第35話 変わってしまった
――はあ……はあ……はあ……
男――青崎の荒い息遣いが、カーテンを閉め切った黒部屋で響いて、消えていった。
――わかってるよ……それくらい
確かに覗きは犯罪だ。それは承知である。自分は、悪いことをしている。
しかも、あの白根という女性には想い人がいるのだ。数日前、隣人の部屋に入り込んだ虫たちを回収した時に、その写真を見てしまった。
彼女が作ったであろう小物やぬいぐるみに囲まれて、楽しそうに映る二人。
自分もつい最近まであの二人と同じように、幸せの中にいたのだ。しかし、それは交際していた女の演技だった。
嫉妬を覚えるかもしれないが、俺にあの二人をどうこうする権利はない。
青崎は鞄からあるものを取り出した。
小さな青い輪郭のハトのマークが刻印された白い錠剤。
二週間ほど前、あの女にゴミのごとく捨てられ、人生に絶望したその日に近所の公園で白い衣服を身にまとった男と女からタダで譲り受けたもの。
これを飲めば、人生をやり直せるという。
人というものは、極限状態や人生に絶望した時に絶対的な超自然的なものにすがりたくなるという。
この男も同じ状況だった。
普通の人間なら、こんな怪しい薬なんか売られても飲まない。
だけど、男は惨めな自分を捨て去りたかった。
しかし、今は違う。
気分はだいぶ落ち着いた。
子供のころからの友人だった、虫たちのおかげだった。
昔は夏にカブトムシやクワガタ、トンボを捕まえて育てたっけな……。昆虫モチーフの漫画やゲームにたしなんだこともあった。友人もたくさんできたと思う。
隣の部屋にいるという彼女――俺の目に狂いがなければあの女性は……だが、もうあの時代じゃない。
スマホについたコガネムシのキーホルダー。
これは、手芸好きな彼女からもらったものだ。
青崎は立ち上がると、壁紙でふさがれているのぞき穴に向かった。
家具でふさぐか……。飼っていた虫が隣の部屋に行ってしまった点も悪いと思っているが、もう回収に行くわけにはいかないだろう。
男は重い昆虫図鑑や雑誌が並べられた本棚を動かし、穴を隠した。
部屋にいる虫たちも飼育ケースに向かうように仕向け、更に部屋を掃除した。飼育ケースの手入れも欠かさない。
彼らが自分の心を癒してくれる唯一の存在だから。
――しばらくしたら、ここを出るか
時間が経ったら、この部屋を引き払って実家に帰ろう。
そう思いながら、男は部屋の掃除を始めた。




