第80話 救いはないと思え
七月下旬のある日、俺たち三人は常盤駅前でビラ配りと掲示板を開いてパソコンで作成したポスターを張っていた。なお、掲示板への掲載許可はとっている。
今日の予想最高気温は三十五度の猛暑日。そのため、まだ気温が上がりきらず、通勤通学で人出も多い朝方に活動していた。そのため、今日の出勤は朝六時。もちろん、超過勤務扱いになるので、その分の給料は支払われる。
午前中は比較的動きやすいとはいえ、すでに気温は三十度を超えている。吹き出す汗を拭きつつ、経口補水液で水分補給は欠かせない。
――どんなお悩みも解決いたします。ときわ探偵事務所をよろしくお願いします!
声を出すだけでも体力を奪われる。
「駄目だ……動けねえ」
俺はへたって動けなくなった。木陰の下のベンチに座り、タオルで汗をぬぐった。
「まだ始まったばっかりよ? さあ、もう少し頑張って」
椿が何十枚もビラを持っている。隣にいる紅葉ちゃんはクーラーボックスに入れていたペットボトルに入ったスポーツ飲料を俺に渡した。
「喉乾いてたら飲んで? こまめに水分摂らないと」
「ありがとう、紅葉ちゃん」
俺はペットボトルの水で喉を潤した。冷たい水が乾いた体を癒していく。俺のライフは一気に全回復した気分だ。
「ああ……生き返る……」
「さあ、飲んだら頑張るのよ」
「へーい」
あきれた顔を見せる椿も額から出る汗をハンカチで拭った。そして、紅葉ちゃんから飲み物と塩タブレットを受け取っていた。
無理は禁物。まだ仕事は残っているのだ。
一時間だけでもうだる暑さに苦しめられるが、この時間が俺たちの活動限界と決められていた。この間にも少しでも依頼が増えるといいのだが……。
駅前の時計の針が九時を過ぎるころだった。そろそろ宣伝を終え、事務所に戻ろうとすると、後ろから声をかけられた。
――あの、テレビでやってた探偵さん……かな?
若い男性の声。少し声のトーンが高い。
振り向くと、そこには黒い短髪の背が高い男性と、彼と手をつなぐ紅葉ちゃんと同じくらいの背丈の、明るい赤に近い茶髪を三つ編みに束ねた女の子が息を切らせて立っていた。
「確か、名前は『ときわ探偵事務所』さん、ですよね? この前、梔子財閥の事件を解決した探偵さん」
男性の問いかけに椿が不思議そうに頷いた。
「はい。そうですが……何かご依頼ですか?」
男性は首を縦に振る。
「その……単刀直入にお願いしたいんです」
そして、男性と隣の女の子は示し合わせたように目を合わせると、俺たちに向き直り、二人合わせて頭を下げた。
――僕たちを殺し屋からかくまってください!
「え、今、なんて仰いましたか?」
困惑の色を隠せず、椿が目を丸くしてもう一度訪ねた。
「そ、その、僕たち……命狙われてるんです。殺し屋に」
殺し屋⁉ お、おい、いくらなんでも……。
俺も、二人が言っていることが俄かには信じられなかった。
***
とりあえず俺たちは依頼人の対応をするため、そして状況を整理するため、一路探偵事務所へ向かった。
椿の小型車フィートにはいま、俺たちを含め五人が乗車している。車内には張り詰めた空気が漂っているのか、誰一人口を開こうとしない。
そして、探偵事務所。
俺たちは平静を装うように、事務的に接客準備を進めた。内心、俺たちは困惑している。
いきなり本番が来たのだ。
――殺し屋から、かくまってくれ
身辺警護依頼はたまに受けるが、つい最近俺たちは重大なミスを犯したばかりだった。三月、依頼人を狙う犯人を捜している最中に、その依頼人が殺害されたから。
あれ以来、俺と椿は「何が何でも依頼人の安全確保を最優先に考える」という信念のもと、どう対応するかを協議してきた。できることは限られるが、警察への通報と協力の依頼、そして不測の事態が発生した時の対策の実行を堂宮刑事や越川刑事に依頼して教えてもらい、定期的に訓練を行っていた。
しかし、まさかこんなに早く試される機会がやってくるとは……。
二人がソファに座ると、俺たちはそれぞれ自己紹介した。
そして、突然現れた依頼客もそれぞれ名乗ってくれた。
黒髪短髪で長身のスーツ姿の男性は、朝永和正さん。朝永さんは県内の大学院に通う院生だという。隣で座っている赤茶色の髪の少女は越智泰子ちゃん。朝永さんの親戚の子供で、泰子ちゃんの両親が海外に転勤中であるため、朝永さんが代わりに預かっているとのこと。
朝永さんは面長できりっとした風貌、そして眼鏡をしていることもあってかいかにも女子受けしそうだ。
対して泰子ちゃんは大人しそうな性格で、ただ目の前のテーブルを見ているだけだった。自己紹介の時も朝永さんに促されていた。
紅葉ちゃんが気にかけているのか、時折話しかけようとするが、泰子ちゃんはきょとんとしているだけだった。
椿が話を切り出す。
「それで、ご依頼は何者かから命を狙われているとのことですが」
「ええ……。数日前から僕らが住んでいるアパートで雑音がしたんですよ……。電話の声に雑音が入ってたり、テレビにノイズが走ったり……。知らないうちに部屋の鍵が開けられていて、家具が移動していたんです」
「はあ……」
その話を聞いて俺はピンときた。父さんから聞いたある話が、頭の中に浮かんできた。
朝永さんは鞄から罫線の入った紙を取り出すと、話を続けた。その紙には手書きで文章が綴られていた。
――助けを求めても無駄。救いはないと思え 殺し屋X
「昨日、アパートの郵便受けにこれが入っていました」
明らかに脅迫状だった。
朝永さんは低い声で、怯えるように俺たちに話した。
「僕たち、命を狙われてるんですよ」
その一言は、俺たちにとって最大の試練の始まりに過ぎなかった。




