第34話 しわくちゃの男
俺たちはアパートにいたほかの住民に、白根さんの隣の部屋に住んでいる人のことについて聞き取りを行った。
ただ、その住民を見た人は少なく、夕方か、夜にたまに見かける程度。誰も話したことはなく、むしろ威嚇するように住民たちを睨んでいたという。
一方で、こんな情報もあった。
一階に住んでいる大学生の男性が彼と話したことがあったといい、情報を提供してくれた。
「ああ、あのお兄さんですか。確かに見た目は悪そうだけど、案外そうでもないですよ?」
眼鏡をかけ、チェック柄の上着を羽織ったその人は、その男が重そうな段ボールを持って階段を上ろうとしていた時に、辛そうにしていたのを見かねて手伝ったという。
男性によればそれは昆虫の飼育ケースだった。この男性も小動物が好きで、昆虫にも興味があったことから会話が弾んだらしい。
男は青崎学と名乗った。
「大昔に後輩からもらったコガネムシのキーホルダーが気に入ってるらしくて、いつもスマホのストラップに着けてるんですよ」
「へえ、好きなんですか?」
「唯一の後輩だったらしくて、結構仲良かったそうですよ?」
意外な表情をする椿。
メモを取る俺も、その男は意外だなと思った。
「確かに第一印象は良くないかもしれないけど、俺にとっては同じオタクとして立派な人だと思いますけどね」
少なくとも男性にとっては、印象は悪くないようだった。
意外な側面もあるのか、と俺は考えていたがそれよりも気になったのは白根さんだった。
白根さんは話を聞きながらも何か考え込んでいるようだった。
その日の夕方。
日が落ちて寒くなる中、俺は手袋をすり合わせ、白い吐息を吐き出していた。
俺と椿、紅葉ちゃん、そして依頼人の白根さんの四人は、椿の車に乗り込んで、駐車場で隣人の帰りを待った。
そして待つこと三十分。
「椿さん、あの人です」
白根さんが小声で椿に呼びかける。
「現れたんですね」
椿は目を凝らして、駐車場の入り口に目をやった。
俺と紅葉ちゃんも、椿に倣ってそいつを確認した。
それらしき人物が現れた。
黒いジャケットに、紺色のズボン。そして、大きなポリタンクを複数持った、顔がぼさぼさで眼鏡をかけた男。髭を剃り残しているのか、無精髭が伸びている。
間違いなく、青崎だった。
「行くわよ、みんな」
椿が俺たちに声をかけると、俺と紅葉ちゃん、そして白根さんは軽くうなずいた。
気づかれないように、俺たちは青崎の後をつけた。
一般人がやればストーカーだが、これは仕事。俺たちは普通にやっていることだ。
あの男が白根さんの隣の部屋に入れば、白根さんの部屋をのぞき見していた張本人となる。
案の定、その若い男は白根さんの部屋の隣――つまり、穴の奥が見えていた部屋の前で立ち止まった。鞄から鍵を取り出し、中に入っていく。
俺たちは顔を見合わせ、彼の後を追った。
男の部屋のドアをノックし、様子をうかがう。
「ごめんくださーい。隣の部屋に住んでいる者ですけど」
隣の部屋の主である白根さんに代わって、椿が声をかける。
しばらくして、部屋のドアが開いた。
「……何」
しわくちゃの髪に眼鏡をかけた渦中の男が出てきた。身長は俺と同じくらいで、体格はやせ型。
だが、男は不機嫌そうな表情をこちらに見せ、俺は一瞬ビビってしまう。
間違いなく、眼鏡の男性が言っていた男――青崎学だ。
しかし、探偵事務所のトップである椿は臆さずに青崎に対して、毅然とした姿勢を見せた。
「すいません。私、隣の部屋の人の友達です。友達から相談を受けたんですが、あなた、壁から友達の部屋をのぞき見してませんか?」
「……!」
単刀直入な一言に、青崎の口元が動いた。
青崎は椿の後ろにいた白根さんに目をやった。
彼女の瞳が丸くなる。本能的に一歩後ずさる。
それを確認したのか、青崎は白根さんから目を離し、そ矛先を椿に向けた。
「な、なんだよ……急に。し、してねえよ」
青崎は反論するが、その目の焦点があっておらず、反論は床に落ちていく。
図星だったようだ。
「してない? なら、私たちはここには来ませんよ。友達から証言を得て、壁の穴も確認させていただきました。あなたの部屋で飼っていた虫、そしてそちらの部屋から貫かれた穴」
椿の鋭い眼光が、青崎の胸に突き刺さる。
俺は証言と部屋の状況から組み立てた推理を彼女に伝えていた。
「部屋から覗いていたんじゃないんですか?」
椿は改めて男に向かって問い詰めた。
「私の友達が迷惑してるんです。一応、大家さんにも注意を入れていただくつもりです」
「……」
椿の追及に、青崎は押し黙った。
たぶんこいつは、根は臆病なんだ。どこか、先月発生した事件を思い起こさせた。
そして、青崎はぎっと俺たちを睨みつけた。
「帰ってくれ! やらなければいいんだろ、やらなけりゃ! 申し訳ございませんでした!」
捨て台詞を大声で叫ぶ。
そして、彼はその目を白根さんに向けた。彼女は怯えているのか、一歩後ずさる。
「な、なんですか……」
「……」
あたりに張り詰めた緊張が走った。
椿は毅然とした態度で状況を見守る。
俺も、いざというときのために構えていた。
紅葉ちゃんは固唾を吞んでその様子を見守った。
しかし、次の刹那に出た言葉は、意外過ぎるものだった。
「すまなかった」
そう言って頭を下げると、男はごく普通にドアを閉めた。
俺たちは男が閉じたドアを見ながら、状況を見守っていた。しかし、ドアが開くことはなく、そのまま夜になってしまった。
青崎は本当に覗きを認めたのだろうか。
だが、意図的に開けられた壁の穴や、白根さんの証言、そして部屋の様子からこの男が覗いていた可能性が非常に高い。
少なくとも、くぎを刺すことに意味はあった。
白根さんは俺たちを駐車場まで送ってくれた。
「神原さん、金谷さん、そして、紅葉ちゃん……今日はありがとうございました」
彼女は軽く頭を下げていた。
「いやいや、これも仕事ですから」
椿は笑顔で返答する。
「たぶん、もう大丈夫ですよね。素直に謝ってくれたから」
白根さんは不安そうにアパートを見上げた。
椿も白根さんに倣って、青崎の部屋があるドアに目をやる。
「まあ、それは相手の善意を信じるしかないですね。念のため、もし何かあれば警察や私たちに連絡お願いしますね」
一応、この覗きに関しては後日大家さんに報告する予定である。一方、相手の態度からしばらくは問題ないだろうということで、警察への相談は控えた。そして、数日後、俺たちは経過を確認するため、再びアパートを訪れることにしていた。
椿がそう返すと、白根さんはほっと安堵したように一息ついた。
その後俺たちは椿の車に乗って事務所への帰路に就いた。俺も、椿も、紅葉ちゃんもこのまま平穏に事が済むことを願っていた。




