第44話 怪しい噂
梔子萌夫人が事務所に依頼を持ち掛けてから一週間後、梔子夫人の誕生日がやってきた。
その間も俺たちは脅迫状の送り主について探るため、梔子夫人の周囲の人を探った。
ネットや新聞、テレビなどの記事から、財閥関係者にもあたって、情報を集めていた。
しかし、気になる情報は集まってこない……。
椿は三人の子供たちに脅迫状を書いた人物がいると睨んでいるようだが、出てくるのは三きょうだいの評判だけ。長男と長女は素行もよく、関係者たちにもよく挨拶をしていたらしい。そして、次男は疎遠になり、関係者たちもたまに見かける程度だと話していた。
それぞれ母親と対立しているのは事実でも、それだけで殺意をもつとは考えにくかった。
俺は事務所に来ていた。しかし、そこに神原姉妹の姿はなかった。
その代わり、俺には事務所のカードキーが手渡されていた。昨日の夜、椿から預かったものだ。俺はそのカードキーをドアの差込口に挿入して解錠した。
なぜ椿と紅葉ちゃんの姿がないのか。事の経緯はこうだ。
結論から言うと、二人は父親である神原柳氏とともに誕生会に出席することとなったからである。つまり、「仕事の依頼」ではなく「神原家の人間」として行くことになったのだ。
椿は強く拒否していたのだが、柳氏が “人生をやり直せる薬” の捜査の進捗状況を詳細に説明せよと言ってきたという。拒否すれば紅葉を連れ戻す、という発言も添えられた。
大切な妹の紅葉ちゃんを人質に取り、依頼を受けたければ進捗を話せという非常に狡猾な手段であった。
こうなると八方塞がりとなり、打開策を見いだせない。椿は紅葉ちゃんとともに父親と同行せざるを得なくなった。
***
前日の夜、椿は直接俺の家に来て、申し訳なさそうな声で事情を話していた。
「ごめんね。あなたには迷惑をかけるけど……」
「いいって。別に迷惑でも何でもないって。心配しなくても俺、時間通りに梔子さんとこ行くからさ」
「そう……」
「柳さんもやりすぎだよ。いくら何でも強引な……」
「……ありがと。いつもああなんだけど……少し頭が回るあたり本当に頭おかしいわあいつ」
「紅葉ちゃんをダシに使ったよなあ」
はあ……と椿からため息が漏れた。
しかし椿は気を取り直したのか、いつもの凛とした表情に戻った。
「まあ、こうなってしまったのは仕方ないから、当日は一人で向かってくれない? 事務所からは距離があるから、少し早めに出るといいわ。タクシーに乗れば、一時間近くで着くと思う」
「わかった」
「当日必要なもの言うから、忘れないようにメモしといて」
「了解」
***
台所の途中で、俺は鞄からメモ帳を取り出した。ここに、今日必要なものが書き記されている。
俺は事務室に入ると、さっそく外出の準備に取り掛かる。事務室近くにあるロッカーには俺の仕事用の鞄も入っていた。そして、この中に依頼人の梔子夫人の情報や、依頼内容が記載された書類が透明なクリアファイルに入っている。
今回、椿が同行できないので俺が現場に書類をもって出向くことになる。椿は事実上、私用で梔子夫人の誕生会に参加しなければならず、さらに父親の神原柳氏も同行している。探偵は個人情報も扱う仕事である以上、その扱いは厳重でなければならないのだ。もちろん、俺が持っていく書類も必要最低限のものである。
俺は身なりを整えて、さっそくスマホで近くのタクシー会社に連絡を入れた。タクシーはすぐに事務所前に来てくれた。俺は行き先を運転手に伝えると、タクシーは出発した。
タクシーの中で、俺は終始無言だった。聞いたことのないBGMがカーステレオから流れてくる。
俺の頭の中はこれから起こるであろう事件が占拠していた。
一体、だれが梔子夫人に脅迫しているのか……。
すると、運転手がルームミラー越しに話しかけてきた。
「お兄さん、若いのに梔子邸に行くとは……梔子さんの親戚か何かかい?」
いきなりは声をかけられたので一瞬戸惑い、陰キャ仕草を炸裂させる。
「え、あ、その……仕事で……。梔子さんの奥さんの誕生日会に」
「へえ……梔子さんのご婦人の誕生会にね」
運転手は白髪交じりの五十歳近い男性だった。
「ちょっと私用で呼ばれまして……」
「個人的なつながりがあるんだね。若いのにすごいね」
探偵やっているなんて、軽々しくは言えない。俺は裏を探られないよう、無難な言葉を選んだ。
タクシーが常盤市の中心地から離れた、新築の住宅が目立つエリアに移った。このあたりは市街や県外から移り住んできた人が多く、また、高収入世帯を対象とした物件が立ち並ぶエリアだ。
交差点の信号が赤に変わり、俺が乗っているタクシーが停車した。
運転手がルームミラー越しに、俺に目を合わせた。
「そういえば最近、梔子さん関係であんまりいい話は聞かないよ? そのご婦人が、夜な夜な外部から人を呼んで会議を開いてるそうだよ」
初耳だった。外部から人を呼んでいる? 財閥ならほかの組織や界隈とも交流があるだろうから、人の出入りが多いのは不自然な話ではない。
「でも、人を招くことは普通なんじゃ……」
しかし運転手は首を振った。
「呼んだ人がなかなかやばい人らしくてね」
「やばい人?」
「“ヤクの売人”らしいよ」
運転手は目を細めて俺を見つめると、その言葉を言い放った。
“ヤクの売人”。父の武勇伝で聞かされた言葉だ。
俺の父は麻薬などの違法薬物の案件を捜査したことがあった。昔よりも規制が強化されたとはいえ、今でも裏社会での取引が後を絶たないという。
もちろん、俺はタクシーの運転手の言葉は話半分で聞いていた。
「まさか、違法薬物の取引とか」
苦笑いしながら、俺は運転手に返答した。
タクシーの運転手も話を鵜呑みにしているわけではないようだ。
「俺もお客さん伝いに聞いただけだから、本当かどうかはわからねえよ。そんな話があるってことだ」
「はあ……。まあ、本当なら物騒ですよね」
俺に返しに運転手の表情が変わった。笑みは消え、真顔をルームミラー越しに俺に向けていた。
「でもな、兄ちゃん。こういうのは、裏で悪事を働いている奴がいるのが相場だ。大財閥となるとライバル企業も多いし、今は某感染症や世界情勢の煽りも受けて不景気。手荒なことしねえと儲からないんだ。特に薬は感染症の影響で裏の社会じゃ儲かるらしいぜ?」
まさか……。
妙にリアルな話に、俺の顔からも笑みは消えた。
だが、この時俺は知らなかった。
実際に、裏でうごめいていた陰謀に。




