第60話 見つかった痕跡
目の前にいる若い警官はぞろぞろと部屋に入ると、清介の前に立ちふさがった。
「梔子清介さん。事情を再度お伺いしたいので、別室に来ていただけないでしょうか」
「し、知らないぞ……脅迫状なんて……」
「筆跡鑑定で清介さんの筆跡と一致したんです。改めて、捜査にご協力いただけないでしょうか」
笑顔で詰め寄る警官に清介の顔が青ざめていく。彼は一歩後ずさるが、台に足が接触し、後方に倒れ込んでしまった。
椿と紅葉ちゃんは思わず後ろに退いたが、俺はすぐに前に入って倒れ込む清介の背中を両手で支えた。
「せ、清介さん……!」
「……」
清介はずっと無言であったが、俺が体を押すと清介は自力で体を起き上がらせた。
「……俺は、やってない……」
弱々しい言葉が零れ落ちる。
ふたりの警官は態度一つ変えず清介のひじの内側に手をまわした。
「はいはい。容疑が掛かっている人はみんなそういうんですよ。やっていないのなら、捜査に協力をお願いいたします」
「……わかりました」
これまでの悪態をつきまくっていたあの顔とはうってかわって、清介は完全に大人しくなっていた。
警官二人に付き添われ、清介は控室から消えていった。
***
とりあえず、家族全員からの聞き取りは終わった。
俺たちは控室を出て、玄関ホールのソファに腰を下ろしていた。
すでに日は沈み、あたりは暗くなっている。警察の捜査もひと段落したようで、警官たちも引き上げ始めていた。
清介の事情聴取は終わったのだろうか。
「さて、聞き取りは一通り済んだわけだけど……リツ、目星はついた?」
「正直よくわからない。ほとんどの人に殺害動機はある上に、怪しい行動をとっているし、だからと言って萌さんを殺害した決定的な証拠はないし……」
「せめて……何か痕跡があればいいんだけどねえ」
椿の言葉に、俺も自分の手帳を見ながらいろいろ考えを巡らせていた。
正直言うと、聞き取りで分かったことは多いものの、謎もさらに増えてしまった。一人は母親の殺害に対して無関心、もしくは態度を変えていない。そして残り二人は抑圧されていたためか、率直な思いが吐露されていた。
俺はメモ帳を閉じると、椿に顔を向けた。
「これまでの聞き取りで、犯行時の流れはある程度分かった。でも、犯行時の様子を事実上誰も見てないのがひっかかるんだよな……」
「隼人さんも薬飲まされた時の苦しさで、周りが見えなかったらしいわよね」
「うん……」
なぜかそこが引っかかる。
苦しさで意識が殺害されるその瞬間に向けられず、更に突き飛ばされて気絶する……。
いくらなんでも都合がよすぎるのだ。まさか、あいつ、実際は犯行現場を見ているのか……? それとも、犯人を庇っているのか。
しかし、今は考えても意味がない。誰が殺害したのか、
「今日聞き取った内容は、警察も知ってるよなあ」
「でも、私たちも警察に協力するって言ったから報告しなきゃ。ひょっとしたら把握してない情報があるかもしれないし」
「そうだよな」
椿の言うことには一理あった。
あわよくば警察から情報が訊き出せるかもしれない。もちろん、こっちから教えてくださいとはいえないが。
そして、何よりも証拠がない。物的な証拠が何よりも欲しい。
「椿、明日改めて警察に報告しようぜ」
「そうね。私、アポ取りしておくから、悪いけど報告する内容まとめておいてくれない? まとめるのは明日でいいから」
「了解」
時間も時間なので、一度引き上げようとした時だった。ソファから腰を浮かせたとき、紅葉ちゃんの声がした。
「お姉ちゃん、リツさん。これ……」
「紅葉、どうしたの?」
椿はスカートを包み込むようにしゃがみこんだ。
「これ……血かなあ」
「血⁉」
思わず声を上げた椿に俺もぎょっとした。
周りの人の視線が一瞬、こちらに向けられた。
紅葉ちゃんはびっくりしたのか、姉に声をかけた。
「お、お姉ちゃん、声が……」
「あ、ごめん……」
周囲にいた人の視線が俺らから離れたのを確認すると、俺は椿と紅葉ちゃんのもとに向かった。
横から俺もその痕を確認する。俺はその血痕に鼻を近づけて、臭いを嗅いだ。
かすかだが、血なまぐさい……。
「確かに……」
「誰の血、なの? まさか……」
「わからない……これだけじゃ……」
すると、紅葉ちゃんが何かに気づいたのか、立ち上がった。
「こっちにもあるわ。たぶん、血の跡だよね」
紅葉ちゃんの指さすほうを眺めると、細く黒い筋が絨毯に等間隔でしみこんでいた。それは玄関前の廊下の奥まで続いている。反対方向から見ると、それは殺害現場となった部屋に続いていた。
「まさか……これ……」
「リツ、どうしたの?」
不安げに尋ねる椿に、俺は向き直った。
「多分、梔子夫人の血かも……。辿ってみようぜ」
俺は立ち上がると、その細い線に沿って歩き始めた。
***
黒い染みを追いかけたその先にあるのは厨房だった。厨房内はすでに捜査は終わったのか、後日の回されたのかわからないが、中に警官や鑑識はいなかった。
俺は黒染みを追いかけると、その染みはシンクの前で上から何かが垂れたように縦に三センチ程度の跡がついていた。
そしてシンク途中で黒い染みは途切れていた。シンクの中は特に何かが付着しているようには見えない。
ふと周りに目をやると、長方形を描くように、少し錆がついていた。ステンレスのシンクのようだが、何かが溶けているのか?
