね」
俺は振り返ると、椿に訝しげな顔を向けた。
「なあ、何がそんなに怖いんだ? 確かに犯人が隠れているかもしれないけど、俺らが必要以上に怖がってどうするんだよ」
「だってぇ……」
それから先の言葉を椿は言い出せないのか、しばし無言になった。だが、少しして椿は口を開いた。
「何か……出てくるかもしれないし……幽霊とか」
「は?」
「めっちゃ雰囲気あるじゃない! 誰だってこんなとこ怖いわよ!」
俺は呆れてため息をついた。
椿は昔から怖いもの、とくに幽霊や怪談、もしくはその雰囲気があるものが大の苦手だ。
いつもは明るく心優しくも、沈着冷静な女探偵の見る影もない有様だ。
「なら、さっさと終わらせようぜ。ここ、昔合戦場だったから、もたもたしてると出るかもな。戦死した武士の怨霊とか」
俺は少々からかうつもりで椿を振り向いた。
「ああ、もうっ! やめてやめて!」
椿は全力で顔を振っている。
うん。すぐに捜索を終わらせたほうがよさそうだ。周辺に怪しいものや盗聴器らしきものはないし、早いとこ切り上げよう。
***
車に戻ると、朝永さんと泰子ちゃんが座席を倒して眠っていた。一方、紅葉ちゃんは頭を押さえて天井を眺めていた。
紅葉ちゃんがこちらに気がついたのか、窓を開けてこちらに声をかけた。
「お姉ちゃん、リツさん、おかえりなさい」
「紅葉、どうしたの? 頭痛いの?」
椿は妹の異変に気づいたようで、紅葉ちゃんのもとへ駆けて行った。
「……大丈夫。今日はいろいろあって疲れただけみたい。ほら、泰子ちゃんたちも寝ちゃってる」
そういって紅葉ちゃんは眠っている朝永さんと泰子ちゃんを見やった。
椿は紅葉ちゃんの額に手をやると、ほっと安堵の息を洩らした。
「熱はないみたいね。よかった。熱中症だったら大変だったわ」
「……それより、お姉ちゃんたち遅かったじゃない。お姉ちゃん、暗いの大丈夫だったの?」
いきなりの紅葉ちゃんの発言に、椿の体が硬直する。
「え、そそれは……」
全然大丈夫じゃない。言うまでもないことである。
数秒の沈黙ののち、俺はにやりと口角を上げて答えを話した。
「まあ、幽霊とか猛獣は出なかったから大丈夫だよ。紅葉ちゃん」
「へえ……」
紅葉ちゃんはぽかんと口を開けながら椿に顔を向けていた。しかし、頭に痛みを感じたのか、痛そうに頭を押さえた。
椿はその場を制するように俺と紅葉ちゃんの間に割り込んだ。
「さ、さあ、そんなことはどうでもいいから、旅館に行きましょうよ。ね、ね?」
俺たちは依頼人二人を起こした後、旅館に向かった。
旅館は森の中の一軒家といった趣の木造建築で、俺たちは初老の女将さんと、着物姿の従業員に六畳の和室に通された。男女別々の部屋ということで、俺と朝永さん、そして神原姉妹と泰子ちゃんがそれぞれ同室となった。
その日の夜は何事もなく穏やかな時間が流れていた。不気味なほど、静かなひと時であった。
念のため、俺と椿は夕食後に作戦会議も兼ねて、旅館内にも何か不自然な点がないか、女将さんや従業員に事情を話して調べさせてもらったが、特にそのような点は見受けられなかった。
部屋に戻ると、朝永さんは浴衣に着替えて、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴いているようだった。
俺は捜査状況の進捗を報告することにした。
「朝永さん……ちょっといいですか?」
「……」
音楽に集中しているのか、朝永さんは俺の言葉に反応しない。
少々気が引けるが、俺は勇気を振り絞って、かつ周囲に騒音にならない程度に声を強めた。
「……朝永さん!」
「あ……、はいっ!」
朝永さんは口をぽっかり開けながら俺のほうを見た。
「……金谷さん。いきなりびっくりしましたよ……」
「……すいません。捜査の進捗を報告しようと思いまして」
気を悪くしないでほしいと思いつつも、俺は報告を始めた。
「森の中と旅館を調べましたが……不審なものはありませんでした。今のところ、<殺し屋X>はこの近くにはいないみたいです」
「そうですか」
安堵したのか、朝永さんはほっと息をついた。
「とりあえず、今は安全かと思います。今日は一日大変でしたから、ゆっくりお休みください」
「ありがとうございます」
朝永さんはスマホを台に置き、装着していたワイヤレスイヤホンを片付けた。
置かれたスマホの待ち受け画面が表示され、偶然にも俺の目に留まった。
そこには紅葉に包まれた神社の境内で幸せそうにする、二人の男女。男性は朝永さんのようだが、隣にいる美人で芯の強そうな女性は……どこかで見たことがある横顔だった。
「どうか、しましたか?」
朝永さんに尋ねられ、俺はすぐに目をそらした。
「あ、ごめんなさい! 勝手にスマホの画面を見てしまって……」
「ああ、この画面ですか」
朝永さんはスマホを手に取ると、その待ち受け画面を俺に向けた。
「これ、僕と数年前に付き合っていた彼女なんです。警察官だったんですよ」
「へえ。彼女さんが警官かあ……なんか、かっこいいですね」
「まあ、ね。沈着冷静で、だけどどこかに熱い思いを秘めた人でした。間違っていれば上司にもズバズバ言うこともありましたね」
「上司……?」
朝永さんは会社員のはずだ。
「いや、彼女、守秘義務の範囲内で警察でのことを話してくれたんですよ。その時の彼女が話す姿が素敵で……二人の仕事が忙しい中、ささやかな幸せだったんですよ」
「自分の仕事に、誇りを持っていた女性なんですね」
「はい」
警官だった彼女のことを話す朝永さんの目は輝いて見えた。
依頼人との信頼関係を深めるチャンスが訪れた。椿が日ごろから俺に言っていたことが今、試される時なのだ。
似たような武勇伝を、俺は家族から聞かされていた。
「仕事に誇りを持っている人って……素敵ですよね。俺の父もそうでした」
「え、金谷さんのお父さんも警察官なんですか?」
「ええ。息子の俺が言うのもあれですけど、男前で頼れる立派な人でした」
「へえ」
「ひょっとしたら、父も朝永さんの彼女さんと……会ってるかもしれませんね……いや、それはないかな」
「……」
よく見ると朝永さんは顎に手を当て、考え込んでいた。
「いや、彼女から聞いたことあります。密かに語り継がれる、伝説の警部が常盤署にいたって……」
「ま、マジですか」
思わず声を上げた。
「金谷という警部だと言っていました。探偵さんと同じ苗字だからまさかと思いますが……」
「はい。俺の父です」
「やっぱり! 彼女もその警部に憧れてたそうで……もし、今ここにいたら紹介したいんですが……」
ふと俺は違和感を抱いた。さっきから朝永さんは自分の彼女のことはすべて過去形で話していたのだ。
「……お伺いするのはまずいかもしれませんが……その彼女さんは……」
「死んだんです、彼女」
そして朝永さんは悲しそうな顔を俺に向けた。
――彼女、織田位知子は……殺し屋に殺されたんです




