第62話 溶けて消えた
俺は半分、感情的になっていたかもしれない。冷静だったけど、次第に自分の気持ちに焦りの色が見え始めた。心の奥底から震えている。
あの場を切り抜けるには俺からガツンと言ってやるしかなかった。とはいえ、相手は神原柳氏。俺がどんな仕打ちを受けるかは未知数。正直言って明日生きていける気がしなかった。
月が雲に見え隠れする夜、俺は駐車場と歩道の境界にあるブロックに腰を掛け、ため息をついた。
俺の前には柳氏の娘たちがいる。
「すまねえ、椿……紅葉ちゃん……」
なんて言ったらいいかわからないが、とりあえず俺は謝罪した。
椿の心配するような優しい声が響く。
「あなたは悪いことしてないわよ。むしろ感謝してるくらい。紅葉もそうよね」
椿が紅葉ちゃんに同意を求めていたが、紅葉ちゃんも一つ頷いた。
「うん。もしリツさんが言ってくれなかったら、わたしたち、家に連れていかれてたと思う」
「そう。だから、リツが謝る必要はないの」
姉妹に励まされ、俺はなんだか頭が熱くなった。照れるというより、余計に申し訳ない気がする。
とはいえ、不安は残る。基本的に俺は柳氏のような、堅苦しく威厳のある大人は苦手だった。
だが、椿は気にするなと言わんばかりに胸を張って笑顔を見せた。
「父さんのことは私に任せて。理由をつけて何とかするから」
「椿……」
「私がやわな女じゃないこと、あなた知ってるでしょ?」
確かにそうだ。椿は父親の嫌がらせや要求をすべて突っぱねていた。というか椿自身、大の男に向かって言い返せる度胸と気の強さを持っている。俺自身が気に掛ける必要はないのだ。
「わかった。ありがとな、椿、紅葉ちゃん」
俺はその後、椿と紅葉ちゃんとともにタクシーで戻ることになった。その夜、柳氏から椿に鬼電が入ったらしいが、椿は父親からの理不尽な要求をすべてシャットアウトしたという。
明日、俺たちは警察に情報提供を行うことになる。しかし、事件はさらなる展開を見せていた。
***
――ったくあの方も最近目ざとくなってしまいまして……むしろこちらから白状させるしかないようですね。あなたがやったのだと
独り言をつぶやき、その執事は一人呼び出された場所へ向かっていた。夜の邸宅別館は昼間とはうってかわって暗闇に包まれていた。
執事は前日、“あの方”から呼ばれていたのだ。深夜に、別館まで来てほしいと。
執事は別館の玄関を開けた。
その先に、呼び出した張本人は立っていた。
――来ましたよ。あなた、自ら墓穴を掘るつもりですか
しかし、そいつは一切反応がない。
だが、その目には怒りが込み上げていた。
――なんですか、その顔は。あなたが見せるべき態度じゃないでしょう
――……!
心に何かを決めたのか、そいつは意識を集中していた。そいつは闇夜に光る何かを振り上げると、それを執事めがけて突き出してきた。
――なにっ
とっさの思いで攻撃をかわすが、そいつは再び心臓めがけて鉄の刃を突き出してくる。
執事は腕をつかむと、蹴りを入れてそいつを転ばせようとする。そいつが大勢を崩すと刃は床に落ちた。
――やっぱり、萌様を殺めたのはあなただった。なぜ母親に歯向かおうとするんですか
――……
そいつは何かを言っているが、執事にはそんな気は一切なかった。
――何を言うのです。私はただ、萌様に従ったまで。私たちはあなたたちを誰よりも心配していたのですよ。この恩知らずめが!