さっきの黒染みはおそらくだが、血……。おそらく、警察も把握しているだろう。
しかし、ここでその血を洗い流している。だが、どうやって……。
そして、殺害に使われたナイフのような凶器が見つからない……。この厨房のどこかにあるのだろうか。
俺はスマホを取り出すと、何枚か写真を撮った。
「リツ、何か見つかった?」
振り向くと椿と紅葉ちゃんが後ろで心配そうに俺を見つめていた。
「凶器が……あったの?」
俺は首を振った。
「いや、わからない。ただ、犯人はこの厨房で血を洗ったみたいだ」
そういって俺はシンクに目をやった。椿もそれに倣う。
「あ、確かに……」
「たぶんナイフもここのどこかにあるんだろうけど……。探してみないか?」
「そうね」
俺たちは会場のスタッフに事情を説明して、厨房内を捜索する許可をもらった。会場のスタッフが言うには、警察は厨房をまだ捜査していないという。
そして、三人で手分けして厨房内の探せる部分を捜索したが、凶器に使われたであろうナイフは見つからなかった。
「うーん……」
俺は顎に手を当てて考え込んでいた。
「消えちゃったわね……ひょっとしたら、ここ以外の場所に隠したのかなあ」
椿は白い蛍光灯を眺めてつぶやいた。
「ここで処分したのは間違いないよ。少なくとも、血はそこのシンクで洗い流してる」
「うん」
「ただ、刃物自体が見つからない……。警察も施設内は調べてはいるけど刃物は見つからなかったって言ってるからね」
「でも、まだ捜索していない場所もあるかもよ? この厨房だってそうだし」
椿の言うことは一理ある。たぶん、ここで血を洗い流した後、どこかに隠せば問題ないから。
でも、そんな時間あるのか? 悲鳴が聞こえてから遺体発見、みんなが集まるまでにほとんど時間はなかった。五分から十分程度しかなかっただろう。
「確かにそうだけど、どこかに隠すっていうのもかなりリスクあるんじゃね? まず、時間がないあと、難易度も高い。警察もいるし、犯人としてはすぐに処分したいはずだ」
「どういうこと?」
「警察が隈なく探せばいずれ見つかる。そんなのをいつまでもこの施設内に置いとくわけにはいかないだろ。荷物もチェックされるだろうし、鞄に隠すのも難しい」
「そうか。今日の取り調べの時も、持ち物検査やってたわね」
俺は頷いた。
結果はどうかはわからないが、今日の警察を見る限りでは何も見つからなかったのだろう。
「どちらにしても、明日このことを警察に報告しようぜ。運が良ければ、警察しか知らない情報が見つかるかも」
「わかった。明日、刑事さんに伝えるわね」
そして俺たち三人は一度引き上げることにした。
今日は事務所に戻らずそのまま直帰となる。俺たち三人は会場の玄関ホールで別れることになった。
「明日からは通常通り、事務所からこの会場に行きましょうか」
「了解。鍵は返すよ」
俺は部屋のルームキーを椿に渡した。
「ありがと。じゃあ、今日はここでおしまいね。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
俺たちがそれぞれの家路に着こうとした、その時だった。
――いつまでここにいるつもりだ
その声は低く重圧感のある、男性の声。
背後に立っていたのは神原姉妹の父、柳氏その人であった。