しかし、そいつは冷静に床に落ちた刃物を拾い上げた。そして、すぐさまとびかかってくる。
執事はまた防御の構えから、拳を握る。
それはほぼ同時だった。
そいつは突き飛ばされ、動かなくなった。
同時に、暗闇を切り裂く断末魔があたりに響いていた。
***
翌日、俺たち三人は通常業務に戻った。事務処理を済ませた後、椿が警察に連絡を入れてくれた。必要な書類を鞄に詰めた後、俺、椿、紅葉ちゃんは椿が運転する車に乗って、常盤署に出向いた。
今日は警察に、昨日調べて分かったことを報告するのだ。
運がいいのかわからないが、俺たちの報告に応対してくれたのは堂宮刑事だった。
俺たちは堂宮刑事に昨日までの聞き取りと現場調査で判明したことを細かく情報提供した。
「そうか。君たちの聞き取りでは、誰も梔子萌さんが殺害されたその瞬間を見た人はいない、と」
「はい。でも、そうは考えられないんです。そうよね、リツ」
椿が俺に視線を向けた。
俺は一つ頷く。
「ここからは金谷に説明させます」
椿はもう一度俺に目を向けた。俺は一瞬どきりとするが、一呼吸つくと説明した。
「家族の中に犯人がいるとするなら、誰も見ていないはずがないんですよ。しかも、あと一人は事件現場にいた」
「梔子隼人さんだね」
俺は頷いた。
「俺は、隼人さんが何らかの事情を知っていると思うんです」
「じゃあ、隼人さんが犯人だと?」
堂宮刑事の問いかけに俺は首を横に振った。
「隼人さんに萌さんの殺害は物理的に難しいでしょう。薬を飲まされた状態で、大の大人の息の根を止めるなんて。ただ、隼人さんは誰かを庇っているのかも。それが誰かはわかりませんが……。以上が聞き取り結果から得られた情報です」
「ありがとう」
俺は椅子に腰を下ろした。それを見て、椿が口を開く。
「あともう一つ、お伝えすることがあります。殺害に使われた凶器についてです」
「見つかったのかい?」
興味深そうな目をする堂宮刑事には悪いが、凶器はなかった。しかし、凶器がどうなったかの痕跡は見つかった。
「見つかってはいませんが……犯人は萌さんを殺めた後、凶器を別館の厨房で洗ってるみたいなんです。それから凶器は消えてしまった」
「洗っていた?」
俺は刑事に写真が画面に映った状態でスマホを渡した。スマホには点々とくろい染みが続いている廊下、そしてその先にある厨房で撮影した写真が何枚もある。写真に写るシンクには長方形の黒い錆が点々と並んでいる。
「これは……」
「おそらく、血液です。調べると誰のものかわかると思います」
「血痕は殺害現場から続いていたんだね?」
俺は頷いた。
「犯人は夫人を殺害後、ナイフを持って移動、そして血をここで洗い流したんです」
堂宮刑事は真剣なまなざしで俺の推理を聞いているようだ。そして、刑事はこんな質問をしてきた。
「そうか。じゃあ、どうして厨房のシンクが溶けているんだい?」
その理由はわからない。しかし、俺はある仮説を立てていた。
「あくまで推測の域を出ませんが、厨房棒には殺害に使われた刃物類はありませんでしたから、そこで刃物を溶かしたのかも……」
俺の言葉に椿が反応した。
「溶かした……? 硬い刃物そのものを溶かして、消したっていうの?」
「あれだけ厨房を捜してもないんだ、そうとしか考えられない」
「あのシンクの状況は、刃物を溶かした痕跡なのね?」
俺は頷いた。
俺と椿とのやり取りを聞いていた堂宮刑事は顎に手をやった。
「ならば、その現場を捜査する必要があるな。シンクの物質と黒い染みを分析して、正体が判明したら、金谷君の推理の証拠になる。この写真、もらっていいかな?」
「はい。コピーは控えてありますので」
「わかった」
その後、俺はノートパソコンを拝借し、撮影した写真をSDカードに落として、堂宮刑事に渡した。
「ありがとう。君たちのおかげでいろんなことがわかったよ、ありがとう」
俺たち三人は頭を下げた。
できたら、警察が把握している情報が知りたい。捜査の支障のない範囲内で訊き出せないだろうか……。
その時、誰かが走ってくる足音がした。次第にその音は大きくなってくる。
次の瞬間、バタンと取調室のドアが開け放たれた。
「堂宮さん、大変です!」
目の前にいるのはスーツ姿の女性刑事。
「どうした、越川」
越川と呼ばれた女性刑事は肩で息をしていた。
「梔子家執事の桐原が殺されました!」




